朝鮮出兵から関ケ原への道
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石田三成「人望」喪失記
関ヶ原合戦で裏切られまくった男
関ヶ原ウォーランド
1592年夏。
現在の北朝鮮と中国の国境にあたる豆満江ぞいに高嶺鎮を目指すと、目の前に、まるで富士山のような「すり鉢」状の小さな山が見えてきました。この地は女真族の支配下にあったので、山は「女真小富士」と名付けられました。
命名したのは加藤清正。
豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)での出来事です。
女真小富士
加藤清正は文禄の役(1592ー1593)で二番隊を務めており、漢城(ソウル)落城のとき、一番隊の小西行長に一番乗りを奪われています。
悔しさのためか、そのまま平壌・開城まで北上し、そこから一気に満州に入り、女真族と戦っています。
しかし、このルートから明に攻め入ることは出来ないと判断し、すぐに南下しました。
東萊城の戦い(ウィキペディアより)
朝鮮出兵に関する重要な一次資料は、意外に数が少ないんですが、一番有名なのが、ソウル陥落後に秀吉が書いた直筆の手紙です。
この第2項には、「朝鮮王が逃げたので、急いで渡海し、大明国も一挙に征伐し、『大唐の関白』になる」という強い意志が書かれています。
「大明国」「大唐之関白」と記された秀吉の書状
しかし、戦いが進むにつれ、日本は補給途絶と大飢饉で苦戦しはじめます。
ここで、小西行長と石田三成が中心となって講和が進められました。
兵士を奮起させるため、加藤清正の陣地で回された「回章」。金箔に墨書き。
「小西行長に出し抜かれ敵地に深入りしたが、両王を生け捕らねば帰国できぬ」
秀吉は、連戦連勝という報告を受けており、きわめて強硬な講和条件を打ち出します。
その内容は、
1 明の皇帝の皇女を天皇の后にする
2 日明貿易を再開する
3 朝鮮八道のうち四道を日本へ割譲する
4 王子と大臣1名ずつが人質として日本へ来る
5 捕虜の王子は返還する(実行済み)
6 日本と明の大臣は互いに誓紙を交わす
7 朝鮮の大臣も誓紙を出す
というものでした。一方、明には、小西らが「秀吉を日本王と封じてもらい、朝貢もする」という低姿勢の条件を出していました。
清正が生け捕り、日本に連れ帰った王子・臨海君の手紙
この条件を加藤清正ら武闘派は飲めるはずもなく、日本側は分裂の危機にありました。
そこで、小西行長は秀吉に「加藤清正はひどすぎる」と、あることないこと吹き込みます。
具体的には
・加藤清正は明の使者を殺すなど、講和の妨害ばかりする
・許可も得ず、公文書に「豊臣清正」と書いた
・明の使者に向かって「小西行長は商人であって大将ではない」などと嘘をついた……
この報告を受けた秀吉は怒り狂い、加藤清正を日本に呼び戻します。
名護屋城跡
腑に落ちない清正は、これを石田三成の策謀だと判断します。憤懣やるかたない清正は、帰国後、秀吉の怒りを解くべく、比較的中立な増田長盛に取りなしを頼みました。
増田長盛は、「秀吉の右腕である石田三成と仲よくせよ」とアドバイスします。
すると、清正は「石田三成と仲よくすることなど生涯あり得ない。あいつは朝鮮にいながら一度も戦いをせず、陰口ばかりきいて、人を蹴落とすことしか考えない汚い人間だ。たとえ切腹を命じられようと、仲直りはしない」と答えたのです(『続撰清正記 』による)。
小西行長は戦ったからまだ許せるとしても、石田三成だけは許せない——これが諸大名の共通認識でした。
小西と石田三成は「文治派」と呼ばれ、清正らは「武断派」といわれ、この対立は深刻になっていました。
秀吉に与えられた明の冊封「特封爾為日本国王」
結局、明からは「秀吉を日本国王に封じる」との手紙が来て、唖然とした秀吉はふたたび朝鮮出兵を決断します。これが慶長の役(1597ー1598)。
慶長の役で、もっとも有名な戦いが、釜山近郊にある蔚山(イルサン)での戦闘です。
完成前で、食料準備もできていない蔚山城に籠城した加藤清正は、落城寸前まで追いつめられていました。そこに、毛利秀元らが率いる援軍が到着し、逆に大勝利するのです。
この戦いで、先鋒となって敵に飛び込んでいったのが、吉川広家。その勇猛ぶりに、加藤清正は馬印を与え、労をねぎらいました。
しかし、後に石田三成は、この行為を軍紀違反だとして批判することになります。
実際に使われた朝鮮の地図
蔚山城の戦いが終わると、総大将・宇喜多秀家、加藤清正、小早川秀秋らは、蔚山・順天・梁山の3つの城を放棄するよう、豊臣秀吉に上申します。しかし、これに小西、三成らが反対。秀吉は戦線縮小案を却下し、発案者を処分します。
特に転封命令が下った小早川秀秋は大きく領地を減らし、家臣の大リストラを行う羽目になりました。しかも元の領地には三成が着任したのです。
武断派は、またも三成の策謀にハメられたと、恨みを募らせます。
そして、1598年、秀吉の死去とともに、日本軍は朝鮮から撤兵。
撤退を仕切ったのは三成ですが、このとき、毛利輝元と三成は急接近します。何度も茶会を開き、夜遅くまで語り合ったと記録に残されています。
この友好関係が、後の関ヶ原の戦いで輝元を大将にして、家康と対抗するきっかけとなりました。
朝鮮からの撤退にはおよそ3カ月かかり、完全に終結したのは1598年末。関ヶ原の戦いは、それから2年もしない慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)。
家康の最初の陣地から関ケ原を望む
関ヶ原の戦いでは、東軍の大将がもちろん徳川家康。
対する西軍は、毛利輝元が大将ですが、実際には石田三成が仕切っていました。当然、三成を憎んでいた加藤清正ら、多くの武断派は家康につきました。
三成が布陣した笹尾山からの眺望
蔚山城の戦いで軍紀違反に問われた吉川広家は、毛利家の家臣なので、なんとか毛利家を守ろうと、家康と通じ、毛利秀元の出陣を阻害する位置に陣取りました。毛利勢はまったく動けず、ただ傍観したまま合戦は終了します。
このとき、広家は「これから弁当を食べる」と言って参戦を拒んだことから、「宰相殿の空弁当」という言葉が生まれました。
ほかに寝返った脇坂安治も、蔚山城の戦いに参加していました。
関ヶ原の戦いといえば、小早川秀秋の裏切りがもっとも有名です。
西軍が集結した大垣城に行かず、先にいた西軍の伊藤盛正を追い出して、一方的に松尾山に布陣します。
大垣城(空襲で焼失)
この時点で、小早川秀秋の裏切りは想定されていました。
開戦直前には東軍も西軍も、大軍を擁する小早川秀秋を取り込もうと、必死の買収合戦を繰り広げます。東軍からは「上方で2カ国やる」といわれ、西軍からは「秀頼が成人するまで関白職を与え、さらに播磨国も与える」と破格の待遇が示されました。
小早川秀秋の陣地を、三成の布陣した笹尾山から遠望
前述のとおり、小早川秀秋は石田三成のせいで大リストラされたと思っており、おそらく心中は早い段階で決まっていたと思われます。
こうして、小早川秀秋の裏切りに呼応し、西軍の多くの武将が寝返りました。
石田三成の人望のなさが、天下分け目の戦いを終わらせたのです。
制作:2016年4月13日
<おまけ>
明治時代、ドイツのメッケル少佐が関ヶ原合戦の布陣図を見て、即座に「これは西軍(石田三成)の勝ちだ」と断言したという伝説が残されています。西軍は「鶴翼(かくよく)の陣」を敷き、東軍を取り囲むような布陣だったからです。しかし、『戦国の陣形』という本によれば、この布陣図はもっと後になって作られたものだそうです。
で、本書では、三成が見晴らしのいい笹尾山に陣取ったことも否定しています。小早川の寝返りを知った西軍は、盟友・大谷吉継を救出すべく、大垣城から一気に西に向かったところを、小早川軍と東軍主力に挟撃されたとしています。
わずか1日で終わった関ヶ原の戦いの真相は、そんなところなのかもしれませんね。
徳川家康の首実検(関ヶ原ウォーランド)