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関東大震災日記


関東大震災日記
80年ぶりに発見された「震災日記」

 
 大正12年(1923年)9月1日、関東大震災が発生しました。昼時だったため東京や横浜では大火事が起こり、東京で7割、横浜で6割が消失したといいます。死者、行方不明者は、合計で14万人にのぼった大惨事でした。
 
 そうした悲惨な状況下、生き残った人々は、何を感じ、どう行動したのでしょうか? 今回、本サイトでは、外資系の会社員だった大関鬼子郎さん(当時30歳)の震災当時の日記を入手しました。

 有楽町で震災に遭遇した大関さんは、家族の待つ横浜まで歩いて帰ります。

さんざん苦労して帰ってみれば、自宅は倒壊して見る影もありません。生き埋めとなった妻「よし野」さん(25歳)は全身打撲で人事不省、長男「真佐雄」くん(3歳11か月)は圧死、次男「欣次郎」くん(1歳半)はひとり泣いていて……そこから隣人愛に助けられながら、なんとか姫路の実家までたどり着くまでの10日間の記録、全文公開です。
(なお、日記は読みやすさを重視し、新仮名で統一したうえ、一部修正しています)



大正12年9月1日(土曜日)

 真佐雄は一昨30日、腸を害して高熱であった。晩、私は会社から戻って心配した。昼間ヒマシ油を呑ませて、便通もあったし経過もよいが、疫痢を案じて氷を2貫目、箱にオガ屑を入れたなかに買って来て、一晩中、よし野と2人不眠で看護した。今まで丈夫な子で、少しくらい熱があってもすぐ治るのだが。「もしも疫痢だったら」と心配した。熱は40度以上に達し、意識は確かであったが疲れているらしかった。

 夜明け頃には熱も次第に下り、気分もよくなり食欲も出て来たが、用心して重湯を与え、更に1回ヒマシ油を呑ませた。

 昨31日も、流動食だけをやった。この日は丁度、天長の佳節[天皇誕生日]で会社も休みなので、昨晩不眠の疲れが出て昼寝をした。夕刻には真佐雄も起き出し、無理に寝させようとしても寝なかった。子供は少し良くなると寝ていない。やっと安心した。

 9月1日、真佐雄は朝早くから御飯を欲しがり、柔らかい御飯にお魚で旨そうに食べた。まだ少し疲れがあるから寝させておいた。私は今日は土曜日で半日である。真佐雄も「土曜日は半日、日曜祭日は休み」の事は知っているので、私が出かける時に「真佐雄、今日はお父さん早く帰って来るよ」と言うと「お父さん、帰って来たら僕に西瓜と葡萄と梨と買ってね」と欲しそうに言った。「ああ買ってやるよ。真佐雄、お父さん行くよ」と玄関から半身を伸ばして真佐雄の寝ている6畳の間を覗けば、床の中から「行ってらっしゃい。失敬」と答えた。

 今日は風雨があり、真佐雄がもし気分が悪かったら会社を休んだのだが、大分良いらしいし、昨日は祭日で休み、明日は日曜であり、今日は半日なので出かけた。これが最後の別れになろうとは神ならぬ身の知る由もなかった。

 1丁程行くと風に帽子を吹き飛ばされた。それから少し行くと商店の軒先に洋傘を引っかけた。2度もこんな事があったが風雨の際とて別に気にも留めず、北方町から電車に乗り出勤の途についた。

 会社は東京有楽町、日日新聞ビル5階のサミエル・サミエル商会。機械部の自分の机に座り、外出すべき用件もなく、半日のため皆電話やその他の事務を片付けていた。正午も近付き、そろそろ帰り支度にかかる頃、突然の大地震が襲来した(午前11時58分)。

 衝立は倒れる、硝子は壊れる、照明灯は散乱する。その物凄さ、鉄筋コンクリートの新館も飴細工の様に揺れる。机の下へ潜って難を避けた西洋人も数人おり、師尾精三氏や私も机の下の組である。しばらくして止んだので、今のうちにと帰りかけると又揺れ出したので又隠れる。止んだ、又揺れる。こんな大きいのが3度繰り返した(一番最初のが最も大きく、震幅4寸以上であった)。

 やっと揺れが止んだので、机の上を整理した。大急ぎで階段を駆け下りた。さすがに鉄筋コンクリート建築だけに、ところどころ亀裂程度で確[しっか]りしていた。

 外へ出てからも時々小さい余震は数限りなくやって来た。有楽町駅から横浜桜木町行きの省線を待ったが来ない。そのうちに、平野屋[現存する小物屋]の裏の方で火事が起こり、段々拡がって警視庁、総監官舎、帝劇へと燃え移った。日日新聞ビルは総監官舎と通りを隔てているだけだが、幸い風上なので大丈夫らしいと見きわめがついた。


帝国劇場
燃える帝劇

銀座通り
崩壊した銀座通り


 今度は横浜の留守宅が気になり、新橋駅へ向かった。銀座交差点から新橋駅前までの間に倒壊家屋は1、2軒しかなかった。新橋で品川行きのバスに乗り、品川からいよいよ横浜まで歩く決心をした。


品川駅の大群衆
品川駅の大群衆


 ところが、故障で停まっていた横浜行きの貨物自動車に乗せて貰った連中が20人もいるので、それへ無理に頼んで私も乗せて貰った。料金1人前5円ずつ。無茶だが幾等でもこの場合ありがたい(普通、東京横浜間1台30円が相場)。

 少し進むと、家が倒れて道路が塞がったり橋が潰れたりしたところがあって、右へ右へと道を進むうち[運転手が先に行くのを嫌がってきたため]料金も更に1人前10円に値上げして、頼んで運転手に車を進めて貰う事にした。25〜6人の乗客全員が10円以上所持するばかりはなく、不足額は月曜日に支払う事として名刺を渡した。

 しばらくするうち、玉川の丸子の橋を渡ったが、道路崩れがあって自動車は進めなくなった。日は既に入り薄暗くなったが、詮なく一同徒歩と決心し提灯2個を需[もと]めて横浜さして進む。振り返り見れば帝都の空は真っ赤である。 

 自分達が出立する頃はあちこちに火事はあったが、そのためとは気付かず、火薬庫か石油タンクの爆発だろうと話し合った。前方を見れば横浜の方も同様空が真っ赤になって来る。東京の方からはドンドンと気味悪い爆音が聞こえる。

 横浜近くになって横浜より来る人に逢う。様子を尋ねると「横浜は大丈夫だが東京はどうか」と言うので、こちらは「東京は大丈夫だ」と答えた。後で知った事だが、お互いが出立の時は大丈夫だったので、その後の大火事を知らなかったのである。

9月2日

 横浜市に入る頃には、行き逢う人の言も段々「横浜全滅」と言う様になった。燃えている橋を人が駆けて渡ったりしていて、本牧へ行くのを磯子廻りにするより外はないくらいの大火事が広まっていた。八幡橋に出る途中、銘々の方向に別れて私ら一行は3人になった。

 三渓園の少し手前に差しかかった時、初めて自警団に出会った。「今、根岸の監獄が焼けて約400〜500人焼死したので、残り1500人程を一時解放した。それらが全部本牧の山に逃げ込んでいるし、近くの鮮人[朝鮮人]部落の者が通り人に乱暴を働いたから、諸君の安全は保証できぬ」と言われた。時計を見れば午前3時半である。そう思って行き交う人を見れば、鮮人や脱獄者にも見えて来るので、そこでしばらく夜明けを待つ事にした。

 ビールの空壜[ビン]を貰って水を詰め、昼食も夕食もしてないので附近で握り飯を5つ貰って、そして1つだけ食べて、残りは真佐雄や欣次郎に食べさせてやろうと我慢した。


本牧トンネル
関東大震災で崩壊した本牧のトンネル


 5時頃に、連れも増えたので出発。
 財布の残金が15銭あったので玉子2個を買い、電車の終点本牧から市中へ後戻りして箕輪下停留所の所を右へ入り、我が家の方へと進むうち、避難者の群れのなかから、疲れた「よし野」の泣き顔を偶然発見した。

 家の焼けた事は附近の模様から承知していたが、「どうした」とまず尋ねた。見れば、よし野は打撲傷で動けぬくらいであり、欣次郎は素足でチョコチョコしているが、真佐雄の姿がない。「真佐雄は」と尋ねると、よし野は「死んだのだろうと思うが、私には教えてくれません」との事。

 それで我が家の焼け跡へ行って見たが、瓦だけで、柱も家具も布団も何もかも灰になっていたが、焼死体はない。近くには、親子4人あるいは2人と焼け跡に黒焦げとなっているのもある。

 そのうち、私のところへ来て「男の児の死体ですか」と尋ねる男の方があったので「そうです」と答えると、「それなら私が向こうのビール壜置場へ運びました」との事。「あ、そうですか」と、すぐその方へ飛んで行った。見れば十幾つかの死体があちこちにあり、その中に、真佐雄の微笑して眠れるが如き死体が、草原の上に発見された。誰がかけてくれたのか、白い襦袢で覆ってあった。附近に行李[こうり]の蓋があったのでそのなかに入れた。

 皮膚の色も生ける時そのままである。手を触れると氷の如く冷たかったので、死んだのが感じられるくらい。この様に眠れるまま永久の眠りに入ったのだから、少しも苦しまず、好きな西瓜でも買って貰った夢でも見ていて死んだのかも知れない。

 震災の際、真佐雄は6畳で、欣次郎は4畳半で各々午睡していた。よし野はその間に裏で洗濯して糊を搾っていた時に襲った大地震であったから、驚いて座敷へ駆け上り、まず幼い方の欣次郎の傍に来た時に家が倒壊したので、よし野は梁に背骨を打たれて人事不省に陥り、欣次郎も頭を少し打ったが、よし野の倒れた下で悲鳴をあげ続けたのであった。真佐雄は柱と敷居に挟まれて頭の前後に深く喰込んだ打撲で即死したのであった。午睡のままで、朝、私が腹巻と本ネルの腰巻をさせ、その上に弁慶の浴衣を着せてやったそのままで。

 欣次郎の悲鳴を聞き、篠田頼次氏が福原氏や金沢氏と共々、瓦や屋根を壊し、第一番に、気絶しているよし野を救出し、次いで泣き続ける欣次郎を出し、最後に真佐雄を出して下さったのだと、後になって判った。篠田氏は、近隣からの出火で自分の家に火が廻って来たのに、まず隣家で2人を救出し、次いで私方を救出し、その後、自分の家から行李1個持出しただけである。

 よし野と欣次郎とは篠田氏が出してくれたが、火の手が廻って来たので、又、知らぬ人が少し離れた所へ運んでくれた。
 欣次郎がまだ2才の無邪気さなので、気絶したよし野に対して[このまま母親が死んだら]この子が可哀想だから何とかならぬかと人工呼吸やら、顔に水を吹きかけるやら、口のなかに薬を押し込むやらの隣人愛のお蔭で蘇生したのであった。

 しかし火の手は更にその近くにまでも迫ってきたので、近くにいた大場氏の家族の人達が避難する時に、欣次郎とよし野を、前記の箕輪下停留所近くへ逃げさせて下さったのだった。

 真佐雄の死体は、火の手が廻ってきた時に、近くにいた人(私に告げてくれた人)がビール壜置き場に運んで下さったのでした。私は気が落ち着いてから、その運んでくれた人に御礼を述べなんだと気付いたが、顔もよく覚えず名も聞かなんだので、今更ながら気が転倒していた事が判った次第です。

 真佐雄の遺骸を収めた柳行李の蓋は、箕輪下のよし野がいるところまで運んだが、附近の避難者が嫌がるので遠慮して元のビール壜置場へもう1度運び、根本君の息子の猛君(4歳)と他の2歳位の児と[一緒に並べて]、3つの仏の近くで3家族が御通夜する事にした。

 しかしこの広場には何百人という人が集まっていて、なかには焼けトタンで小屋を造り、そのなかに簡単ながら家財道具をまとめている早手廻しのよい人さえあるが、私達は露天に薄縁[うすべり]を敷いた上に座って洋傘で風を防いでいるだけである。夜は真っ暗で寒い。大場氏が布団を1枚と女児の綿入をくれた。これは欣次郎に着せた。幾分寒さは防げるが、蚊と蟻には弱らされた。

 食物とて何1つなく、避難者のなかで家財を搬出した人達のところへ行って握り飯を貰うので、1日に2つくらいしか食べられない。同じところへ2度貰いには行けないものだ。

9月3日

 真暗い長い長い夜は明けたが、顔洗う水とてない。飲み水はビール壜に井戸水を入れて置いて大切に飲むのである。井戸も何百人で汲むのであるから、時間を決めて何時間ごとかにしか汲めない。食物は矢張りムスビ2、3個を貰ってきて親子3人で分けて食べた。

 よし野の打撲は、少し体を動かしても痛むので、歩くどころではない。我が家の焼け跡を探して銀貨が少々発見された。これが唯一の財産である。

 私はアルパカの上着を脱ぎ、白ズボンに靴、その上に女物の浴衣(貰ったもの)を着て、欣次郎を背に、洋傘をさし、ビール壜を首に下げてムスビ探しに歩くので、実に悲しかった。

 欣次郎は魚が好きであった。御飯も柔らかいのを食べさせていた。それが塩ムスビ、しかも冷たい玄米や南京米のムスビなので、空腹の私でさえ咽喉を通らないものさえある。そして井戸水ばかりときているから、欣次郎は衰弱するばかりで、顔の色は青白く元気は失せて虫を起こす様になってしまった。

9月4日

 真佐雄の遺骸を2晩枕元に置いたが、いつまでもそのままにはして置けない。市中至るところに黒焦げ死体があっても取り片付けもせず、ある場所には何十人、何百人がひと塊になっているのさえある際、到底お役人の手で何とかして貰う事も期待出来ず、さりとて勝手にして後日叱られてもと、消防署へ尋ねに行った。

 死体の処分は諸君において適当にしてくれとの事。それで、我が家の焼け跡で火葬にするつもりであったが、私はどうして焼いたらよいか判らない。根本君の子供の遺体を同氏宅の跡で焼くため叔父さんが用意し始めたので見に行きしに、「それでは造ってあげる」と慣れていると見えて[焼き場を]造って下さったので、その近くで火葬に附した。
 よし野も痛む体でそこまで来て念仏を唱えた。欣次郎も、私の背中で合掌して亡兄の冥福を祈った。

 雨模様の空となったので、木や竹を集めてきて柱となし、焼トタン板を載せて屋根となし、雨露を凌ぐ用意をした。はたせるかな雨となり、天井だけトタン板で横は筵[ムシロ]を下げてあるだけなので、雨が吹き込み洋傘で防ぐ始末であった。

 不逞の鮮人襲来とか種々の流言もあり、戦々兢々たる一夜であった。あちこちで鉄砲の音が聞こえる。余震は小さいながら昼夜の別なく何十回とやって来た。

9月5日

 早朝、よし野と共に、真佐雄の遺骨拾いに出かけた。綺麗に焼けていた。幼児の為か、極楽へ行けた為か、美事[みごと]に焼けていて嬉しかった。骨は紙に包み、ズボンの右ポケットに収めた。これからは、どこへ行くにも遺骨は私と共にである。

 今日、給米があるというので、朝8時頃、欣次郎を背にし、洋傘を持って出かけた。

 山下橋脇の長い行列に加わり、1歩1歩前へ進んだ。太陽はカンカン照りつける。空腹と疲労とを井戸水で持ち耐えるのだから、欣次郎はアッチアッチと泣き出し帰ろうと言うのである。それをやっとなだめて11時になった。もう少しでこちらの番となる頃に、「米はなくなったから今日は中止」と宣告された。腹が立ったが仕方がない。

 折角ここまで来たのだから、市役所へ[船で横浜を離れるのに必要な]「帰国証明書」を貰いに行く事とし、桜木町の方へ向かった。



横浜市役所
焼けた横浜市役所


 途中、欣次郎は虫を起こして泣く。抱いてもどうしても泣き止まず、男泣きに心で泣いた。
 途中、知人の芝沼二郎君夫婦に会った。同君によれば「市役所前は何千人の行列で、到底今日は駄目だから、明日僕が貰ってきてあげます。幸い僕の家は潰れてないし、食物も少々あるから同道しましょう」との事。氏の居宅へ行く途中にも欣次郎は虫を起こして泣き叫ぶ。目の色は変わり、そり返り、手の付け様もない。疲労で神経が興奮して虫を起こしたのである。

 横浜市役所にやっと辿り着き、冷水で顔を拭き、鰹節のスープ、日本米の御飯と梅干[をご馳走になった]。平素なら何でもないものながら、この時の旨しかった事。欣次郎もスープを何杯もお代わりし、御飯を食し、甘藷を貰い、腹が満ちたので急に元気付き、室内をアチコチ歩き廻って喜んでいる。

 草原の中の半坪程の雨を凌ぐだけの乞食小屋から、普通の住家に来たのだから喜ぶ筈だ。親心としてどんなに切なかったか。米を1升程貰い、欣次郎をオンブしてビール壜を首へぶら下げて、同家を辞す事にした。

[しかし、]洋傘と米とを持ちビール壜2本をさげて遠くへ戻るのは困難なので、柴沼君が、米とオートミルを持って[一緒に]送って来てくれた。

 同君は我が避難所を見て余程気の毒に感じたらしかった。市役所の手続は同君が明日済ませてくれると約束をし、種々慰めてくれて嬉しかった。一生忘れ得ぬ感銘の1つである(柴沼君の家には近所の人が多勢避難して来ているので、私達を呼寄せられんので済まんと詫びていた)。

 よし野は、長い時間、ただ1人でこの小屋に身を横たえて、もう私と欣次郎は戻って来んものかと案じていたとか。無理もない。殺気立っている場合、いつどんな異変が起こるかも知れぬ時だったから。

 夜、初めて米の御飯を炊いた。釜は焼け跡から持ってきて、蓋の代わりに焼けた洗面器を用いた。御飯に味噌をなめての晩餐であったが、貰ったムスビ飯を分け合ってきた今までに較べて満足した一時であった。

9月6日 

 午後、欣次郎をおんぶして柴沼君の許へ出かけた。途中で、ヒーリング商会の進藤道太郎氏に出会った。種々尋ねられ、真佐雄の圧死の事を話した時には声が咽喉に詰まり、思わず落涙した。
 氏が持参のウィスキー(小瓶)と、「持合せが少ないが何かの足しにして貰いたい」と5円をくれた。厚く礼を述べて受け取った。

 真佐雄の香典にと避難所で知り合った人達から貰った合計金3円也と焼け跡で発掘した小銭少々で昨夕から牛乳を買いに大津谷戸まで往復1時間もかかってわずか4合(2合ずつのところを、特に頼んで4合買った)需[もと]めた。

[そうした状況下、貰った]今の5円は大金で有難かった。そして心丈夫になった。
 柴沼君は昨夜は夜警で眠らず、今日も午前中道路修理だったので、午睡中だった。それで市役所の手続きは明日間違いなく[済ませて]届けてくれる事になり、握り飯を馳走されて戻った。

9月7日 

 正午頃、柴沼君が証明書を貰って来てくれた。それで明朝、乗船場所の山下橋際へ出掛ける事とし、夕方御飯を炊き、ムスビを作り、附近を少し掃除す。


山下町本町通
壊滅した山下町本町通


 長い長い真っ暗な山麓の草原の一夜も、今夜は幾分、帰れる希望で楽しみだ。[しかし、]欣次郎の下痢が少しも止まらない。碌[ろく]な食物もなく牛乳も生のままで呑み、水は井戸水だから無理もない。医者へも行けず薬とてもない場合、何とも仕方がなかった(牛乳は5日夕、6日朝・昼・夕、7日朝と5回、4合ずつ買って呑ませた)。
 幼児を、[ここまで一生懸命]やって助けてきたのだから、どうぞ無事に帰国させて下さいと神に祈りつつ夜明けを待った。

9月8日 

 夜が白々開け始むる頃より出かけねば、怪我しているよし野を伴なっての事とて駄目である。よし野は杖に縋[すが]ってそろそろ歩き、少し行っては休みながら山越えし、漸く6時頃に山下橋近くの埋立地へ辿り着いた(出発の際、真佐雄の焼け跡へ最後の別れをした)。


使用不能となった横浜港
使用不能となった横浜港


 清水港行きの方が発船回数が多いという話なので、その方の行列の最後に加わったが、6日から2晩ここで野宿して乗船を待っている連中の列に加わったのであった。
 秋の陽はカンカン照りつけ、埋立地の赤土は焼きつける様である。行列は段々増えて長く長く続いていく。水兵さんが銃剣で整理してくれる。

 正午頃、軍用パン1個ずつ配給して貰った。これが中食である。欣次郎が又々虫を起こしたので、救護班から鎮静剤を貰って飲ませたので、ようやく治る。この日は3回も虫を起こして困った。

 正午過ぎに軍艦がみえた。ボートに数人ずつ乗せて、沖合いに碇泊している軍艦に運んでは又引返すので時間がかかる。立ち通しの一日も暮れて夕闇濃くなった7時半になり、やっと短艇に乗る事が出来た。私達の乗ったボートが今日の最後であった。収容された巡洋艦「天龍」の甲板上に座る。鉄板の上だから浴衣を敷いて、よし野と欣次郎を寝させ、私は足を伸ばすだけ。混雑している。横になった者でも到底眠れなかったであろう。

 船はこのまま碇泊して明朝出港するのであった。

巡洋艦「天龍」
巡洋艦「天龍」

軍艦「神威」に救助された人々
軍艦「神威」に救助された人々

 
 9月9日 

 朝6時、船は清水港に向け出港した。
 恨みの残る横浜、悲しみの深い横浜よ、サヨナラ。

関東大震災の横浜
横浜全景


 朝食には、昨夜水兵さん達が握った南京米のムスビ2つずつ。これに牛缶1つを15人で分け合うのである。空腹でありながら、このムスビは旨しくいただけなかった。それは昨夜作ったポロポロした南京米なので、「すまん」と思いながらも、やっと咽喉を通した。

 12時半、清水入港。
 前夜私たちは一番遅く乗り込んだので、下船の時は第一番のボートに乗せられた。早速、救護所で温かい牛乳を貰い、欣次郎に飲ませた。そして自分らは握り飯を食ったが、その旨しかった事。純粋の日本米の、温かい、塩のついたのだった。私は遠慮もせずに4つ平らげた。

 電車で江尻へ行き、ここで汽車を待った。プラットフォームは超満員で刻々と人は増える一方。怪我人と幼児を連れて果たして乗れるかどうか案じつつ汽車の来るのを待っていた。待つ事約2時間。ようやく汽車が進入して来たが、既に満員で、これに乗ろうとする人は、無慮何千人(「天龍」から来た者が2500人、それに前から待っていた者も相当あった)。

 駄目だと観念していたところが、列車の最後の2等車が私たちの前で停まり、約半数くらいの座席が空いていたが、停まるや否や人々はわれ先にと飛び込む、窓から這入る。その物凄さ、平常想像も及ばぬ状態であるが、幸い、なんとか乗る事が出来た。

 もちろん既に超満員で、座席などあろう筈もなし。よし野は床へ座らせ、私は欣次郎をオンブしたまま吊り革にぶら下がっていた。名古屋についてようやく座席が空いたので、よし野は腰をかけ少し横にもなれた。欣次郎も下ろして、横に寝かせた。この汽車のなかでも、欣次郎は2度虫を起こし、昨日貰った鎮痛剤の残りを与えてやっと治ったが、その時、汗を流しながらなだめる苦しみ悲しみは何とも言えなかった。

 途中の駅々では、至るところ、青年団その他の方々が出迎えて、ムスビや水などを避難民に与えて慰めて下さったーー。



 こうして一行は、9月10日朝6時に神戸に到着しました。
 その後、姫路駅から実家の妻鹿へ向かい、両親と再会します。実家に到着した大関さんは、亡くなった真佐雄くんについてこう書いてます(10日付け)。

《真佐雄よ、何故死んだ。微笑した、眠ったままのあの死相の何と神々しき事か。まるで仏の化身の如きものが感ぜしめられる。無信仰の私を導くために生まれて来たようにも思われる》

 亡き我が子の法名は、「釈智雄」でした。



制作:2003年9月1日

●関東大震災の惨状
●震災で「崩壊した東京」
●震災1年後の「復興しつつある東京」
●関東大震災「鳥瞰図」
●関東大震災からの復興

●田山花袋『東京震災記』

●関東大震災直前の東京空撮

<おまけ>
 大関さんが勤めていた「サミエル・サミエル商会」は、イギリス系の商社です。傘下のライジングサン石油は、第一次世界大戦下(1914年)で、日本軍への最大の重油供給会社でした。このことから、いかにイギリスが日本を重視していたかがわかると思います。

 ところが、震災の前年(1922年)に日英同盟が破棄され、1941年には、アメリカ・イギリス・中国・オランダによる経済封鎖「ABCD包囲陣」が実行されます。結局、ほとんど石油が手に入らなくなった日本は、やむなく南進政策を進めることになるのです。

 1942年に「敵産管理人」の管理下に置かれたライジングサン石油(とサミュエル商会)こそ、現在の昭和シェル石油です。人に歴史あり。そしてやっぱり企業にも歴史ありなのでした。

関東大震災日記
この日記は「毎日新聞」(2003年9月1日付)、「女性自身」、日本テレビ系「おもいッきりテレビ」で紹介されました
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