雪上車の誕生
「くろがね」と「吹雪号」

南極観測用のSM50型雪上車
南極観測用のSM50型雪上車(名古屋市科学館)


 1968年12月19日、日本の南極観測隊が初めて南極点に到達します。

 当時の様子が、『日本の雪上車の歩み』という本に記録されています。まず南極は、全子午線が交差するため、特定のタイムゾーンは定められていません。そのため、12月16日、一行は往路の最終キャンプを張ると同時に、時計を南極点時にあわせ、時計の針を9時間進めました。

《83日間に及ぶ旅行で煤けた車室の天井、壁、床、窓ガラスなどはガソリンで綺麗に拭きあげ、 生活の場を清掃して、明日の極点入りに備えた。

 12月19日、3両の雪上車と12台の橇(ソリ)が雪面に刻むシュプールは刻々と極点に近づく。単列縦隊の3両のKD60大型雪上車は基地から1km左の地理学上の南極点を示すマストを目指し、一歩一歩雪面を踏みしめ、午後2時20分、歓喜の拍手が湧く中を夢にまで見た南極点に今到着した。》

 帰還に向けた雪上車の整備は順調に進み、準備が整った24日には、一行はクリスマスイブを楽しみました。この文章に登場する大型雪上車「KD60」は国産で、3台のうち2台は国内で機械遺産として保存されています。

 いったい、国産雪上車はどのように誕生したのか。今回はその開発の歴史をまとめます。

南極点に到着したKD605
南極点に到着したKD605(白瀬南極探検隊記念館)


 現在、日本は外国人観光客(インバウンド)の呼び込みを熱心におこなっていますが、いまから100年前にも同じような事態が起きました。

 国際収支の赤字に悩んだ日本は、1930年(昭和5年)、インバウンドを誘致するため、鉄道省国際観光局が中心となって、日本中に高級ホテルを建設していきます。対象ホテルには大蔵省の低金利融資がつきました。こうして、1933年から1940年にかけて、15の観光ホテルが整備されました。

 具体的にはホテルニューグランド(神奈川県、1934)、雲仙観光ホテル(長崎県、1935)などで、一般には「国策ホテル」と称されます。

 国策ホテル第1号は、帝国ホテルが運営を担う上高地帝国ホテル(長野県、1933)です。会長の大倉喜七郎は、その後、川奈ホテル(静岡県、1936)に関与し、続いて赤倉観光ホテル(新潟県、1937年)も建設します。

 赤倉では開業と同時にスキー場が整備され、外国人向けの、現在のニセコのような「国際スキー場」となりました。大倉はこのスキー場に、アメリカで普及していた雪上車の導入を考えます。開発は、フォード自動車の改造からスタートします。開発を年表式にまとめると、

●1927〜28年/乗用車の前輪に「ソリ」をつけ、後輪を2輪としてキャタピラを取りつけた
●1928〜30年/後輪をダブルタイヤにしてキャタピラの幅を倍にし、接地面を増やした

 1929年、日本初の雪上車が完成します。このとき、最初の運転手となった根立順一氏の証言が残されています。根立氏は、妙高温泉や野尻湖のあたりを試乗しますが、

《翌朝30センチも自動車の屋根に(雪が)積っていた。雪の30センチや40センチ位、雪上自動車の偉力の前には、となめてかかったのがいけない。朝のうちの雪が乾燥している間は吹き飛ばしても走れるが、日が出て雪が湿ってくると、キャタピラにベタベタと、くっついてしまって、どうにもならない。

 妙高温泉を基地として池の平や赤倉温泉へ幾度か強行軍を試みたが好成績とは言えなかった。時には登りにかかってどうにもならず、ついに人夫30名くらいを雇って、地面を掘り出して帰ったようなこともあった》(中戸賢亮『直江津こぼれ話』)

 と、ほぼ実用になりませんでした。その後、

●1931〜32年/接地面をさらに増やすため、前輪「ソリ」と後輪の間に誘導車輪を装着
●1933〜35年/駆動輪のゴムタイヤを廃し、歯車式のスプロケットホイールを使用

 と改造していきます。ここまでは主に日本自動車と日本内燃機が開発を担当しましたが、いずれも平坦な積雪路面は走行できたものの、新雪が積もると立ち往生してしまいました。そこで、陸海軍も開発に参画することになりました。

日本内燃機の「くろがね」
フォード'37年V8コマーシャルカーを改造した日本内燃機の「くろがね」(『建設の機械化』1967年8月号)


●1936〜38年/陸軍と海軍が参加して、1938年、実用の域に達した「くろがね」が誕生
●1941年/前輪「ソリ」を廃し、オールキャタピラ式として性能を向上させたが、完全なものができる前に戦争が激化

 キャタピラ式以外にも、プロペラ式、スクリュー式、ドラム(大車輪)式、スクーター改造式などさまざまな技術が試されましたが、いずれも試作のレベルで、実用化には至りませんでした。「くろがね」も、進駐軍によって廃棄させられてしまいます。

「くろがね」の側面図
「くろがね」の側面図(『内務省土木試験所報告』第62号「雪上自動車走行機構の構造に就いて」)


 戦後、雪上車の開発は、新潟県で始まりました。新潟県は積雪、除雪、圧雪などの基本研究を重ね、1950年に雪上車を試作、試験結果をもとに、1951年の秋に設計を完了。同年12月、雪上自動車「吹雪号」が完成するのです。

 では、いったいなぜ雪上車は開発がうまくいかなかったのか、主な理由をあげると、

(1)雪の多樣性

 雪質は、マイナス1度とマイナス30度では結晶も性質もまったく異なります。しかも、物理的性質は温度差に対して直線的な変化をするわけではありません。雪の付着、圧着、氷結は温度によってまるで異なるので、たとえばマイナス1度の雪に適合した機械が、それ以外の温度に適応するわけではないのです。

(2)接地圧の調整が難しい

 さらに積雪の深度の問題があります。積雪構造は一定ではなく、一見平担に見えても複雑な雪層から成り立っています。地面も崖や傾斜面など多種多様で、接地圧(接地面積と重量との比)の問題が簡単に解決できません。接地圧を減らそうと車両重量を軽くすると車体の強度が落ちるうえ、重心が不安定になってしまいます。

(3)実験場所と期間が短い

 積雪地帯は限られているうえ、積雪期は短期間です。そのため、失敗要素を改造しているうちに春を迎えることも珍しくありませんでした。実験を繰り返すだけですぐに何年もたってしまうのです。

(4)予算面など

 地域的・季節的に限定される話なので、研究者は少なく、仮に参画しても共同で動くことは少ないのです。多額の資金が必要にもかかわらず成果が見えにくいので、研究者の熱意も企業の投資意欲も低迷しやすくなります。もちろん行政の優先順位も低いままです。

 こうしたなか、新潟県は雪上車の開発に全面的に取り組みことになります。研究の中心となったのは、大倉喜七郎の開発に長く関与していた赤倉観光ホテルの技術主任・小竹三治氏でした。

 小竹氏はどんな人物なのか。『妙高高原町史本編』(妙高高原町史編集委員会編、1986)によれば、20代から車両運転係として、赤倉観光ホテルに勤務していました。戦前、陸軍戦車兵だったこともあり、キャタピラ式の車両には強い関心を持っていたとのことです。

 敗戦後、赤倉観光ホテルは進駐軍に接収されますが、そのときは進駐軍の車両整備係も兼務。米軍の水陸両用車「M29 ウィーゼル」からヒントを得て、本格的な雪上車の設計をし、特許を取得しました。なお、小竹氏は国家資格であるスキーリフト主任技術者(索道技術管理者)の第1号でもあります。

 以下、再び年表風にまとめておくと

●1950年/新潟大学工学部および小竹三治氏を中心とする研究チームが構成され、県費100万円を支出。4トン軽戦車を改造したキャタピラ式雪上自動車を日本油機小松川工場が試作

●1951年/製造は積雪地方にある工場と決定され、最終的に長岡市の大原鉄工所が応じる。12月末「吹雪号」第1号が完成し、数度にわたって600kmの長距離走行試験を実施

 開発は、車体の重量を減らす、キャタピラに雪がつかない、駆動歯車が雪を噛み込まない、などが重視されました。実は、大原鉄工所はもともと石油の掘削機器メーカーで、車や重機は製造したことがありませんでした。しかし、苦労の末、量産化に成功しました。小竹氏は特許を新潟県に寄付する形を取っており、現在では雪上車は大原鉄工所の独占となっています。

雪上車吹雪号
吹雪号(雑誌『雪と生活』1952年4月号)


 さて、雑誌『雪と生活』1952年4月号に、「吹雪号」走行試験の詳細が記録されています。以下、原文に近い感じで掲載しておきます。

【第1回】1951年2月27日

 長岡市の大原鉄工所構内で命名式をおこない、岡田正平・新潟県知事より「吹雪」号と名づけられた。構内に敷いた砂上を試走、続いて砂丘登坂を試みた。

【第2回】1952年1月10・11日

 南魚沼郡六日町〜湯沢間往復40kmを走行。概略ルートは
<六日町-(4km)-塩沢-(7.1km)-赤坂峠-(7.8km)-湯沢>
 なお、それぞれの積雪は六日町50cm、塩沢60cm、赤坂峠150cm、湯沢120cm

 応急的に作った自重700kgのソリを牽引、吹雪号に10名、ソリに7名と多少の機具、総重量1.5トンを積載して、午後4時30分、六日町を出発。牽引ソリの具合も良好で、平均時速17kmで快調。赤坂峠にかかる頃には完全に暗くなってしまった。峠の積雪150cm、新雪50cm。6合目あたりから急に寒気が加わって気温マイナス5度。湿雪と粉雪の中間程度の雪質で、スプロケット(駆動歯車)部分への食い込みが多い。また牽引ソリの荷重が大きく、車体重心が後方に移動したため、接地面積が減少して沈下が増加。車体の下腹部で圧雪の状態となり、難航した。

 途中で数回停車したが、頂上をすぎて下り7合目で調べてみると、前部誘導輪シャフトが変形、キャタピラのガイドがはずれていたので、牽引ソリを放置して湯沢に向かうことにした。それ以降は再び快調を取り戻し、平均時速10kmで湯沢に到着することができた。

 翌日の復路は前夜の降雪が少なかったので、昨日の軌跡上を一気に飛ばし、所要時間1時間20分。平均時速17kmで六日町に帰着した。その結果、急造のソリの荷重が重く、8分の1〜10分の1勾配の坂道登坂は無理ということがわかった。スプロケット部分の雪の食い込みのためキャタピラに過張力が生じ、前後輪シャットが変形、ボキーホイールのゴム質を改良する必要性を認めた。

吹雪号の試走ルート
吹雪号の試走ルート


【第3回】1952年1月26・27日

 長岡〜十日町間69kmを走行。ルートは、
<長岡-(12.8km)-榎峠-(5.5km)-小千谷-(8.5km)-雪峠-(10.9km)-岩沢>
 それぞれの積雪は長岡50cm、榎峠60cm、小千谷80cm、雪峠200cm、岩沢150cm。
 新たに自重400kg、乗員12名、総重1トンのソリを作って牽引

 午前9時に長岡を出発したが、積雪量が少なくて、郊外まで普通自動車の運行が可能なため、その氷結した軌跡上を走るのに、かえって難儀した。

 太田川堤防を越えて下条地先にかかるや、積雪のため運行不能となった2台の大型バスがあった。吹雪号はソリ牽引のまま田んぼの積雪上を迂回したが、それを眼のあたりに見た付近の人たちは快哉を叫んだ。

 榎峠の急坂(12分の1)も搭乗者22名を載せたままトップで走行して小千谷に滑り込んだ。所要時間1時間24分、平均時速17kmだったが、この間は無雪時、バスで50分を要するところである。ここで中食後、乗員を17名として旭橋を渡り、小千谷本町へ通じる8分の1勾配の急坂を第3速で急走、折からの屋根の雪おろし作業で起伏重畳、曲がりくねって狭い町中を町民の歓呼に送られながら通過して雪峠にかかった。

 雪峠は積雪2メートル、しかも前々日に降った新雪が約30cm。その下積みの雪もまた軟雪で、沈下断層が二段に分かれるという悪条件であった。やはり前回のようにソリを牽引するのは無理のように思えたので、単車で先行することにし、峠7合目でエンジンを点検。冷却水が多少減っていると思って冷水を注入したところ、冷却器中の水が皆無で、エンジン排気中に蒸気が混人するようになった。

 これは小千谷で中食休憩中に、冷却水排気コックを見物人が触れ、漏水していたのを知らずに午後のコースに入ったためで、ついにエンジンを損じてしまった。辛うじて岩沢駅に到着、十日町への進行を断念せざるを得なかった。

 今回の試走では、改造スプロケットで雪の食い込みは問題なかった。エンドレスベルトおよびボキーホイールのゴム質はなお一段の改善の必要がある。峠で吹雪に遭遇してワイパーの具合が悪い。牽引ソリは、新雪の深い坂道で1トンは無理のようである。故障したエンジンは取り替え、ワイパーは強力なエアワイパーとした。

吹雪号の側面図
吹雪号の側面図


【第4回】1952年1月29日〜2月2日

 妙高山麓田口〜赤倉間5kmを5日間で十数回往復。総走行距離200km。

 この間、全然故障なく、赤倉高原で国家地方警察(当時存在して地方警察)本部立ち会いの下に連続2時間の試験をおこなったり、接収中の赤倉観光ホテルを訪問して支配人や米軍隊長の賞讃を受けたりした。特に隊長は、乗車の安定感を喜んだ。

【第5回】1952年2月3日

 田口〜高田間30kmを快調に飛ばし、2時間20分で到着。途中、日本曹達(ソーダ)二本木工場で工場長以下の立ち会いで走行状態および性能テストをおこなった。なお、この日の行程で道を誤り、谷川に片側キャタピラを2回突っ込んだが、キャタピラ式であるので、車輪の下の雪を排除すると、容易に自力で立ち上がれることがわかった。

 赤倉〜田口間の雪路面は米軍の雪上車「M29ウィーゼル」が走っているので、圧雪が十分で運行は容易であるが、キャタビラの衝撃が強く、多少傷みを生じた。スポット溶接(スポットウェルド)の過熱による強度の減少、底面ゴム突起の高さの影響など研究すべき点もあり、エンドレスゴムベルトなどにもいっそうの強度を望みたいと思った。

吹雪号のワダチ
吹雪号のワダチ

(走行試験の記録ここまで)

 こうした試験を繰り返し、雪上車は誕生したのです。1952年、「吹雪号」第2号が国家警察本部(当時)に採用されました。そして、まもなく量産車「SM-5型」が完成し、20両が製造されました。1953年には、防衛庁(当時)と共同開発し、1960年には制式採用されています。

 雪上車は、1957年、南極に昭和基地が開設されると、南極でも活躍することになります。当時、雪上車は大原鉄工所だけでなく、小松製作所でも製造されていました。

 最初に南極で活躍した雪上車は、小松製作所のKC20「ぎんれい」です。1967年、大原鉄工所の小型雪上車が第9次南極観測隊で採用されました。

KC20「ぎんれい」1号車
KC20「ぎんれい」1号車(名古屋港の南極観測船ふじ)


 そして、1968年12月19日、日本は南極点に到達しますが、それは小松製作所と大原鉄工所の共同開発の賜物でした。

南極点に到着したKD604
南極点に到着したKD604(国立極地研究所 南極・北極科学館)

南極点に到着したKD604の内部
南極点に到着したKD604の内部(国立極地研究所 南極・北極科学館)


 その後、小松製作所は雪上車から撤退。大原鉄工所は、現在まで日本唯一のメーカーとして、南極に雪上車を送り続けているのです。

南極観測用雪上車SM50S
南極観測用雪上車 SM50S(名古屋港、背後は「南極観測船ふじ」)


制作:2026年4月7日

<おまけ>

 大原鉄工所の最新の雪上車は、2021年に開発した「OHARA-LAV(オーハラ・ラブ)」です。全長約7.5メートルで、ボディは鉄板、アルミ、木材の3層構造を採用。層の間の空気がいわば魔法瓶のような効果を生み、高い保温性があります。内装は天然木で、居住性にも優れているそうです。車体は緑色で、2021年にグッドデザイン金賞を受賞しています。

OHARA-LAV
OHARA-LAV(グッドデザイン賞公式サイトより)
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