日本製糖史
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製菓と製糖の始まり
お菓子誕生はいつ?
日本人で初めて「金平糖」を食べたのは織田信長です。ポルトガルの宣教師ルイス=フロイスが1569年に贈ったもので、『耶蘇会士日本通信』に記録されています。
砂糖を使ったお菓子は「南蛮菓子」と呼ばれますが、南蛮菓子が渡来したのはもう少し早く、文献上は、1550年に来航したポルトガルの貿易船が、平戸領主・松浦隆信に献上したものが最初です。
砂糖を日本に持ち込んだ鑑真
では、砂糖自体が伝わったのはいったいいつか?
これは754年に来朝した鑑真が持ってきたというのが通説です。鑑真の積荷のリストに「石蜜」「蔗糖」とあり、「石蜜」は氷砂糖、「蔗糖」は黒砂糖だとされているのです。
ちなみに『正倉院文書』756年には、
《奉 慮舎那仏(=東大寺の大仏) 種々薬……蔗糖2斤12両3分》
とあって、当時砂糖が薬に用いられていたことがわかります。
砂糖は江戸中期には大名の茶菓子となり、明治時代には高級菓子として一般家庭にも普及し始めましたが、基本的には庶民には縁遠いものでした。
で、日本で最初に洋菓子を作ったのは、両国若松町にあった米津風月堂。これは「風月堂総本店」から明治5年(1872)に米津松造がのれん分けされた店で、明治10年にケーキ、明治11年にチョコや洋酒入りボンボン、ビスケットを製造開始しました。ちなみに当時、チョコレートは「貯古齢糖」と書きました。
「身体の健康を増し、根気を強くするの薬菓なり」
明治12年頃の「菓子ミルク」(ミルクケーキ)の広告
小規模だった洋菓子産業を一挙に大きくしたのが、明治32年に森永太一郎が設立した森永西洋菓子製造所。明治時代にはビスケットとドロップで、大正時代にはキャラメルとチョコで人気を集めました。
明治41年には佐久間惣次郎商店が創業し、ドロップス革命が起こりました。それまで水飴を材料にして溶けやすかったドロップが、酸味料と砂糖を使うことで溶けにくくなったのです。
もう1つ、日本で最初にショートケーキを作った不二家は明治43年創業です。
でだ。有名なお菓子メーカーといえば明治製菓がありますが、実はこの会社が作られたのは1916年なんで、大正5年です。そもそも元の社名は大正製菓でした。いたいなぜ大正時代に作られた会社が明治と名乗っているのか?
いつもながら前書きが長くなりましたが、今回は明治製菓を振り出しに、日本の製糖史を振りかえります。
明治初年の日本の製糖の様子
まず砂糖製造は、一般的にはサトウキビから作るカンショ糖と、テンサイから作るテンサイ糖(ビート糖)の2種類ありますが、日本では沖縄・鹿児島でサトウキビが、北海道でテンサイが作られています。
国産砂糖の始まりは、
●1610年、奄美大島の直川智(すなおかわち) が中国の福建に漂着、そこで技術を習得し、帰国後に製造開始した
というのが通説ですが、実際は
●1623年、琉球の儀間真常(ぎましんじよう)が福建に人を遣わして習得させた
のが最初のようです。この沖縄の製糖技術が川智の孫の嘉和知(かわち)によって、元禄年間(1688〜1704)初期に奄美大島に伝わったと『南島雑話』に書かれています。
明治13年、北海道の国営甜菜(てんさい)製糖工所に設置されたフランス製の精糖機
近代製糖は明治に入ってから始まりました。
日本初の大規模製糖会社は、明治29年に設立された日本精製糖です。明治39年に渋沢栄一が作った日本精糖(大阪)を合併、大日本製糖株式会社となりました。
明治28年、日清戦争で勝利した日本は清から台湾を手に入れ、これでわが国の製糖産業が大きく育ち始めます。
政府は明治33年、三井財閥の出資で台湾製糖を設立、明治39年には大日本製糖が台湾に進出。同じく、この年、明治製糖が台湾で設立されました。
台湾製糖が導入した台湾初の発電機(明治35年)
もうおわかりだと思いますが、この明治製糖の製菓部門が、大正5年に作られた大正製菓。これが東京菓子会社に合併され、大正13年に明治製菓と改称しました。
明治製菓
では明治乳業はどうか。
前身は大正6年に作られた極東練乳ですが、これは現在のアサヒビールとサッポロビールの元を作ったビール王・馬越恭平らが設立した会社です。乳製品を扱っていた明治製菓と完全に競合するので、明治製糖によって買収されました。そして昭和15年、明治製菓の乳業部門が譲渡され、明治乳業が誕生したのです。
つまり、明治製菓と明治乳業は兄弟会社だったわけです。
で、詳細は省きますが、1996年、大日本製糖と明治製糖が合併し、今は大日本明治製糖となっています。三菱商事の100%子会社であり、ブランドは大日本製糖のばら印を継続しています。
さて、以下、ちょっとビックリする話を。
大日本製糖は昭和2年(1927)、沖縄・大東諸島(北大東島、南大東島、沖大東島)で製糖事業をしていた東洋製糖を合併します。製糖は南大東島がメインで、北大東島と沖大東島はリン鉱業が盛んでした。
東洋製糖はもともと玉置半右衛門の玉置商会という個人会社で、島には集荷などに使う玉置商会経営のトロッコ線が張りめぐらされていました。南大東島で言えば、東西・南北とも6キロ前後の島に、最盛期で計9線、総延長31キロにもわたる線路が敷かれていたのです。
南大東島の製糖工場
で、この玉置商会という会社は、実は大東諸島の自治まで行っていました。
自治とはどういうことか?
大東島は私有地なので、村役場はなく、住人は結婚や出産、徴兵検査は本籍地で行う必要がありました。
島内でしか流通しない「物品引換券」という紙幣があり、渡航者にはビザのような「渡島承認証」が発行されました。
《道路建設やゴミ収集などは玉置商会が行ない、学校や診療所も玉置商会が経営。郵便は玉置商会を経由し、外部から島へ手紙を出す場合は宛て先を「大阪郵便局気付」と書いて、大阪から島まで玉置商会の船が運ぶ仕組み。さすがに警察権までは与えられず、玉置商会が政府に金を払って巡査を派遣してもらっていた》(吉田一郎『国マニア』)
すごいですな。絶海の孤島に“独立国”があったとは!
北大東島のリン保存所
しかしまぁ、独立国といえば格好いいですが、実際は植民地同然。住民たちは土地所有権を望みましたが、それは叶わぬ夢でした。
この状況を変えたのは、沖縄を占領しつづけたアメリカで、高等弁務官布告第22号「両大東島の土地所有権について」(Land Ownership in the Daito Islands)により、企業統治は終焉したのでした。それは戦後19年たった1964年のことでした。
なお、沖大東島(ラサ島)は現在でもラサ工業の私有地です。
制作:2008年9月22日
<おまけ>
戦争が激化すると、町から砂糖は消えていきました。
昭和24年、水飴の統制が解除され、翌年には業務用砂糖の配給が始まりました。さらに昭和26年には雑穀(水飴の原料)の統制が外れ、これで戦後のお菓子業界が復活することになりました。
ちなみにドロップス革命を起こした佐久間惣次郎商店ですが、戦時中に砂糖の供給が止まったことで解散せざるを得なくなりました。戦後、会社は復興するも2つに分裂し、「サクマ式ドロップス」を「佐久間製菓」が、「サクマドロップス」を「サクマ製菓」が作っています。
戦後の砂糖購入券