鉄道唱歌・関西・参宮・南海編
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地理教育鉄道唱歌(五)
関西・参宮・南海編
大阪〜伊勢〜和歌山
一 汽車をたよりに思ひ立つ 伊勢や大和の国めぐり
網島いでて関西の 線路を旅の始にて
二 造幣局の朝ざくら 桜の宮の夕すずみ
なごりを跡に見かへれば 城の天守も霞みゆく
大阪造幣局内部初公開!(戦前)
三 咲くや菜種の放出(はなてん)も 過ぎて徳庵住の道
窓より近き生駒山 手に取る如く聳えたり
四 四条畷に仰ぎみる 小楠公の宮どころ
ながれも清き菊水の 旗風いまも香らせて
五 心の花も桜井の 父の遺訓を身にしめて
引きは返さぬ武士(もののふ)の 戦死のあとは此土地よ
六 飯盛山をあとにして 星田すぐれば津田の里
倉治の桃の色ふかく 源氏の滝の音たかし
七 柞(ははそ)の森と歌によむ 祝園(ほうその)すぎて新木津の
左は京都右は奈良 奈良は帰りに残さまし
八 京都の道に名を得たる 駅は玉水宇治木幡
佐々木四郎の先陣に 知られし川もわたるなり
九 共仁(くに)の都の跡と聞く 加茂を出づれば左には
木津川しろく流れたり 晒(さら)せる布の如くにて
一〇 川のあなたにながめゆく 笠置の山は元弘(げんこう)の
宮居の跡と聞くからに ふるは涙か村雨か
左:木津川 右:笠置山の貝吹岩(大正3年)
一一 水をはなれて六丈の 高さをわたる鉄の橋
すぐればここぞ大河原 河原の岩のけしきよさ
一二 上野は伊賀の都会の地 春はここより汽車おりて
影もおぼろの月ヶ瀬に 梅みる人の数おほし
一三 月は姥捨須磨明石 花はみよしの嵐山
天下一つの梅林と きこえし名所は此山ぞ
一四 伊賀焼いづる佐那具(さなぐ)の地 芭蕉うまれし柘植(つげ)の駅
線路左にわかるれば 迷はぬ道は草津まで
一五 鈴鹿の山のトンネルを くぐれば早も伊勢の国
筆捨山の風景を 見よや関より汽車おりて
一六 愛知逢坂鈴鹿とて 三つの関所と呼ばれたる
むかしの跡は知らねども 関の地蔵は寺ふるし
一七 巌(いわお)にあそぶ亀山の 左は尾張名古屋線
道にすぎゆく四日市 舟の煙や絶えざらん
一八 万古の焼と蛤に 其名知られし桑名町
日も長島の西東 揖斐と木曽との川長し
桑名(明治初期)
一九 亀山城をあとにして 一身田も夢のまに
走ればきたる津の町は 参宮鉄道起点の地
二〇 町の社に祭らるる 神は結城の宗広と
きこえし南朝忠義の士 まもるか今も君が代を
二一 阿漕が浦に引く網の 名も高茶屋の雲出(くもづ)川
わたりながらも眺めやる 桃のさかりやいかならん
二二 木綿産地の松坂は 本居翁の墳墓の地
国学界の泰斗とて あふがぬ人はよもあらじ
二三 田丸の駅に程ちかき 斎宮村は斎王の
むかし下りて此国に 住ませ給ひし御所の跡
二四 轟きわたる宮川の 土手の桜の花ざかり
雲か霞か白雪か にほはぬ色の波もなし
二五 伊勢の外宮のおはします 山田に汽車は着きにけり
参詣いそげ吾友よ 五十鈴(いすず)の川に御祓(みそぎ)して
【伊勢神宮】外宮(明治30年)
二六 五十鈴の川の宇治橋を わたればここぞ天照す
皇大神(すめおおかみ)の宮どころ 千木(ちぎ)たかしりてたち給ふ
【伊勢神宮】宇治橋と内宮(明治30年)
二七 神路の山の木々あをく 御裳濯(みもすそ)川の水きよし
御威(みいつ)は尽きじ千代かけて いづる朝日ともろともに
二八 伊勢と志摩とにまたがりて 雲井にたてる朝熊(あさま)山
のぼれば富士の高嶺まで 語り答ふるばかりにて
二九 下りは道を踏みかへて 見るや二見の二つ岩
画に見しままの姿にて 立つもなつかし海原に
【伊勢神宮】二見の夫婦岩(明治30年)
三〇 今ぞめでたく参宮に すまして跡に立ちかえる
汽車は加茂より乗りかへて 奈良の都をめぐりみん
三一 はや遠ざかる奈良の町 帯解寺も打ちすぎて
渡るながれは布留の川 石の上とはここなれや
三二 都のあとを教へよと いへども答へぬ賎(しづ)の男(お)が
帰るそなたの丹波市 布留の社に道ちかし
三三 三輪の杉むら過ぎがてに なくか昔のほととぎす
今は青葉の桜井に 着きたる汽車の速やかさ
三輪山全景(戦前)
三四 ここよりおりて程ちかき 長谷の観音ふし拝み
雄略帝が朝倉の 宮の遺跡もたづねみん
三五 初瀬列樹(なみき)の宮のあと 問はんとすれば日は落ちて
初瀬の川の夕波に ふくや初瀬の山おろし
三六 さぐる名所の楽しさに 思はずのぼる多武の峰
峰にかがやく鎌足の 社のあたり花おほし
三七 桜井いでてわが汽車は 畝傍耳無香山の
鼎に似たる三山を 前後に見つつ今ぞゆく
三八 畝傍の麓橿原に 始めて都したまひし
御威も高き大君が 御陵をがめ人々よ
神武天皇御陵
三九 高田わかれて右ゆけば 河内に走る線路あり
路にすぎゆく柏原の 名高き寺は道明寺
四〇 右の窓よりながめやる 葛城山の南には
楠氏の城に名を挙げし 金剛山もつづきたり
四一 新庄御所(ごせ)を打ちすぎて 掖上(わきがみ)ゆけば神武帝
国を蜻蛉(あきつ)と宣ひし ロ兼間(ほほま)の丘ぞ仰がるる
四二 終れば起る鉄道の 南和と紀和の繋口(つなぎぐち)
五条すぎれば隅田より 紀伊の境に入りにけり
四三 瞬くひまに橋本と 叫ぶ駅夫に道とへば
紀の川わたり九度山を すぎて三里ぞ高野まで
四四 弘法大師この山を ひらきしよりは千余年
蜩(ひぐらし)ひびく骨堂の あたりは夏も風さむし
四五 木隠をぐらき不動坂 夕露しげき女人堂
みれば心もおのづから 塵の浮世を離れけり
四六 ふたたび渡る紀の川の 水上とほく雲ならで
立てるは花の吉野山 見て来んものを春ならば
四七 あはれ暫(しばし)は南朝の 仮の皇居となりたりし
吉水院の月のかげ 曇るか今も夜な夜なは
吉野朝宮址と吉水神社(戦前)
四八 夕べ悲しき梟(ふくろう)の 声なり猶も身にしむは
如意輪堂の宝蔵に のこる鏃(やじり)の文字のあと
四九 親のめぐみの粉河より また乗る汽車は紀和の線
船戸田井の瀬うちすぎて 和歌山みえし嬉しさよ
五〇 紀の川口の和歌山は 南海一の都会にて
宮は日前国懸(ひのくまくにがかす) 旅の心の名草山
五一 紀三井寺より見わたせば 和歌の浦波しづかにて
こぎゆく海士(あま)の釣船は うかぶ木の葉か笹の葉か
五二 芦辺のあしの夕風に 散り来る露の玉津島
苫が島には灯台の 光ぞ夜は美しき
五三 蜜柑のいづる有田村 鐘の名ひびく道成寺
紀州名所は多けれど 道の遠きを如何にせん
五四 みかへる跡に立ちのこる 城の天守の白壁は
茂れる松の木の間より いつまで吾を送るらん
戦争で焼失する前の和歌山城
五五 北口いでて走りゆく 南海線の道すがら
窓に親しむ朝風の 深日はここよ夢のまに
五六 尾崎に立てる本願寺 樽井にちかき躑躅(つつじ)山
やまず来て見ん春ふけて 花うつくしく咲く頃は
五七 佐野の松原貫之が 歌に知られし蟻通(ありどおし)
蟻のおもひにあらねども とどく願は汽車の恩
五八 貝塚いでしかひありて はや岸和田の城の跡
ここは大津かいざさらば おりて信太(しのだ)の楠も見ん
五九 かけじや袖とよみおきし その名高師(たかし)が浜の波
よする浜寺あとに見て ゆけば湊は早前に
六〇 堺の浜の風景に 旅の心もうばはれて
汽車のいづるも忘れたり 霞むはそれか淡路島
六一 段通刃物の名産に 心のこして又も来ん
沖に鯛つる花の春 磯に舟こぐ月の秋
六二 蘇鉄に名ある古寺の 話ききつつ大和川
渡ればあれに住吉の 松も灯籠も近づきぬ
六三 遠里小野の夕あらし ふくや安倍野の松かげに
顕家父子の社あり 忠死のあとは何方(いづかた)ぞ
六四 治まる御代の天下茶屋 さわがぬ波の難波駅
いさみて出づる旅人の 心はあとに残れども
制作:2001年12月24日
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