超音速を目指せ
驚異の画像ワールドへようこそ!
超音速旅客機(SST)の誕生
マッハ6の「X51Aウェーブライダー」
(米空軍サイトより)
成田空港は1978年5月20日に開港しました。
オープンに至るまでの三里塚闘争は有名ですが、では、一体どうして成田が空港の場所に選ばれたのか?
当時、羽田空港は離着陸が激増していました。
1954年(昭和29年)には国内線6400回、国際線5500回(合計1万1900回)だったものが、1962年には国内線3万8200回、国際線1万2400回(合計5万600回)と4倍以上になっていました。伸び率からすれば、1970年代にはパンクする計算でした。
当時はエンジン性能が悪く、羽田は騒音やスモッグにも悩まされており、大型空港の設置が急務とされました。
そこで、滑走路が大きくとれる広大な場所を探したのですが、ここである問題がはだかりました。
東京に近いという条件ならいくらでもあるのですが、東京西方には米軍基地が多数あり、そこは米軍専用の空路となっていたのです。厳密には厚木、立川、横田、ジョンソン(入間)を縦に結ぶ幅9kmの帯状の空間(通称「ブルー14」)で、西行きのジェット機など一部の例外を除き、この空域には民間機が入ることができません。
今も立ち入り禁止の厚木基地(敷地には鳥居があるんだよ)
さらに自衛隊の宇都宮基地から大島を結ぶエリアは危険区域にあたり、東京から西は全滅。結果、運輸省は茨城県の霞ヶ浦、千葉県の浦安と木更津と富里を候補地に選びました。
しかし、霞ヶ浦近辺には自衛隊の百里基地があり、また地盤が悪く、大規模な空港建設には向きませんでした。浦安と木更津は羽田に近く、航空管制上の問題がありました。
こうして、富里に建造することが決まりました。
ですが、富里では反対運動が続き、結局、国有地の宮内庁下総御料牧場があった近くの成田が選ばれたのです。
東京近郊の基地(ジョンソンは入間、ドレイクは朝霞)
成田空港建造には、もうひとつ大きな目的がありました。
当時、超音速旅客機(SST)の開発が進んでおり、その離着陸には4000mの滑走路が必要でした。しかし、羽田には1650m、3000m、3150mの滑走路しかありませんでした。そこで、4000m2本、3600m1本、2500m2本の滑走路が計画されたのです。
SSTは、ソニックブームという衝撃波の問題があり、人口の少ない成田は、この点からも好都合でした。
そんなわけで、SSTの開発の歴史をまとめます。
超音速飛行機の技術は、ドイツからもたらされました。第2次世界大戦末期、アメリカ軍はドイツに侵攻し、「可変後退角翼機構」という技術資料の入手に成功します。可変後退角は、飛行中に主翼の角度を変えられる機構で、空気抵抗が低く、それでいて適切な揚力を得ることができます。
世界初の可変翼機は、アメリカのベル・エアクラフト社が開発した実験機「X-5」です。初飛行は1951年6月20日のことでした。
さらにアメリカは、高速飛行に向いた翼の形状として、W型とM型という技術もドイツから入手しています。こうした技術を元に、1962年、ロッキードはアメリカ空軍向けに超音速迎撃戦闘機「YF-12」、および超音速偵察機「SR-71」の開発に成功します。いずれもマッハ3で飛行可能でした(マッハ1は時速1225km)。
M型の翼
ここから、アメリカのSSTはロッキードとボーイングとノースアメリカンによる開発競争の時代に突入します。
まず、1963年、ロッキードは「CL823」(マッハ3、客席187)、ボーイングは「B733」(マッハ2.7、客席150)、ノースアメリカンは「NAC60」(マッハ2.65、客席187)を発表します。
1964年5月、FAA(アメリカ連邦航空局)は各機を審査し、ここでノースアメリカン案は落選。FAAはボーイングとロッキードの両社にさらに開発を進めるよう指示します。
1965年、ロッキードが「L−2000−7」を、ボーイングが「B733−390」を発表します。このころ、ボーイングは、エンジン排気の高温と騒音の問題が解決できず、ロッキードのほうが優勢でした。
しかし、ボーイングは極秘の特別チームを編成し、まったく新しい新型機の開発に乗り出していました。そして3000時間以上も試験飛行を繰り返し、1966年7月、突如として「B2707」型を公表するのです。
1966年12月31日、FAAは、SSTの最終案として、機体はボーイング、エンジンはGEのものを採用すると発表しました。ロッキードは、この決定を受けて、SSTから撤退します。
1967年時点で、世界には以下の4つの超音速旅客機がありました。
●B2707(ボーイング)
客席数=277〜350、エンジン=GE、航続距離=6850km、巡航最大速度=マッハ2.7。
1975年初飛行予定
B2707(パンナム)
●L2000−7A(ロッキード)
客席数=241〜273、エンジン=P&W、航続距離=7080km、巡航最大速度=マッハ2.7
開発中止
●コンコルド(英ブリティッシュ・エアクラフト、仏シュド・アビアシオン共同開発)
客席数=136、エンジン=プリストル・シドレー・オリンパス、航続距離=6680km、巡航最大速度=マッハ2.2
1971年初飛行予定
コンコルド
●Tu−144(ソ連ツポレフ)
客席数108〜121、エンジン=クズネツォフ、航続距離=6500km、巡航最大速度=マッハ2.2〜2.35
1971年初飛行予定
Tu−144(ツポレフのサイトより)
1958年10月に就航したボーイング「B707−320」も、1969年に就航したボーイング「B747」もマッハ0.9だったので、格段に早いことがわかりますね。
超音速飛行の技術開発の難しさは、高速になればなるほどジェットエンジンの燃焼に必要な酸素の取り込みが難しくなることにあります。この問題さえ解決すれば、ソニックブームを無視すれば、基本的に実現は可能なのです。
こうして、Tu−144は1968年に、コンコルドは1969年に初飛行に成功しますが、ボーイング2707は1971年に計画中止が決定します。ソニックブームやひどい騒音、また高高度飛行によるオゾン層の破壊の可能性などが原因でした。日本航空も5機注文してたんですが、もちろん納入されませんでした。
コンコルドも、石油ショックによる燃料費増大、維持管理コストの高さ、収益性の悪さなどから2003年にすべて引退しました。
SSTの夢が破れた現在でも、極超音速機の開発は進んでいます。
2012年8月には、米空軍がボーイングと開発中の「X51Aウェーブライダー」の飛行実験を行いました。制御翼の不具合で実験は失敗に終わりましたが、目標はなんとマッハ6(時速約7300キロ)! ニューヨークとロンドンを1時間以内、ニューヨークとロサンゼルスを36分で飛べるスピードです。
X51Aウェーブライダー(米空軍サイトより)
このウェーブライダーはもちろん軍用目的なので、実用化すれば、アメリカ軍は地球上のどこでもあっという間に爆撃できるようになりますな。
また、エアバスの親会社であるヨーロッパのEADS社はマッハ5の「ZEHST」を、イギリスのリアクション・エンジンズ社はマッハ5.5の「Skylon」を開発中です。
「Skylon」(リアクション・エンジンズ社のサイトより)
極超音速機の開発は、日本も負けていません。JAXA(宇宙航空研究開発機構)は、マッハ5で、太平洋を2時間で横断する新型機の開発を行っています。旅客機の形は、風圧に耐えられるよう先端の面積がきわめて小さく、一方でエンジンなどを搭載するスペースが巨大なため、全長が30メートルほどあるにもかかわらず、定員は20人程度となる見込みです。
日本の極超音速旅客機(JAXAのサイトより)
さて、こうした極超音速旅客機が実用化されれば、2〜3時間で東京からロサンゼルスまで行くことができます。「ロス日帰りツアー」も可能ですが、週末の3日間でアメリカ旅行を満喫できるという、信じられない未来が待っているのです。
けっこう楽しみ、なんだな。
制作:2012年12月10日
<おまけ>
現在、1都8県にまたがる広大な空域が横田基地で航空管制されています。もちろん米空軍のコントロール下なので、民間機は事前協議をしないと通過できません。結果的にこの空域を避けることになり、羽田を中心とする航空路が過密化する原因となっています。
横田空域の管制権は徐々に返還されていますが、敗戦国の悲しさはこういうところでわかるんですね。
都庁にあった東京空域マップ。空域には高さがあることもわかりますね
日本の小型超音速実験機(NEXST-1、JAXAのサイトより)