シベリア単騎横断
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「シベリア単騎横断」1万4000km
ロシア情勢をスパイした陸軍の福島安正
福島安正
大蔵大臣だった松方正義が、第4代内閣総理大臣に任命されたのは、1891年(明治24年)5月6日のことです。
それからわずか5日後の5月11日、滋賀県大津市で、来日中のロシア帝国の皇太子ニコライ(後の皇帝ニコライ2世)が、警備を担当していた警察官・津田三蔵から斬りつけられ、負傷する事件が起きます。この暗殺未遂、いわゆる「大津事件」は、日本の政界を揺るがす大騒動となりました。
実は、皇太子が来日する前から、世間には2つの噂が流れていました。有名なのが、皇太子の訪日は遊覧目的ではなく、将来、日本に侵略するための偵察旅行であるというものです。そしてもうひとつが、西南戦争で死んだはずの西郷隆盛が、実は生き抜いてシベリアに逃亡しており、皇太子と一緒にロシアの軍艦で帰国する、というものです。
西南戦争に政府軍として参戦していた津田は、こうした噂に憤慨し、突発的に皇太子を切りつけたとされています。
この事件をひとつの契機として、国内にロシアへの反感が生まれ、結果的に日露戦争へとつながっていくのですが、このように、当時の日本にはロシアの侵略をおそれる雰囲気が強くありました。
大津市にある大津事件碑
大津事件の第一報をドイツのベルリンで聞き、危機感を覚えたのが、軍人・福島安正です。福島は、1887年、ドイツ公使館付武官に任命されており、まもなく4年の任期が満了するところでした。福島は、将来の日露戦争を想定し、ロシアの情報を収集すべきだと考え、ベルリンから日本に帰国する際、単身、馬に乗って帰ることを決断します。これが冬期シベリアの世界初の単騎横断です。
ベルリンからサンクトペテルブルク、モスクワを経てバイカル湖から黒龍江沿いに進み、満州のチチハル、吉林を通り、ウラジオストクまで。488日間、1万4000キロに及ぶ「単騎遠征」とは、いったいどのようなものだったのか。
1万4000キロに及ぶ「単騎遠征」ルート図(『福島中佐遠征紀要』)
ロシアのシベリア鉄道は、1891年に着工し、1898年、イルクーツクまで到達します。その後、バイカル湖近辺の難工事を経て、1903年、ハルビンなどを経由する東清鉄道が完成しました。シベリア鉄道ができれば、ロシアが極東へ勢力を拡大するための大きな武器となります。その先にあるのは、言うまでもなく、日本への侵略です。福島は、こうした状況に危機感をつのらせました。
福島は1852年、松本藩士・福島安広の長男として生まれました。1873年(明治6年)司法省に翻訳官として採用され、翌年、陸軍省へ。1876年には、西郷従道に随行して、アメリカのフィラデルフィア万国博覧会を見学に行っています。
1879年、参謀本部管西局員に配属されました。管西局とは、清国や朝鮮など、大陸情勢の研究を担当する部署で、このとき中国、朝鮮を実地調査することになります。その後、インド、ビルマ方面を視察するなどし、ドイツのベルリン公使館に駐在。公使の西園寺公望とともに情報分析をおこない、シベリア鉄道敷設の情報などを日本に報告しました。1889年にはバルカン半島の偵察をおこなっています。
ベルリンを出発する福島(『福島中佐単騎旅行図絵』)
ベルリンを出発したのは、1892年(明治25年)2月11日です。この日は現在の「建国記念の日」、当時は「紀元節」で、『日本書紀』に記された、神武天皇の即位日のことです。
東京日日新聞に「福島少佐単騎遠征紀略」という短期連載記事があり、その第1回(1893年2月3日)には、こう記されています。
《(旅装は)軍服を着け、毛皮の外套を纏(まと)い、馬鞍に4個の革袋を付し、これにじゅばん、袴下(こした=ズボン)、靴下各1着、手巾(=ハンカチ)6枚、手袋2対、毛皮帽1個、日時計、晴雨計、地図、製図器械、蹄鉄器械、及び摩擦毛具を入れ、鞍後に外套袋と予備食糧の麻布袋とを付し、別に行李を携え、軍刀1口、短銃1挺を帯び、以て猛獣、強盗を撃退するの護身器とす。
少佐の使用する馬は、ドイツ乗馬会社より購入したもので、半血英国産の駿馬なり。少佐これを命じて「凱旋号」という。社主・ヌッテル氏は、この挙を賛嘆し売価を半額とせりという。》
当然ですが、公然と情報活動をすることは許されないので、形はあくまで個人の冒険旅行です。そのため、外交官とはいえロシアの「旅行免状(ビザ)」はなかなか発行されず、1892年1月1日に予定した出発日が、2月11日に延期されました。
ドイツとロシア国境(『福島将軍遺績』)
ドイツとロシアの国境は、棒が2本たち、その間に鎖がつながっているだけの簡素なものでした。ドイツ側は、銃を持たない憲兵2人が張り番しているだけで、ロシア側は銃を持った護衛兵がいて、通過する人間を誰何します。とはいえ、大陸的な穏やかな雰囲気で、福島は、これでは敵が簡単に侵入できると驚愕します。戦争が起きたらこの国境はどうなるのかと思いは尽きません。
福島は、2月24日、旧ポーランドのワルシャワに到着します。
かつてポーランドは東欧最大の王国で、一時はモスクワを脅かすような強大な国家でした。しかし、国土の3分の1をロシアに奪われ、いまは見る影もありません。旅行記『単騎遠征 伯林(ベルリン)より東京へ』によれば、福島は旧王宮の前で《往昔(おうせき)の盛事を追想し感慨の涙》を流しました。日本もロシアに占領されれば、同じような悲哀を呼ぶことになるからです。
旧ポーランドとロシアの間にはネマン川があり、福島は3月7日、ポーランド(南側)から橋を渡ってロシア(北側)に入国します。しかし、渡った先では、なんと日付が2月23日となりました。じつは、旧ポーランドとロシアの間には13日の時差があったのです。ポーランドは太陽暦でしたが、 ロシアではロシア正教に基づいた暦を採用していたことによる珍事です。
3月24日、福島はロシアの首都サンクトペテルブルクに到着します。ここには国内最高の騎兵学校があり、ここで蹄鉄の技術を学びました。シベリアの荒野でも十分対応できる技術と知識を得たわけです。
そして3月30日には、ガッチナ宮殿で皇帝アレクサンドル3世と皇后に拝謁します。最初に会った皇后は英語で談話を寄せられ、次に会った皇帝は、最初にフランス語で「何語ができるのか」と聞いてきたため、福島が「英語が話しやすい」と答えると、以降、英語で会話したと記録されています(『福島中佐遠征紀要』)。福島は旅行中に中佐に昇進しますが、当時はまだ少佐です。少佐クラスの軍人が皇帝に面会し、食事をともにするとは、驚くべき話です。
皇帝アレクサンドル3世に拝謁(『福島中佐単騎旅行図絵』)
4月24日、モスクワ着。5月6日に出発するも、ここで「凱旋号」の調子が悪化し、やむなくモスクワに戻って新馬「ウラル号」を調達しました。
6月8日にはロシアのカザンに到着します。この当時、カザン付近は、3年続いた凶作で、大飢饉に襲われていました。通常なら1ポンド0.62ルーブルの黒パンが、1.3ルーブルと2倍以上になっていました。各地に救済所が作られましたが、食料は足りず、あるのは黒パンと鶏卵のみ。肉類はなく、馬に与えるオーツ麦もまったく手に入りません。福島のもとには物乞いが襲来し、福島は、ロシアが内憂外患に苦しんでいると見抜きました。
6月13日にカザンを出発した福島は、今度は熱暑に苦しみます。白夜によって、午前3時から午後9時のおよそ18時間も昼が続くなか、蚊やアブ、ハチ、ハエといった虫が襲いかかり、馬も疲弊。40度近い暑さに耐えかね、以降、昼に寝て夜に移動することになります。
シベリアではコレラが蔓延していました。コレラが大発生した村では、入口に黒い旗を立て、夜はかがり火を焚いて、村に人が入らないように警戒しています。しかし、迂回路は整備されておらず、村外れに出たつもりが村の中心に入ってしまい、番人に怒鳴られたこともありました。ロシアの農村は貧困で、灯火を使うことはありませんが、コレラ患者がいる家は看護や葬儀のため明かりを灯すため、村のあちこちが明るくなるほどでした。福島も、対策のため、アヘンを買って罹患に備えました。アヘンは、適量であれば万病に効くとされていたのです。
9月にはアルタイ地方を行きました。ある村では住民総出で讃美歌を歌っており、聞けば神像を別の場所に移すとのこと。日本でおこなわれる神社遷座のようなものかと感心しています。セミパラチンスクからアルタイまでの間は気候もよく、風光明媚な場所が続きました。途中、まるで富士山のような山を見て、福島は感激してイラストに残しています。
アルタイ小富士(『単騎遠征 伯林より東京へ』)
アルタイ山脈は、シベリア、カザフスタン、モンゴルにまたがる山脈で、福島は9月24日に山越えに成功し、外蒙古に出ます。峠では、巨石怪石をたくさん見かけ、そのうちの一つに「大日本帝國陸軍歩兵少佐福島安正経過此地」と小刀で刻んでいます。
アルタイ山脈の巨石に通過を宣言(『福島中佐単騎旅行図絵』)
11月3日、天長節(明治天皇の誕生日)を迎え、早朝に起きた福島は東の方角を向き、明治天皇の長寿を祈ります。翌4日の夜半、村長の天幕で寝ていると、村長夫婦はあわてて着物を着て、灯をともし、数珠を持ちながら一心に読経を始めます。この日は月食で、災いを払うため、祈ったとのことでした。
11月12日、モンゴルの首都ウランバートルに入りました。当時の名称は「クーロン(庫倫)」です。ここではラマ教の寺院が多数ありました。在 留しているロシア人は夫婦でいましたが、清国人は妻を連れてくることが禁止されていました。そのため、モンゴル人の女性を妾にしていました。また、これまでに見てきたラマ教寺院の多くが売春窟となっていました。
年が明けて1893年元旦。福島は、やはり早朝に起きて東の方角を向いて天皇の長寿を祈りました。1月15日、ロシア・チタ州(当時)の州都チタへ。きわめて寒冷で、日によってはマイナス50度にもなりました。『単騎遠征 伯林より東京へ』には「極寒旅行の防寒具」との記述があるので、意訳しておきます。
《下にはメリヤスの襦袢と袴下、上に軍服、毛表の皮袴を重ね、毛裏の制服裘套を着て、ダハという皮で作った裘袍をかさね、表裏が皆毛の帽子に耳覆いをなし、外套の長襟をひらいて襟巻で縛って首を包む。手には親指と4指に分かれた手袋を用いる。これは、5本の指を分けると、寒気が縫い目から入ってしまうからで、指4本を一緒にすれば温かい。
足にはメリヤスの靴下2枚、靴は羊毛をたたき固めたもので、縫い目からの寒さを防ぐ。零下14度までは靴下を紙で巻き、通常の革靴で寒さを防ぐ。あるいは靴の中に羅紗をつけたり、毛靴を履く。零下25度以下になると、羊毛靴でないと防寒できない。
衣服についた金属は凍って白くなり、四肢が凍るのがわかる。零下7〜8度になると鼻のなかで氷を結び、呼吸するごとに粘着するようになる。ひげ、眉毛、帽子のつば、襟からコートまで、息がついた場所はみな凍る。まつげにも氷ができ、垂れて氷柱となる。視線が妨げられ、ちょっと目をつぶれば、凍って、目が開きにくくなる》
モンゴルでの天幕(『福島中佐単騎旅行図絵』)
2月11日、出発からちょうど1年のこの日、福島は氷の上で横転し、《頭を堅氷に触れて痛く脳底を撃ち、右手足の裏ことごとく麻痺》といった大けがをします。あたりは《鮮血淋漓(せんけつりんり)》の状態でした。再び動けるまで5日ほどかかりました。
3月31日、満州のチチハルを目前に、福島を驚かせる事態が起きました。村の入口に置かれた、匪賊のさらし首を見たのです。このあたりは馬賊が多く、さらし首もありがちな光景だったようです。
その後、熱病に苦しむなどしたあと、ついにウラジオストクへ。6月16日、福島はウラジオストクから「東京丸」で釜山に向かい、ここで「玄海丸」に乗り換え、21日、長崎着。24日、神戸に到着、29日に東京に到着しました。
東京・新橋に到着(『福島将軍遺績』)
帰国した福島は大歓迎を受けました。上野公園には2つの巨大な凱旋門が作られています。その様子を、当時の記録から意訳しておきます。
歓迎会場に作られた2つの凱旋門
《(上野・)不忍池の北端東台の山麓、穴稲荷社前より池辺馬場入口へ第1凱旋門を設け、その幅10間、高さ18尺すべてを檜葉あるいは笹で覆っている。正面「緑門」の上に笹竜胆(ささりんどう)の紋を竹の葉で表し、左右の柱の間には連隊旗の模様をつくり、門の上には騎兵の携える鎗(やり)状のものに五色旗を立てならべた。
池のほうにも同じく第2凱旋門を設けたが、そちらの門の上は歓迎式場である。形は橋形で、上には3間四方の楼閣をつくり、下は来賓が通行できるようにした。楼は東西から昇降でき、大きさは第1凱旋門と同一だが、構造は大きく異なっている。
頂上には杉の葉で馬をつくり、馬の背には連隊旗を立て、かつ5色の大小柱を立て、なかなか壮麗で、当日の歓迎場として恥ずかしくない。
また、馬見所は、楼上の中央を皇族、大臣そのほか陸海軍武官および高等官の休憩所とし、左楼は福島中佐と家族の席、右楼は歓迎会の委員席となっている》(『資料近代日本史』1933年)
上野公園での歓迎の様子
その後、福島中佐はさらに世界中を旅し、1904年に大本営参謀、日露戦争では満州軍参謀をつとめ、1914年に陸軍大将となりました。引退後は故郷・松本で、若者の指導に尽くしました。そして、1919年に死去しています。
制作:2026年3月8日
<おまけ>
福島のシベリア横断をまとめた『情報将校の先駆 福島安正』という本には、福島がユーラシア横断で、座右の銘とした6カ条が記されています。もとの出典がよくわからないのですが、情報の集め方として秀逸なので、ここに転載しておきます。
(1)便利な乗物で開けた町を通り、地方の大官等から話を聞き、宴会外交等によって集められた情報は、表面の皮相な観察と独断に過ぎず、かくして得たる情報は、程度の低いものである。
(2)特定の相手から聞いた話は、相手の宣伝であり、このやり口が多いのは遺憾である。これを自分が集めた情報と称している者が多いが、これは相手の手に載せられているものである。
(3)大切な情報は相手も秘匿していると思えばよい。従って表通りからはつかめないので、あらゆる徴候を総合して、つかみ取ってくることが多い。ここに苦心がいるが、それは時と場所とによって千変万化し、まず以て自らその経験をしなければ、到底前2項の低級な情報の区別すら出来ないであろう。
(4)情報の基本となる参考資料程度のものなら、その国の歴史、地理、人文、社会等の低い角度から求められるが、これはあくまで一般の基本に過ぎず、これらの資料の上を行って、当時の人物、世情、経済、生活などの実相を踏まえた具体的情報収集こそ軍事情報の主体である。
(5)情報は一時の断面図ではなく、長期にわたって検討する事が要求され、ここに現地在留の者が絶対必要となる。この諜者選出の端緒方策を発見するだけでも、自分で時間をかけ、時には反復攻撃して、やっと出来るものであろう。
(6)いろいろな旅行の困難に遭遇して、初めて思いもよらない各種の事象を発見するものである。また時と所によって任意に旅行出来る事が、以上の情報目的にきわめて必要なことである。(豊田穣『情報将校の先駆 福島安正』より)
大阪と神戸での歓迎の様子