ニッポン領「南沙諸島」探検
なぜ絶海の孤島に日本人は進出したのか
南沙諸島の密林を行く
東日本大震災で大きな被害を受けた岩手県宮古市には、街のシンボルのような高い煙突があります。現在は使われていませんが、もともと田老鉱山の精錬所の煙突で、高さ160m。標高90mの小高い丘に立っているため、遠くからでもよく見えます。
ラサの大煙突
この煙突は「ラサの大煙突」とよばれていますが、なぜラサなのか。化学メーカー「ラサ工業」の所有だからですが、実はこのラサとはラサ島(沖大東島)のことです。
ラサ工業は、日本初の農学者・恒藤規隆が興した会社で、ラサ島でリンを採掘して肥料などにしていました。
このラサ工業が、リン採掘量の減少により、次に目指したのが現在の南沙諸島でした。
今回は、日本人が南沙諸島にたどり着くまでの長い道のりを紹介しておきます。
南沙諸島・長島にあった日本人住居跡(1925年)
天保12年(1841年)、土佐を出漁したある漁船が、強風にあおられ遭難してしまいました。船は10日間ほど漂流して、伊豆諸島の無人島「鳥島」に漂着します。
鳥島には、信じられないほどの数のアホウドリがいました。アホウドリは、人を恐れない巨鳥で、棒が1本あれば簡単に撲殺して捕獲できます。こうして一行は、雨水とアホウドリの肉で143日生き延び、アメリカの捕鯨船に救助されました。この船に乗っていたのが、後のジョン万次郎(中浜万次郎)で、1851年に帰国しました。
アホウドリの群れ(撮影地不明)
江戸幕府は、その10年後、さらに南の小笠原諸島の開拓に乗り出しますが、時勢の影響で断念。そして、1876年(明治9年)、日本政府は小笠原を再領有し、開発に乗り出します。
このとき、現地に派遣された一行の中に八丈島生まれの大工・玉置半右衛門がいました。
「藤九郎」「信天翁」と呼ばれたアホウドリは、かつて小笠原で繁殖しており、やはり食料として捕獲されていました。
その後、小笠原では絶滅しますが、利にさとい玉置は、鳥島のアホウドリの存在を思い出します。
鳥島のアホウドリ(国立科学博物館・筑波研究施設)
玉置は東京府から鳥島の開発許可を得て、島に上陸。大量のアホウドリを撲殺し、羽毛を採取して巨額の富を築くことに成功します。撲殺したアホウドリは15年で600万羽に及びました。
《撲殺したアホウドリの数は、1887年(明治20)11月の鳥島上陸からわずか半年間に10万羽、1902年(明治35)8月の鳥島大噴火で出稼ぎ労働者125人が全滅するまでの15年間では、およそ600万羽に達した。年に平均すると、なんと40万羽を捕獲したことになる。同島のアホウドリの羽毛は、3羽からおよそ1斤(600グラム)が取れるとされることから、玉置は15年間に約200万斤(1200トン)の羽毛を入手したのである》(『アホウドリを追った日本人』)
これを当時の羽毛価格で計算すると15年間で100万円、1年あたりで均せば6万7000円を売り上げた計算になります。人件費はたかが知れてるので、玉置の年収を4万円と仮定すると、これは現在の10億円にも相当するのです。
鳥島(1913年測量)
(海上保安庁に残された『実測経緯度原簿』より)
アホウドリの減少を受け、玉置が次に狙ったのは、沖縄県の北大東島と南大東島です。
しかし、この両島にアホウドリは少なく、玉置はこの島にさとうきび畑を作って、さらに大儲けします。
次いでアホウドリの生息地として目指したのが、南大東島から160km離れたラサ島(沖大東島)でした。ラサとは、ラテン語で「平坦な」という意味で、1807年、フランスの軍艦によって命名されています。
ラサ島(1917年測量『実測経緯度原簿』)
実は、アホウドリの生息地では、肥料に必要なリンが取れます。海鳥の糞が数千年ほど堆積して化石になったものをグアノといい、羽毛以外にもグアノやリン鉱石が狙われました。
すでに老齢だった玉置は、ラサ島の調査に乗り出しますが、熾烈な争奪戦の末、島の開発権を売り渡してしまいます。その権利を確保したのが、農商務省の肥料鉱物調査所でリンの研究をしていた恒藤規隆です。
恒藤は、1911年(明治44年)にラサ島燐礦合資会社(現・ラサ工業)を設立、社長に就任しました。島でのリン採掘は活況を呈し、1918年(大正7年)には18万トンを超え、資源が枯渇する前に次なる産地を探すことになります。ターゲットになったのが、現在の南沙諸島です。
南沙諸島(スプラトリー諸島)は、南シナ海南部に位置しています。岩礁が多く、海難事故を警戒し、誰からも相手にされない地域でした。しかし、恒藤の意を汲んで、1918年に海軍中佐の小倉卯之助が探検、島に標柱を立てました。
ラサ島燐礦会社は、1921年、これらの島々を「新南群島」と名付け、1929年(昭和4年)までリンやグアノの採掘を行いました。中心となった長島では最盛期に140人ほどの日本人が働き、年間1万トン近くのリンを採掘しました。
新南群島の採掘跡(1933年)
新南群島では、中国人の海賊や台湾の漁民が漁の中継点にしたり、貝を採取したりしていました。
しかし、日本政府が領有宣言していなかったため、1933年(昭和8年)、インドシナを支配していたフランスが、新南群島のうち9つの島の領有宣言をしてしまいます。
これに日本と中華民国が抗議、このとき、東京日日新聞社(現・毎日新聞社)は新南群島へ探検隊を派遣し、日本の領土だと大々的に報じました。
東京日日新聞社の探検ルート
8月18日に台湾の高雄を出た一行は、8月25日に初めて島影を見つけます。北二子島(現在はフィリピンが実効支配しているノースイースト島)です。そばには、南二子島(ベトナムが実効支配しているサウスウエスト島)もあります。
以下、8月25日と27日の航海記録を掲載しておきます。なお、二子島は双子島の表記となっています。
《8月25日
海鳥多く、島の近きを知る。帆柱に見張所を設けて島の発見につとめる。
マグロのさしみ、イカのさしみ、朝食ははずんだ。イカは内地よりちょっとかたい。午前9時20分、見張所の上から異様な声で「おもかじー」と叫んだ、指さす方向に問題の北双子島のヤシが水平線上にかすかに見えた。
北双子島
ここから2時間、ノースデンジャー沖500メートルに投錨、はじめて見る異様な島の影。
島の東側に海賊の住家が見え、人の気配があった。上陸、海賊2名は挙手の礼をもって迎えた。
彼らは直にヤシの実を取って一行の歓迎をする。
海賊の住居
ここでは問題の中心、フランス先占の標柱が建てられていた。標柱には、
1933年4月10日、2つの島
フランス通報艦アレルト号
と書いてある。2つの島とは1マイルばかりはなれた、南双子島を指すのだろう。大木をけずって、われわれ上陸の記念の文字を書いた。
フランスの先占標識
寄生カニの群生も見た。飛行場に使用しうる平地長さ1000メートル、幅200メートルもある理想的の場所がある。
船は南双子島へ移動する。無数の鳥が船すれすれに飛んで、竿でなぐり落とすと、2羽3羽水面に落ちる。桟橋の残骸は鳥で埋まってぎゃあぎゃあと鳴き声がやかましい。
南二子島の鳥の群れ(1939年)
昼食はトカキン(いそまぐろ)のさしみ、夜は海賊からもらった正覚坊(ウミガメ)の肉に舌つづみを打つ。
ラサ会社事務所は放火の跡あり、いかにラサが働いていたかはリン鉱発掘の状況を見て一目瞭然、船に積み込むばかりの鉱石が山になっている》
ウミガメを料理する
《8月27日
夜明けの4時に中小島を出て午前8時、主島・長島に到着。ラサがダイナマイトでリーフを割った投錨地に停船。
この島、周囲27町(約3km)あり、大森林、ヤシの木150本、船の近所に無数の正覚坊とべっこう亀が浮く。砂浜に足跡多し。
今宵はここに上陸して一泊、亀の生捕りを計画す。日中は島の犠牲者の墓に詣で、旧七夕の日、荒れた墓場を掃除して気持ち爽快なり。心ばかりの焼酎をくんで供える。感慨無量。
日本人墓地
建物は全部海賊の手によって破壊され、はなはだしきはラサ神社まで踏み壊されている。
島中、パパイヤが密生し大密林を構成す。そのため実がならず、ようやく2、3個熟したものを取ったのみ。
積み込むばかりになった海岸の1万5000トンのラサリン鉱石の山の上に、すでに丈余の木が密生していて、年月の経ったことを物語る》(『新南群島探検画報』より改変抄録)
破壊されたラサ神社
その後の1939年(昭和14年)、平沼騏一郎内閣が領有を宣言し、台湾の高雄市に属することになりました。こうして、日本は1945年の敗戦まで実効支配します。
日本が実効支配(1939年、『写真週報』85号)
サンフランシスコ平和条約の第2条f項には、「日本国は、新南群島(スプラトリー)及び西沙群島(パラセル)に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」とあり、7年間に及ぶ日本の領有は終わりました。
日本の敗戦で、一帯はフランスや中華民国が接収していきますが、フランスのベトナム撤退とともに空白地となり、領有権争いが加速することになりました。
日本軍の基地があった「長島」は現在、台湾が実効支配しており、軍艦名にちなんで「太平島」と呼ばれるようになりました。周囲は中国の人工島に囲まれていますが、島には農場、井戸、病院、郵便局などがあり、自給自足が可能だと台湾は公表しています。
北二子島(1936年測量『実測経緯度原簿』)
制作:2019年3月18日
<おまけ>
ラサ工業は、ラサ島、新南群島以外にも、アンガウル島、クリスマス島などで、アホウドリとリン鉱石の採掘を行いました。もちろん、他の企業もこうした利権を狙っており、各地で苛烈な争奪戦が起きました。
たとえば、南鳥島では水谷新六が、尖閣諸島では古賀辰四郎が、東沙諸島(プラタス諸島)では西沢吉次が利権を押さえました。
そんななか、野沢源次郎が目をつけたのがミッドウェー島です。しかし、アメリカも太平洋各地でリン資源を狙っており、ここで日米が対立することになります。
このときは日本が「ミッドウェーの主権を主張しない」と明言したことで対立は収まります。しかし、結局、この地で日米はミッドウェー海戦を戦い、日本は劣勢に追い込まれていくのでした。