節分「鬼は外」の誕生

京都・聖護院門跡の節分
京都・聖護院門跡の節分


 かつて、大晦日の宮中では「追儺(ついな)」という鬼払いの儀式がおこなわれました。
 1008年(寛弘5年)12月30日にも追儺がおこなわれましたが、この年はとても早い時間に終わってしまいました。中宮に仕える紫式部は、もちろんこの行事を見物していたのですが、なんとなく暇を持て余し、お歯黒をつけたり、化粧をしたりとくつろいでいました。

 突然、中宮の部屋のほうから叫び声が聞こえます。驚いた紫式部は、世間話したまま寝てしまった「弁の内侍の君」と縫い物を教えていた「内匠の君」(いずれも女性)の3人でおそるおそる部屋を見に行きます。すると、靫負と小兵部という2人の女房が、盗賊に着物をはぎ取られ、裸のままふるえていたのです。

「追儺」は、いまの「節分」につながる儀式ですが、なんと鬼を祓ったはずの宮中で、盗人騒ぎが起きたのでした(『紫式部日記』による)。

 今回は、そんな紫式部も経験した「鬼やらい」についてまとめます。

千本釈迦堂の鬼追いの儀
千本釈迦堂の鬼追いの儀(茂山千五郎の能)


 本来、節分とは季節の変わり目のことで、年に4回ある立春・立夏・立秋・立冬の前日を意味しました。旧暦では立春が正月だったこともあり、特に新年が明ける前日(大晦日)のイベントを指すことになります。これと、平安時代、中国から伝わった悪魔祓いや厄除けの儀式である「追儺」がミックスされ、後に庶民行事として定着しました。

 日本最古の「追儺」の記録は、797年に完成した『続日本紀』に記載されています。706年、疫病が蔓延し、多くの民が死んだことから、「土牛を作って大儺(たいな)した」と書かれています。「儺」は疫鬼を追い払うことですが、ここで気になるのが「土牛」です。『延喜式』によれば、土で作った牛と童子(土牛童子)の人形に色を塗り、それを大内裏の各門に飾っていたことがわかります。

 まず東にある4門のうち陽明門など2門に「青」、南にある3門のうち朱雀門など2門に「赤」、西にある4門のうち藻壁門など2門に「白」、北にある3門のうち偉鑒門(玄武門)など2門に「黒」、そして残りの門には「黄」の土牛や土人形が置かれました。

 これは陰陽五行説をもとにしたもので、簡単に言えば、

・東 =青=木=春=青竜
・南 =赤=火=夏=朱雀
・中央=黄=土  =麒麟
・西 =白=金=秋=白虎
・北 =黒=水=冬=玄武

 となります。つまり、朱雀門は南になければならないし、玄武門は北になければならないのです。東から太陽が昇るような若々しい時期は「青春」です。夏は「朱夏」といいますし、詩人・北原白秋のペンネーム「白秋」はここから採用したわけです。話を戻すと、記録上、日本初の「節分」は牛の人形を置くだけで終了したことになります。

吉田神社の鬼
吉田神社の鬼


 さて、紫式部が盗賊の恐怖に怯えた7年前、1001年(長保3年)12月は、一条天皇の生母が亡くなったことで、年末の追儺は中止されました。このころ、追儺で重要な役目を果たしていたのが「陰陽師」です。このとき、陰陽師・安倍晴明は、自宅でひとり追儺の儀式をおこないました。すると、京都中の人々が晴明に呼応して、あちこちで鬼を追う声がひろがったといいます(『政事要略』)。つまり、当時の都に住む人々にとって、追儺はたんなる宮中行事ではなく、自分たちの周りの鬼を追い払ってくれる、生活に密着した行事だったことがわかります。

 このとき、「鬼を追う声」はどんな叫び声だったのか。まだ「鬼は外」ではありません。そもそもこの時点では、まだ豆まきはおこなわれていません。当時の叫び声は「儺(な)やろう、儺やろう」でした。

 かつての追儺を簡単に再現してみます。おもな登場人物は、鬼に「この国から出ていけ」と宣告する陰陽師と、実際に鬼を払う異形の仮面をかぶった「方相氏」です。鬼は鬼神なので人の目に見えるわけではなく、最も古い形態では鬼はいなかったと考えられます。

 大晦日。天皇が政治や儀式をおこなう紫宸殿の南殿に、朝廷に仕える親王・大臣らが集合します。
 鬼追いする役人は、手に「桃の弓」「葦の矢」(あるいは「桃の杖」)を持っており、その先頭にたつのが「方相氏」と呼ばれる異形の人物です。方相氏は黄金4つ目で、上半身は黒・下半身は朱色(玄衣朱裳)の服を着て、巨大な盾と鉾を持っています(中国の『周礼』では、方相氏は熊皮も着ているとされます)。その後ろに、紺の衣、朱の鉢巻をつけた「侲子(しんし)」という童子たちの集団が続きます。

吉田神社の方相氏
吉田神社の方相氏


 最初に、陰陽師が鬼に「祭文」を読み上げ、この国から出ていくよう宣告します。

《穢悪(けがら)はしき疫(えみや)の鬼の、所所村村に蔵(こも)り隠らふるをば、千里の外、四方の堺、東の方は陸奥、西の方は遠つ値嘉(注:五島列島)、南の方は土佐、北の方は佐渡より彼方の所を、汝たち疫鬼の住みかと定めたまひ行(おもむ)けたまひて、五色の宝物、海山の種種(くさぐさ)の味物(ためつもの)を給ひて、罷(ま)けたまひ移したまふ所所方方に、急(すみやか)に罷き往ねと追ひたまふと詔る》(『延喜式』16巻「陰陽寮」)

 このように、疫病を撒き散らす鬼に対し、財宝や食べ物をあげるので出て行けと説くのです。ここで、東北、五島列島、土佐、佐渡が日本の端っこだと明確にしています。それでも、出ていかない鬼に対しては、

《奸(かだ)ましき心を挟みて、留まり隠らば、大儺の公、小儺の公、五の兵を持ちて、追ひ走り刑殺(ころ)さむものぞと聞こしめせと詔る》(同)

 と、殺すことを明言しています。「五の兵」は兵士というより武器のことで、前述の「桃の弓」「葦の矢」などです。

吉田神社の追儺式会場
吉田神社の追儺式会場


 その後、儀式が始まり、方相氏が鉾で盾を叩きながら「儺(な)やろう、儺やろう」と掛け声を発すると、ついてきた侲子や役人たちが、その声に応えて一緒に「儺やろう」と大声で叫ぶのです。鬼がいる場合は、役人が鬼めがけて弓矢を射ることで祭事は終了します。

 この行事は、もともと神に扮した方相氏が、目に見えない疫鬼を追い払うものでしたが、平安末期になると、それまで鬼を追い払っていた方相氏が、逆に鬼に見立てられて追い出されるようにもなります。これこそ、目に見える鬼の誕生でしょう。

 古代の「追儺」は、現在、京都の吉田神社と平安神宮で再現されています。吉田神社では、方相氏とともに鬼が登場しますが、平安神宮の追儺には鬼が登場しないのです。そして、いずれも豆をまくこともありません(※その後の豆まきはイベントなので鬼も登場する)。

 後世になって鬼が登場すると、牛のような角をもち、虎皮のパンツを履く姿になりましたが、これも陰陽説に基づくものです。鬼が出現する方角は北東(鬼門)で、これは方位を十二支で表現した場合、「丑寅」の方角となります。そのため、ウシとトラの特徴をあわせ持つことになりました。

成敗されてよれよれになった鬼(吉田神社)
成敗されてよれよれになった鬼(吉田神社)


 現在、烏丸御池駅のそばに「平安京跡」の石碑がありますが、ここから吉田神社は鬼門の方向にあたります。一方、裏鬼門(南西)にあたるのが壬生寺で、ここも「節分会(え)」が有名です。平安時代、白河天皇の発願で始まったと伝えられますが、ここで有名なのが、国の重要無形民俗文化財に指定されている「壬生狂言」です。

 起源は鎌倉時代で、円覚上人が仏の教えを大衆にわかりやすく伝えようと、30の無言劇を考案。そのうちの1つが、豆まきを題材にした鬼払い狂言「節分」です。「人間はマメ(勤勉に精進)に生きることで不幸を追い払える」という教訓的な筋書きで、実際に鬼に豆を投げつけます。

壬生寺
壬生寺


 豆をまく習慣は室町時代に始まったとされ、「まめ」は「魔目に豆を投げる」「魔滅する」に通じるからといわれています。豆まきの最古の記録は宮中の『看聞日記』で、応永32年正月8日(1425年1月27日)に「鬼大豆打の事」と記されています。瑞渓周鳳が書いた『臥雲日件録』には、1447年12月22日に《明日立春。故及昏景富毎室散撒豆。因唱鬼外福内四字》とあり、景富という人物が叫んだ「鬼は外、福は内」が最古の記録と見られます。

 その後の豆まきの仕方は、京都の郷土史家として知られる田中緑紅によれば、

《(宮中では)芋、豆を土器に入れ、別に円い曲物2つに豆を入れ、三方にのせて献じますと、天皇はこの豆を3度打たせられ、勾当の内侍も各御間から湯殿迄豆を打って廻ります。それから年齢数の豆と、御年数の鳥目を引合(紙の名)に包み、お上へ持って参りますとこれで体を撫でられになったものを祓わせられたと云います。  武家の方では老中が桝に豆を入れ箕(みの)の上にのせ、上段の間に「福は内」を3度、「鬼は外」は1度、これを3回くりかえし豆を打った》(『如月の京都』)

 といった感じです。

 姿を変えることで鬼の目をくらませようと、時代が下ると、節分の日に変装や化粧することが流行りました。江戸時代後期には、いまのハロウィンのように、町のあちこちに仮装した “おばけ” が出て、大いに盛り上がったとも言われます。

 逆に、そんなハレの日だった節分は、孤独な人間にとっては非常につらい行事でした。

 藤原道綱の母が書いた『蜻蛉日記』は、藤原兼家との寂しい結婚生活が書かれていますが、中巻の最後は、971年の「鬼やらい」で終わっています。以下、訳しておくと、

《子供も大人も「なよろう、なよろう」と大声で騒ぐのを、私だけが静かに聞いている。追儺は幸せな家庭だけがする行事のように思われる。「雪がたくさん降っている」という声がする。年の終わりは、何につけても、あらゆる物思いを尽くしたことだろう》

 そして、日記の最後(974年)は、

《ここは京のはずれなので、夜がすっかり更けてから(追儺の人たちが)門を叩きながら回ってくる音が聞こえる》

 で終わっています。『蜻蛉日記』は、当時39歳の女性の絶望を語ったまま、筆が途絶えているのです。

烏帽子水干姿で懸想文(縁結び文)を授与(須賀神社の節分祭)
烏帽子水干姿で懸想文(縁結び文)を授与(須賀神社の節分祭)


制作:2025年2月11日


<おまけ>

 陰陽道では、京都の周囲を守護する神々が、節分の夜に、次の年に守護する方角に移動するとされました。その隙をついて魔物が現れるわけですが、こうした考えは、当時の貴族にも大きな影響を与えました。それが「方違(かたたが)え」で、悪い方位を避けるため、まず別の方角へ行く風習が生まれました。特に節分の夜は、「節分違」といって、用がなくても外泊する決まりでした。清少納言の『枕草子』には、「すさまじきもの(興ざめするもの)」として、《方違へにいきたるにあるじせぬところ。まいて節分などはいとすさまじ》と、方違えで訪問したのに食事でもてなしてくれない相手への強い不満が書かれています。

 方違えは、天を遊行する5つの方位神(天一神・太白・大将軍・金神・王相)の動きによって決まります。たとえば京都の大将軍八神社は大将軍を祀る神社で、御所の北西を守る役割を担います。しかし、大将軍は3年ごとに居場所を変え、その方角は万事に凶とされました。大将軍の方角は3年間変わらないため、その方角を忌むことを「三年塞がり」といいました。平安貴族はこうした縛りのもとに生活していたのです。

大将軍八神社
「乾兌離震巽坎艮坤」の8文字が刻まれたモニュメント(大将軍八神社)
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