イラストで見る「関東大震災」
食料・水の配給はこうして実施された
須崎遊郭
大正12年(1923年)9月5日、横浜から出港する日本郵船の山城丸に、うら若き2人の婦人が乗っていました。2人はそれぞれの腕に小さな風呂敷包みを持っているほかは、着の身着のままです。
そのうち、同船者は、この風呂敷からの異臭に気づきます。船長が出てきて、2人の風呂敷の中身を改めると、血に染まった半分腐った男の生首が出てきました。
「これは私達の夫です。せめて顔だけでも故郷に見せたいと思って……お許しください」
大正12年9月1日の午前11時58分、関東大地震が起きました。2人の夫人は、その被災者だったのです。
避難船と避難列車
関東大地震の規模は大きく、当時、「東京のブロードウェイ」と呼ばれた銀座は完全に壊滅。東京の中心である丸の内から霞が関近辺でも、ほとんどの建物が大きな被害を受けました。無事だったのは東京駅、三菱本社、三菱21号館、東京府庁、日本石油本社、東京日日新聞社、報知新聞社、商工会議所、司法省、大審院くらいでした。
銀座
皇居のお堀に面した「内外ビル」は建築中で、足場と鉄骨の崩壊で100人ほどの人夫が圧死しました。
浅草のランドマークだった12階建ての「凌雲閣」は6階部分で折れ、演芸場で観劇中の観客ら数百人が圧死、または大ケガを負いました。
一ツ橋の共立女子校では、校舎の崩落で動けなくなったと70人ほどが、その後の火災で焼死しました。
御茶ノ水と万世橋駅
地震から10数分後には全市で76カ所から火災が発生。当初は風速17mの南風でしたが、気流の変化によって夕方までに3回も風向きが変わり、最終的には風速25mの熱風に変わりました。猛火は渦巻き、そこかしこで竜巻状になりました。
熱で水道管は破裂し、結果、消防活動が停止し、午後7時には全市の3分の2が紅蓮の猛火に包まれました。
焼失マップ
有楽町の印刷会社から出た火は警視庁、帝劇を焼き尽くし、大手町の東京瓦斯工業の工場から出た火は印刷局、会計検査院を襲いました。
警視庁(右)と帝劇
日本橋では白木屋が焼失、三越は外壁は残ったものの、内部は全焼。銀座では農商務省が、高輪では高輪御所が焼失しました。東京は地震と火災で廃墟と化したのです。
白木屋と三越
関東大震災の死者・行方不明者は約10万5000人。このうち、火災による死者は約9万2000人、地震による圧死は約1万3000人とされます。
当時の資料によれば、焼死者は、9月8日午後3時までの警視庁調べで本所被服廠跡3万5000人、吉原遊廓2500人など、惨憺たる状況です。
吉原公園
町には死体があふれていました。被服廠などでは死体を積み重ねてそのまま石油をかけて荼毘に付しました。毎日、数千人単位で焼きましたが、簡単には終わりません。
川に落ちた死体は一度は底に沈みますが、満潮とともに再び浮かび上がり、凄惨な状況となりました。もちろん、海に流された死体も数知れません。
浅草、吾妻橋
編集者で後に作家となる田口桜村が、被災地を見て回る「帝都縦断記」を遺しています。以下、『古今未曾有帝都大震災画報』(1923年)より、被服廠部分を抄訳しておきます。
《弥勒寺川の付近には、黒焦げの死体や首のない死体などさまざまな惨死体が幾十となく漂着している。火に追われ、黒煙に追い詰められ、このような姿になった気持ちはいかばかりであろう。
亀沢町交差点の脇には労働者らしい女がドブへ半身を突っ込んで、その隣には15〜16の男の子が位牌らしきものを掴んだままうつ伏せになって焼死している。
市電の車庫は焼け失せて、電車の残骸が何十台とある。
両国橋駅は影も形もなく、高架線のガードは赤く焼けた鉄肌をあらわにして錦糸堀まで達している。
ガードを潜ると、もう耐えがたいほどの腐臭に襲われる。
左のトタン塀のなかが、今回の大災厄で全国に名前が知られた被服廠である。
外囲の塀は崩れ落ちて、構内をめぐる大きなドブのなかには何百とも知れぬ死体が折り重なっている。
驚くべきは2日の夜、この死骸の山の中を歩いて、死人の指輪や財布を盗んで検挙された悪漢もいるということだ。
被服廠の竜巻
義侠が売り物の関東国粋会(戦前の日本の右翼団体)の侠客たちは、数名が一組となり、むしろで作った担架を担ぎ、死骸の山を乗り越えては手鉤で死体を引っ掛けて収容し、焼却場へ運んでいく。
日蓮宗をはじめ、仏教各派の僧侶は、焼いた死体の小山に供養塔を立て、卒塔婆をめぐらし、香煙の中に死者の冥福を祈る。そのかたわら、生き残った人が、堆積する骨灰の間から誰のものとも知れぬ骨片を形見に拾って、ねんごろに念仏を唱えている》
皇居近辺
幸い生き残った人も、家が焼かれたため、住むところがありませんでした。
以下、東京市役所が調べた9月11日までの焼失戸数、罹災者のデータをあげておきます。
●麹町区 2792戸 1万2560人
●神田区 4万5952戸 16万2989人
●日本橋区 2万6077戸 15万2326人
●京橋区 5万749戸 15万8480人
●芝区 1万6278戸 7万2429人
●麻布区 データなし
●赤坂区 3851戸 1万6787人
●四谷区 16041戸 6494人
●牛込区 データなし
●小石川区 1365戸 4432人
●本郷区 8790戸 3万35人
●下谷区 8070戸 17万1986人
●浅草区 81872戸 28万4296人
●本所区 7万4588戸 27万7459人
●深川区 4万9047戸 19万7078人
合計 41万1046戸 154万7351人
震災1週間前の8月24日、加藤友三郎首相が死んだため、震災時には内田康哉が「内閣総理大臣臨時代理」を務めていました。震災後の9月2日、山本権兵衛内閣が発足。政府はただちに緊急の救済方針を立てますが、それが実施されるまでには数日かかる見込みです。
上野駅
それまでの食料や水はどうするのか。
とりあえず警視総監が徴発令を発布し、焼け残った各区のほか、群馬、栃木、埼玉、千葉各県から糧食を集め、不完全ながらも食べ物の供給が始まりました。
4日には陸軍から4万人分の軍用パンが送られ、6日までにさらに10万人分が届きました。農務省も保存米を回送します。
幸運なことに深川正米倉庫には3万石(1石は成人1人が1年間に消費する量)あまりの焼け残り米があったため、これを深川、本所区に配分しました。
東京市は、田端(山の手方面)、新宿(牛込、四谷、豊多摩方面)、芝浦(下町方面)、亀戸(本所、深川、葛飾方面)に配給本部を設け、活動開始。これが大きな成果を上げました。
避難民
その後、軍艦出雲、天龍、扶桑、吾妻、利根が食料を満載して東京に到着。相前後して千葉県から米600俵(1俵は60kg)、新潟から5万俵、大阪府から60万石積んだ船が来ることが伝わり、「食糧来る安心せよ」という宣伝ビラがあちこちに貼られました。
食料品の配給
水道管の破損で飲料水の供給には問題がありましたが、警視総監が水道部と話し、水道管の補修を急ぐとともに、焼け残った6台の撒水自動車と宮内省の撒水自動車を手配し、西久保貯水池の水を供給開始(当時は狭山湖も多摩湖もありません)。
本所、深川区では、水上署、西平野署が永代橋の消火栓の水を4隻の船に乗せて運搬開始。
さらに、上野、谷中、浅草公園、麹町区役所、芝公園、深川清住公園などに給水場が設けられました。
それでも水の供給は足りず、罹災者は溺死体が浮かぶ隅田川の水や、腐って青くなった不忍池の水を飲むことになりました。
猛火に包まれた永代橋
警視庁医務科は医科大学、伝染病研究所、済生会、陸海軍の医療部、赤十字社と連携し救護班を結成、移動式病院をスタート。
すでに治安維特のため、戒厳令の後、緊急勅令が公布され、支払延期、犯罪扇動者への罰則などが決まっています。物品を高値で販売する人間が次々に摘発され、治安は比較的早く回復しました。
交通機関の様子
前述の『古今未曾有帝都大震災画報』には、震災孤児のエピソードが記録されています。
横浜では、ある女教師が崩落した学校から逃げ出し、なんとか子供たちのいる自宅に戻ると、家は猛火に包まれていました。呆然としていると、その後、子供たちが救い出されて無事だったとわかります。絶望のドン底から喜びの絶頂に押し上げられた彼女は、突如、発狂し、大笑いしながら路傍の石で子供たちの頭を滅多打ちし始めました。子供たちは無事でしたが、その後、彼女は狂死してしまいました。
一方、ほぼ全滅した被服廠跡では、死体の山の中から奇跡的に3歳くらいの女の子が救い出されました。全身が灰まみれでしたが、命に別状はありません。しかし、名前もわからず泣くばかり。そこで、高等師範で数学を教える後藤胤保がこの子を引き取ることになりました。名前は文部省の字をとって「文子」と名付けられました。
生き残った人たちは、さまざまな境遇を背負い、復興の道を歩むことになったのです。
制作:2018年8月19日
●関東大震災の惨状
●関東大震災「日記」
●震災で「崩壊した東京」
●震災1年後の「復興しつつある東京」
●関東大震災「鳥瞰図」
●関東大震災・復興建築
●田山花袋『東京震災記』
●関東大震災直前の東京空撮
浅草の花やしきでは小象1頭を外に逃した