ニッポン「牧羊」苦闘史

羊の飼育
羊の飼育(石川啄木の愛した岩手県渋民村)


 日本では、古来、羊の飼育はほとんどおこなわれていません。
 最古の記録は『日本書紀』推古7年(599年)の9月に、

《百済がラクダ1匹、ロバ1匹、羊2頭、白いキジ1隻を献上してきた》

 とあるのが最初です。
『日本紀略』にも、嵯峨天皇の時代、弘仁11年(820年)に新羅の李長行という人物が、羊2頭、山羊1頭などを献上したと記録されています。
 朝鮮側の記録には、1169年に羊2000頭を大陸から輸入したなどとあるので、朝鮮半島には昔から羊がいたんですが、日本にはほとんど入ってきていません。ほぼすべてが見世物になって終わりでした。

 羊の毛を最初に織物に使ったのは欽明天皇の時代で(6世紀中ごろ)、下野国で「計牟志呂(けむしろ)」という毛織物を織ったという記録があります。この布は「之母都家野加毛志加(しもつけのかもしか)」とも書かれていて、使ったのは羚羊(カモシカ)だとわかります(これはシカという名前が入っていますが、鹿ではありません)。
 羊毛農家が自家用に織った布をホームスパンといいますが、この元祖と言えますね。

羊の用途
緬羊(綿羊)の用途


 江戸時代の文化2年(1805年)、長崎県の浦上で毛織物の製造を目指しますが、羊が全滅して失敗。
 1818年頃、幕府が長崎経由で手に入れた羊を東京・巣鴨の薬園で育てはじめ、これが300頭にまで育ち、年2回、羊毛製品を献上したことが、事実上の産業化の始まりです。
 北海道では、それから40年ほど経って、函館で羊40頭の飼育も始まっています。

 日本の歴史を見回しても、明治以前の羊の飼育の記録は、ほとんどこれで全部のような状態です。
  
 明治になって軍隊ができると、毛織物の需要が高まります。
 ①強靱で、②保温力が強く、③水をはじく布は、毛織物しかなかったからです。

 明治政府が、最初に羊の産業化を図ったのは、明治2年(1869年)のことです。アメリカから羊を導入しますがうまくいかず、その後は大蔵省勧農寮が中心となって飼育を目指しますが、ことごとく失敗。
 明治7年、羊の飼育業務は内務省勧業寮に移管されます。ここで、調査員の海外派遣、子羊の無償貸与、民間の羊への種付け業務の代行などが始まり、ようやく産業化が始まります。

毛織物工場
大正末期の毛織物工場(女工は日本髪に割烹着)


 東京では青山農業試験場が中心となりました。
 さらに北海道開拓のかなめとして、七重勧業試験場と桔梗野牧羊場(ともに函館近郊)、札幌牧羊場などで飼育が始まりました。

 明治7年、アメリカ人のアップ・ジョンスが、内務省に大規模に羊を育てるよう提言。これを受け、翌年に大久保利通が、牧羊の大プロジェクトを開始します。

 仮事務所は「内藤新宿勧業試験場」に置かれ、千葉県の広大な農地を買い占めました(下総牧羊場)。
 このときの計画を公開しておきます。

●期間:8年6カ月
●収入総額:82万1675円
 羊毛、農馬の払い下げ   70万6300円
 土地、建物の払い下げ   11万5375円
●支出総額:67万2929円
 土地開墾、羊購入、人件費 53万1669円
 羊の死亡などの損失費用  14万1260円

 差し引き利益が14万8746円で、このうち4万4623円をアップ・ジョンスに渡し、残り10万円強を政府収入にする計画でした。

 明治9年、政府は羊毛の買い上げを開始。購入した羊毛は、東京の「千住製絨所」で製品化されました。 

千住製絨所
千住製絨所


 ところが、明治11年、大久保利通が暗殺され、この巨大プロジェクトはほとんど中絶してしまいます。
 土地はすでにあったため、牧羊自体は細々と続きますが、結局うまくいかず、明治21年、千葉の農地は宮内省に渡されました。
 この土地が、戦後、成田空港になるわけですね。

 日本では、巨額の資本を投入して牧羊の産業化が熱心に続けられますが、長らく失敗が続きます。
 その理由は、経験が乏しく管理がうまくいかなかったこと、日本の風土を考えず、ヨーロッパの飼育方法をそのまま導入したこと、そして、寄生虫対策が甘かったことなどです。

日本毛織会社
日清戦争後に業績を伸ばした「日本毛織会社」


 結局、千葉で牧羊に失敗したあと、政府は20年間、羊の飼育に関心を示しませんでした。
 しかし、寒さで苦戦した日露戦争が終わったあとの明治41年(1908年)、政府は北海道の月寒に種畜牧場を設立。ようやく公営の牧羊が始まります。

 大正3年(1914)、第1次世界大戦が始まると、イギリスは軍事物資として、羊毛を戦時禁制品に指定。日本は、オーストラリア産の羊毛を入手できなくなり、たちまち国内の毛織物の生産が止まりました。

月寒の牧羊
北海道・月寒の牧羊


 慌てた政府は、羊の100万頭増殖計画を進め、さまざまな奨励金をばらまきます。これで一気に国内の羊の飼育数が拡大しました。
 奨励金は昭和7年にほぼ打ち切られますが、大正7年(1918年)から昭和7年(1932年)までに輸入された羊は、合計9817頭。牝羊の払い下げは1万1500頭、種付け用の牡羊の貸し付けは2454頭にのぼりました。

 戦後、衣料不足により、国産羊毛の需要が増大します。全国各地で飼育が盛んになり、昭和32年(1957年)には、過去最高の94万頭(実数では100万頭超え)に達します。
 しかし、これ以降、羊の数は減り続け、 現在は数万頭しか飼育されていません。
 
 まぁ、たまにジンギスカンブームが起こるくらいで、日本人はそれほど羊肉が好きではないので、こんなもんでしょうね。

制作:2015年1月2日


<おまけ>
 戦時中、日本は国内での牧羊に限界を感じ、朝鮮での牧羊を推進します。さらに、満州での牧羊にも手を出します。
「どうして日本は、あんな荒涼とした満州を支配しようと思ったのか」などと言われることも多いのですが、少なくとも日本より満州のほうがはるかに牧羊には向いていました。
 日本の戦争のいくぶんかは、兵士の防寒具に最適だった「羊毛」のためにおこなわれたのです。

朝鮮総督府の羊肉缶詰
朝鮮総督府の羊肉缶詰のラベル
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