潮干狩り


 下の画像は、大正15年(1926)の「屁」(双文館)より転載したもの。潮干狩りで目の前の女が屁をして大迷惑、という絵柄で、直撃された男の格好がいい感じでしょ。かつては、わりと見かける画像でしたが、今ではこんな下品な絵はほとんど見ませんな。

潮干狩り
潮干狩りにて、もっともしてはならぬこと、それは「屁」なり。


 その昔、潮干狩りはかなり一般的な庶民の娯楽でした。
 たとえば、次の文章は『上等紀事論説五百題(巻上)』に書かれた、明治14年(1881)の潮干狩り日記「品海拾貝記」です。
 品海とは現在の品川のことです。さすがに120年前には、ハマグリがたくさんいたことがわかります。

《今茲(こんじ=今年)晩春、某の日、余(わ)れ、偶々(たまたま)事なく、机によりて詩を哦(が)す。忽(たちま)ち柴門を扣(たた)く者あり。出て之を迎ふれば即ち友人某、数輩なり。其の来意を問ば曰く、品海に於て拾貝の遊を為さんとするなりと。
 乃(すなわ)ち伴なひ行ば、恰(あたか)も好し。潮、既に退いて海面一滴の水なく、恰(あたか)も是れ平地の如し。
 乃(すなわ)ち各自に竹籠を提(たずさ)へ、海沙を踏みて行くこと凡(およ)そ300餘歩にして、蛤の属(たぐひ)、沙上に散乱し、恰(あた)かも、是れ落花の地上に舗(しく)が如く、左に拾ひ、右に取り、彼につまどり、此に探り、忽ちにして籠に盈(み)てり。
 乃(すなわ)ち憩一憩(=休憩)して、亦(また)、歩すること100餘歩にして、潮あり脛(すね)に及ぶ。其の清きこと氷の如く、以て水底を見るべし。小魚あり、藻中に潜伏す。乃(すなわ)ち、小槊(=小さなヤリ)を以て之を刺すに、一として得ざるはなし。或は手を以て之を捕ふるも、亦、獲ざるはなし。其の楽み、亦、比すべき者なし。
 況(いわん)や此の日の晴色(=晴天)湛然(たんぜん)として、一點(いってん)の雲なく、片陣の風なく、暖和の氣(き)人を薫じて、身の海中に在るを忘れしむるをや。
 乃(すなわ)ち岸に登り、酒を呼び、獲る所の魚貝を肴とし、頽然として酔に就き、聊(いさ)さか手足の労を醫(い)し、薄暮、家に帰り、燈下に於て之か記を作り、以て同行者に示すと云示(うんじ)す》

潮干狩り


 こうした庶民の娯楽も、戦争末期には、生きるか死ぬかの状態では異質な光景となりました。
 作家の坂口安吾は、『釣り師の心境』で羽田空港に潮干狩りに行ったときの様子をこう書いています。

《終戦の年の五月の頃であったが、私は焼野原をテクテク歩いて、羽田の飛行場の海へ、潮干狩りに行った。四面焼け野原となって後は、配給も殆どなく、カボチャや豆などを食わされ、さすがに悲鳴をあげたという程のこともないが、半分は退屈だったから、潮干狩りとシャレてみたのである。生れてはじめての潮干狩りであった。

 羽田の飛行場は、焼けた飛行機の残骸や、吹きとばされて翼の折れた飛行機などが四散していた。

 膝までの海を安心して歩いていると、いきなりバクダンの穴へ落ちて、クビまでつかり、ビショぬれになってしまった。それでも20人ぐらい貝を拾っている人々がいた。海一面が貝のようなもので、いくらでも貝のとれる状態であったが、今はもう、そんなに貝はいないだろう。

 私はシビのあたりまで歩いて行って、ゆっくり大物を物色した。2度空襲警報がでた。心細いものである。20人ほどの人間がみんなそれぞれ慌てている様子が見えるが、私はシビによりそって、シビの材木のフリをするような方法を用いた。アメリカの飛行機に水遁の術がきくかどうか心細い思いであったが、欲念逞(たくま)しく、尚も海中にふみとどまってハマグリの大物を物色しつづけたのである。釣り師の心境というものを若干会得したのであった》


 なんともすごい時代ですな。

広告
© 探検コム メール