泉岳寺/赤穂浪士の討ち入りの秘密
赤穂浪士討ち入り
赤穂浪士討ち入り(明治31年の「大日本史略図絵」より)


 元禄15年(1702)12月14日、赤穂浪士が吉良邸に討ち入りしました。
 ご存じの通り、この討ち入りは、「忠義」という言葉とともに、日本人がもっとも愛する歴史上の場面となりました。

 四十七士は徳川家康が創建した泉岳寺に眠っていますが、実は、この討ち入り事態、幕府が陰で支援していたという説があります。

 どういうことか。
 竹村公太郎『土地の文明』は、赤穂浪士の討ち入りに斬新な視点を持ち込んだ名著ですが、簡単に言うと、

 ●浪士たちの3分の1は、江戸でもっとも警備の厳しい麹町に潜伏していた
  →これは江戸幕府が匿ったに違いない
 ●討ち入り前、幕府は、吉良邸を八重洲の廓内から本所に移転させている
  →人の少ない本所は、討ち入りに好都合
 ●徳川家は、吉良家と矢作川の水争いを繰り返し、常に負けていた
  →浅野内匠頭の事件をうまく利用して、吉良家の断絶に成功!


 というものです。
 憎い吉良家を断絶できたことで、浪士たちは家康が建造した泉岳寺に眠り、以後、「忠義」という幕府に好都合な伝説が完成したのです。

泉岳寺・浪士たちの墓地
明治29年(1896)に描かれた東京名所、義士たちの墓

泉岳寺
昭和初期(?)の絵はがきより泉岳寺の墓所

 歴史には、まだ知らないことがいくらでもあるんですね。

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