「さざえ堂」の世界
江戸時代の人気スポットをコンプリート

曹源寺観音堂の内部
曹源寺観音堂の内部


 文化文政時代(19世紀前半)、隠居した十方庵敬順は江戸周辺の名所旧跡を訪ね歩いて、その記録を『遊歴雑記』に残しました。

 そのなかに「現在の埼玉県本庄市に、本所の五百羅漢寺の栄螺(さざえ)堂に似た建物があり、100観音が設置されている。周囲は風光明媚ですばらしい」という話が記録されています。

《浄周院は、中山道本庄宿の西南3里にあり、この道路平山にして、もっともさびしく、多くは松山のみあり、すでに浄周院にいたれば、百観音を安置せり、この観音堂の作事はあたかも本所五百羅漢の栄螺堂の摸形に髣髴(ほうふつ)たり、この堂の頂上へ段々と登臨して、四方を遠見するに、風色天然にして、さらに言の葉たえたり……》

百体観音堂
百体観音堂


 この百体観音堂は、天明3年(1783)の浅間山の大噴火の犠牲者を弔うために建立されました。外から見ると2層ですが、内部は3層になっていて、回廊に100観音(1階が秩父34観音、2階が板東33観音、3階に西国33観音)が安置されています。

 面白いのは、拝観客が中に入ると、建物を右回りの螺旋状に3周上って頂上に着き、今度は、そのまま3周下って出口に出る点です。その間、ルートは一方通行になっていて、同じ場所は通りません。つまり、別の観光客とすれ違うことはないのです。

百体観音堂入口
百体観音堂入口(右の鰐口は直径1.8mで日本最大、内部は撮影禁止)


 仏に対する3度回る仏教の礼式「右繞三匝(うにょうさんそう)」を具現化したもので、まるでサザエのように回廊を上ることから、こうした建物をさざえ堂と呼びます。

歌川広重『名所江戸百景』より「五百羅漢さゞゐ堂」
歌川広重『名所江戸百景』より「五百羅漢さゞゐ堂」(国会図書館)


 さざえ堂は、1741年(『江戸名所図会』による)、江戸本所に創建された羅漢寺がその最初とされています。寺には五百羅漢像など536体の彫像があったのですが、その一角にさざえ堂がありました。特殊な構造は当時、大人気を呼び、江戸の人気スポットとなりました。

 先に触れた十方庵敬順も、ここを訪問しています。

《頂上に登臨して南面の舞台へ出て、東西南の三方を眺望すれば、南の方はるかに深川の洲崎より芝浦の海浜まで一望の中にありて、四季ともに風色とかくの論なし》

 南面の舞台については、葛飾北斎の浮世絵を見れば一目瞭然です。右手の人物は疲れて座り込んでいることがわかります。

葛飾北斎『冨嶽三十六景』より「五百らかん寺さゞゐどう」
葛飾北斎『冨嶽三十六景』より「五百らかん寺さゞゐどう」(東京国立博物館)


 彫刻家・高村光雲も、この羅漢寺について記録しています。

《本所の五ツ目に天恩山羅漢寺というお寺がありました。その地内に栄螺堂(さざえどう)という有名な御堂がありました。形は細く高い堂で、ちょうど栄螺の穀(から)のようにぐるぐると廻って昇り降りが出来るような仕掛けに出来ており、3層位になっていて大層よく出来た堂であった。

 もし今日これが残っておれば建築家の参考となったであろう。堂の中には100観音が祭ってあった。上(のぼり)下(くだり)に50体ずつ並んで、それはまことに美事(みごと)なもので、当寺の五百羅漢と並んで有名であります》(幕末維新懐古談「本所五ツ目の羅漢寺のこと」より)

さざえ堂(「江戸名所図絵」より)
さざえ堂(「江戸名所図絵」より)


 仏像の多くは、恵まれた家の人たちが寄進したものですが、「せっかく寄進するなら、名のある仏師に頼もう」ということで、かなりの名人の作品が並ぶことになりました。仏師としても、公衆の面前に並ぶことから、腕によりをかけて作ったと、光雲が記録しています。


羅漢寺の内部(「江戸名所図絵」)
羅漢寺の内部(「江戸名所図絵」)


 しかし、栄螺堂は安政地震で大破し、1875年ごろに取り壊されました。安置されていた100体の仏像は地金屋に売り払われたものの、そのうち5体を、高村光雲が買って救い出しました。

 残りの95体はどうなったのか――光雲は、どうせ焼けてしまうからと、玉眼と白毫(=びゃくごう。眉間に嵌めてある水晶で作った宝玉)を回収しようと、《片ッ端から続目(つぎめ)を割って抜き取りました》(幕末維新懐古談「栄螺堂百観音の成り行き」)と悲しい話を書いています。
 
 さて、大人気を博したさざえ堂は、その後、関東から東北にかけて多くの地域でさかんに作られました。東京では唯一、足立区の西新井大師の三重塔が残っています(入場不可)。

西新井大師さざえ堂
西新井大師のさざえ堂

西新井大師さざえ堂の内部
西新井大師さざえ堂の内部


 東京以外では、現在は百体観音堂以外に

・蘭庭院さざえ堂(青森県弘前市)=八角堂
・長禅寺三世堂(茨城県取手市)=方形
・曹源寺観音堂(群馬県太田市)=方形
・旧正宗寺円通三匝堂(福島県会津若松市)=六角堂

 が現存しているのみです。

 弘前にある蘭庭院さざえ堂は、地元の豪商が海難や飢饉で死んだ人を追悼するため、作られました。内部には入れませんが、外から少しだけ覗けるようになっているので、スロープの写真をあげておきます。ちなみに、屋根は八角ですが、なぜか「六角堂」と通称されています(入場不可)。

蘭庭院さざえ堂
蘭庭院さざえ堂

蘭庭院さざえ堂の内部
蘭庭院さざえ堂の内部


 長禅寺三世堂は、基本、非公開です。三世とは「過去・現在・未来の3000仏を安置」から来ており、やはり内部には仏像が並んでいることがわかります。

 ここを訪れた十方庵敬順は、

《頂上の高閣に登臨すれば、左の方はるかに芙蓉峰(富士山)を
望み、また眼下には利根の長流の溶りし渚の風情は、天然にして絶景》

 とその眺望のすばらしさを語っています。ちなみに1階を「嘨 月楼」、2階を「臥籠窟」、3階を「臨湖閣」と呼んだようです。

長禅寺三世堂
長禅寺三世堂

長禅寺三世堂の内部
長禅寺三世堂の内部


 曹源寺観音堂は、新田義重の娘・祥寿姫の菩提を弔うために建てられた六角堂が起源で、内部の撮影も可能です。さっそく内部に入ってみると――。

曹源寺観音堂
曹源寺観音堂

曹源寺観音堂の内部
曹源寺観音堂の内部

曹源寺観音堂の出口部分
曹源寺観音堂の出口部分


 現存しているさざえ堂で、もっとも有名なのは、会津若松の旧正宗寺円通三匝堂です。

会津若松のさざえ堂
会津若松のさざえ堂


 これは白虎隊の墓の近くにそびえる仏教建築で、1796年に僧・郁堂が建造したもの。高さ16.5メートル。正式名称は「旧正宗寺円通三匝堂(えんつうさんそうどう)」といいます。

会津若松のさざえ堂の入口
さざえ堂入口


 入口から入って右回りに坂を上って、天井に着いたらあとは左回りに下りるだけ。昔は、スロープに沿って西国33観音像が安置されていました。すごいのは、多くのさざえ堂と異なり、二重構造のらせん階段になっていることです。

会津若松のさざえ堂
右回りのスロープを登っていくと…


 ちなみに、このさざえ堂、大正天皇も昭和天皇も現上皇も、それぞれ皇太子時代に参観しています。同じルートを通らず出口まで出られる世にも不思議な建造物、いったいどんな感想を持ったのでしょうね。

会津若松のさざえ堂頂上
さざえ堂天井に到着。今度は左回りに降りると出口に


更新:2023年12月3日

<おまけ>

 日本百観音とは、西国33・坂東33・秩父34の100観音をめぐるもので、通常は秩父34番の水潜寺で結願となります。長野県佐久市にある大永五年(1525年)の石碑に記録があることから、これ以前に日本百観音巡礼が考案されていたことがわかります。

 ちなみに『今昔物語』に、《この男、毎月の18日に持斉して、ことに観音に仕けり。また、その日100の寺に詣でて、仏を礼し奉けり》とあることから、少なくとも平安時代には100観音めぐりの思想があったことがわかります。
   
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