尖閣は中国領なの?
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中国が主張する「尖閣は中国領」の根拠
林子平の『三国通覧図説』
韓国が
「竹島は韓国領」とする根拠
をまとめたので、今度は中国が「尖閣は中国領」とする根拠をまとめておきます。
まず、日本は、1885年以降、尖閣諸島が無人島であることを確認し、幾度となく調査をした上で領有したとしています。
その代表的な文書が下の写真です。
明治28年(1895)1月12日と14日付けの「沖縄県下八重山群島ノ北西ニ位スル久場島魚釣島ヘ標杭ヲ建設ス」という文書です。無人島だが、漁業を試みる人間が多いので、標杭を立てるという内容です。
日本が魚釣島に標杭を建設(国立公文書館)
しかし、中国側は、これ以前に日本が「釣魚島は中国に属する」と認めていると主張します。
たとえば、1885年、外務大臣の井上馨が国標設置の延期を主張した文書(1885年10月21日付け)では、
《新聞が掲載している「日本が台湾付近の清国領の島を占拠した」という噂話は、清国も気にかけている。このようなときに公然と国標を建てることは、清国の猜疑心を招く恐れがあり、湾の形状や産物の調査が必要であり、国標の建設に関しては機会を待つべきだ》
と記されています。
「台湾近傍清国所属之島嶼」(国立公文書館)
1894年12月27日、日本の内務大臣は外務大臣に向けて、再び魚釣島に国標を立てようと提案します(文書番号133号)。
ここで「今と昔では状況が異なるので、閣議に提出できる」と書かれています。「状況が変わったからやっちゃえ」と書かれていることこそ、日本が魚釣島を無理矢理奪った証拠だとするのです。
日本側は、国標の設置延期は単なる外交上の配慮と見ていますが、中国としては強奪と見るわけですね。
「当時と今日とは事情も相違」
中央電視台(CCTV)の放送画面(2012年9月16日)より
ほかに中国側が根拠として出すのは、『籌海図編』(ちゅうかいずへん、1562年?)が有名です。この本では釣魚島などの島嶼が明の防衛対象として描かれており、「尖閣諸島が明の支配下にあった」としています。しかし、当時、明は倭寇に押され、本土沿岸の防衛にも苦労していたため、日本側は「倭寇の進路を図示した本土防衛用の地図」と見なしています。
『籌海図編』に描かれた釣魚島
また、清の沈復が書いた『海国記』は古賀辰四郎の尖閣発見(1884年)より76年早いことを証明するといいます。この本は琉球使節団への同行記ですが、ここに「姑米山(久米島)が見えて琉球に入った」と記されているんですね。つまり、尖閣と久米島の間に国境線が引かれていたというわけです。
日本側は、この見解に対し、尖閣を先に見つけ、姑米山(久米島)に境界があっても国際法上の「先占」とは違うと反論しています。
「見姑米山入琉球界」
もっともわかりやすいのが、林子平の『三国通覧図説』で、この地図では、九州が緑、琉球が薄茶、清が桜色で塗られています(冒頭の画像)。そして、拡大して見ると、確かに、釣魚島は中国と同じ赤色で塗られています。
しかし、当時、台湾は清に編入されていたのに、この地図では黄色となっていて、正確さに欠けています。そもそも私人の見解に法的根拠はないと日本側は反論しています。
林子平の『三国通覧図説』拡大図に描かれた釣魚島
以上が、中国側が「尖閣は中国領」とする主な根拠です。
制作:2013年8月6日
<おまけ>
中国側は、日中間で「尖閣問題棚上げ」合意ができていたと主張します。具体的には、
(1)1972年9月、田中角栄が訪中した際、周恩来が島の帰属権を要求したものの、日中国交正常化の障壁となることから、周恩来は「現在、討論すべきではないし、地図上には標もない。石油が出ても問題となる」と表明し、棚上げされた。
(2)1978年8月、日本の外相・園田直が北京で鄧小平と会ったとき、「やはり以前と同様、20年、30年、棚上げしましょう」と提案され、園田も合意した。
というものです。
鄧小平の言葉を訳しておくと、
「中日国交正常化を実現したとき、我々双方の約束はこの問題に踏み込まないことだった。今回の中日和平友好条約に際しても、双方ともこの問題に踏み込まない約束だ。それなのに一部の人間はこの問題で挑発し、中日関係の発展を妨げようとする。我々は、両国がこの問題を避けるのを賢明だと思い、問題を放置すれば緊張は生まれない。10年待つことも厭わない。我々の世代は知恵に欠け、この問題で意見の一致は見られない。次の世代は我々より聡明で、きっとお互いに受け入れられる方法を見つけるだろう」
となります。