1922年の東京空撮
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1922年「東京」空撮
有名作家とミーハー女学生が関東大震災に遭うまで
お茶の水、ニコライ堂上空を飛ぶ飛行機
芥川龍之介は、関東大震災の直前、鎌倉の「平野屋別荘」に宿泊していました。
すると、座敷の軒先には季節外れの藤が咲いています。それだけではなく、裏庭には山吹も花をつけていて、駅前の洋食屋には菖蒲も蓮も咲いています。この季節感のなさはどうしたことか。まるで自然が狂ったようだ……。
違和感を感じた芥川は、8月25日に東京に帰って以来、人と会うごとに「天変地異が起こりそうだ」と話しますが、誰も真に受けません。しかし、帰京してちょうど1週間後(大正12年9月1日)、大震災が起きたのです。
地震が起きたときの様子はこんな感じです。
《午(ひる)ごろ茶の間(ま)にパンと牛乳を喫(きつ)し了(をは)り、将(まさ)に茶を飲まんとすれば、忽ち大震の来(きた)るあり。
……家大いに動き、歩行甚だ自由ならず。屋瓦(をくぐわ)の乱墜(らんつゐ)するもの十余。大震漸く静まれば、風あり、面(おもて)を吹いて過ぐ。土臭殆(ほとん)ど噎(むせ)ばんと欲す。父と屋(をく)の内外を見れば、被害は屋瓦の墜(お)ちたると石燈籠(いしどうろう)の倒れたるのみ》(『大正十二年九月一日の大震に際して』)
震災時の丸の内(政府が公表した空撮写真)
まさか芥川龍之介が関東大震災を予知してたとは。ビックリです。
一方、同じく被災した寺田寅彦は、物理学者だけにこんな冷静な日記を書いています。
《椅子に腰かけている両足の蹠(うら)を下から木槌(きづち)で急速に乱打するように感じた。多分その前に来たはずの弱い初期微動を気が付かずに直ちに主要動を感じたのだろうという気がして、それにしても妙に短週期の振動だと思っているうちにいよいよ本当の主要動が急激に襲って来た。同時に、これは自分の全く経験のない異常の大地震であると知った。その瞬間に子供の時から何度となく母上に聞かされていた土佐の安政地震の話がありあり想い出され、丁度船に乗ったように、ゆたりゆたり揺れるという形容が適切である事を感じた。
仰向(あおむ)いて会場の建築の揺れ工合を注意して見ると四、五秒ほどと思われる長い週期でみしみしみしみしと音を立てながら緩やかに揺れていた。それを見たときこれならこの建物は大丈夫だということが直感されたので恐ろしいという感じはすぐになくなってしまった。そうして、この珍しい強震の振動の経過を出来るだけ精しく観察しようと思って骨を折っていた》(『震災日記より』)
震災をこんなに冷静に観察してる人も珍しいですね。
震災時の神田神保町(街が大きく破壊されています)
その寺田は、震災後、空の色が青く見えるようになったと書いています。
《震災前の東京は、高い所から見おろすと、ただ一面に鈍い鉛のような灰色の屋根の海であった。それが、震災後はいったいにあたたかい明るい愉快な色の調子が勝って来た。それと同時にそういう所で仰ぎ見る空の色が以前よりも深く青く見えだしたような気がする。これはコントラストのせいであろう。これほど著しい色彩の変化が都人の心に何かの影響を及ぼさないはずはないという気がする》(『LIBER STUDIORUM』)
そんなわけで、「灰色の屋根の海」が広がる震災前の東京の空撮写真を一挙公開です。
日比谷公園(1922年)
(左上から左下に向かって司法省、大審院、海軍省。中央上が第一高校)
両国橋、国技館
当時はまだライト兄弟の初飛行から20年しか経っておらず、いまほど飛行機はポピュラーな乗り物ではありませんでした。しかも、カメラの性能がよくないため、このころの航空写真は質が悪く、ほとんどまともなものがありません。
しかし、今回、本サイトが入手した写真は、かなり美しい写真でしょ?
上野公園と不忍池(博覧会の準備中)
月島から三越を望む。中央は日本橋の西河岸
それにしても、いったいどうしてこんな見事な空撮写真が撮影されたのか? 下の写真を見ればわかりますが、東京駅前に何やら門があります。これは、大正11年(1922)4月12日から5月9日まで来日したイギリスのエドワード皇太子を歓迎した奉祝門です。
この年の夏には、上野で
平和記念東京博覧会
も開催されており、空撮写真の価値が高かったんですね。それで、当時の「中外写真通信社」が「伊藤飛行機研究所」に依頼して写真を撮ったわけです。
東京駅と丸ビル。中央に奉祝門。駅前の粒々はすべて人です
奉祝門の拡大写真と、英国皇太子来朝時の様子
ちなみに、日本3大奇書の1つ『ドグラ・マグラ』を書いた夢野久作は、皇太子に熱を上げる最近の女学生はひどいと嘆いています。
《先年、英国皇太子が日本を訪(と)われた時、
「英国の皇(こう)チャーン」
とか何とか連呼してハンケチや旗をふりまわしたはまだしも、本郷付近で算を乱して自動車のあとを追っかけた女学生の群があったと聴いた時、記者はまさかと思った》(『東京人の堕落時代』)
当時の女学生も、いまみたいにミーハーだったことがわかります。
重要なのは、ここで皇太子を追っかけ回した女学生の何人かが翌年の震災で亡くなったことですね。
なお、同書によれば、震災後、東京には不良が増え、みだらな映画が増え、そして格安の売春が激増したそうです。
《震災直後の東京ではライスカレー一皿で要求に応じた女が居たと甲(たれ)も乙(かれ)も云う。そのライスカレーは、玄米の飯に馬鈴薯と玉葱の汁をドロドロとまぜてカラシ粉をふりかけたもので、一杯十銭位であった。
……彼等東京人は食物に飢えたように性欲にも飢え渇いた。その烈しい食欲と性欲は、彼(か)の灰と煙の中でかようにみじめに交易された》
知られざる震災の闇の部分です。
関東大震災から復興した丸の内(1931年)。手前が数寄屋橋と朝日新聞
制作:2012年10月1日
<おまけ>
『東京人の堕落時代』は、妙に風紀に厳しい文章なんですが、当時の女学生の好みのタイプが書かれていて面白いです。
《麹町の某署の刑事は、こんな事を記者に話した。
「東京の女学生の好き嫌いは大抵きまっています。明治や慶応の生徒はニヤケているからダメ、早稲田は豪傑ぶるからイヤ。一高と帝大が一番サッパリしていて、性格が純だからつき合いいいと云います。それから、そんな学生の中でも一番好かれるのは運動家で、その次が音楽の上手、演説、文章、絵の上手はその又次だそうです。学生以外で好かれるのは活動俳優で、とても一生懸命です。『日本の男俳優は肉体美がないから駄目』なぞとよく云っています。運動選手を好くのはそんなところからでしょう」云々》
90年前の女学生も、頭のいいエリートかスポーツ選手か芸能人が大好きということです(笑)。