【文豪たちの戦争】その2
夏目漱石が見た「日露戦争」

 夏目漱石は日露戦争当時の状況を『三四郎』でこう書いています。


 窓から見ると、西洋人が四、五人列車の前を行ったり来たりしている。そのうちの一組は夫婦とみえて、暑いのに手を組み合わせている。女は上下ともまっ白な着物で、たいへん美しい。三四郎は生まれてから今日に至るまで西洋人というものを五、六人しか見たことがない。

(中略)

 三四郎は一生懸命にみとれていた。これではいばるのももっともだと思った。自分が西洋へ行って、こんな人のなかにはいったらさだめし肩身の狭いことだろうとまで考えた。窓の前を通る時二人の話を熱心に聞いてみたがちっともわからない。熊本の教師とはまるで発音が違うようだった。
 ところへ例の男が首を後から出して、
 「まだ出そうもないのですかね」と言いながら、今行き過ぎた西洋の夫婦をちょいと見て、
 「ああ美しい」と小声に言って、すぐに生欠伸(あくび)をした。三四郎は自分がいかにもいなか者らしいのに気がついて、さっそく首を引き込めて、着座した。男もつづいて席に返った。そうして、
 「どうも西洋人は美しいですね」と言った。
 三四郎はべつだんの答も出ないのでただはあと受けて笑っていた。すると髭の男は、
 「お互いは哀れだなあ」と言い出した。「こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になってもだめですね。もっとも建物を見ても、庭園を見ても、いずれも顔相応のところだが、−−あなたは東京がはじめてなら、まだ富士山を見たことがないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだからしかたがない。我々がこしらえたものじゃない」と言ってまたにやにや笑っている。三四郎は日露戦争以後こんな人間に出会うとは思いもよらなかった。どうも日本人じゃないような気がする。
 「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、
 「滅びるね」と言った。


 日露戦争が終わって、激戦地・旅順港を視察した漱石は、『満韓ところどころ』でこんな事も書いていました。

 河野さんの話によると、日露戦争の当時、この附近に沈んだ船は何艘あるか分らない。日本人が好んで自分で沈めに来た船だけでもよほどの数になる。戦争後何年かの今日いまだに引揚げ切れないところを見てもおおよその見当はつく。器械水雷なぞになるとこの近海に三千も装置したのだそうだ。
 じゃ今でも危険ですねと聞くと、危険ですともと答えられたのでなるほどそんなものかと思った。沈んだ船を引揚げる方法も聞いて見たが、これは委(くわ)しく覚えている、百キロぐらいな爆発薬で船体を部分部分に切り壊して、それを六吋(インチ)の針金で結えて、そうして六百噸(トン)のブイアンシーのある船を、水で重くした上、干潮に乗じて作事をしておいて、それから満潮の勢いと喞筒の力で引き揚げるのだそうだ。しかし我々が眺めていた時は、いつまで立っても、何も揚って来そうになかった。

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