超高速鉄道の夢
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プロペラ鉄道の世界
あるいは「流線型」の誕生
ドイツのプロペラ鉄道「シーネンツェッペリン」
蒸気機関車を使って鉄道を実用化したのは、ご存じ、スチーブンソン。その後、イギリスには「鉄道王」ジョージ・ハドソンが登場し、鉄道バブルのなか、国中に鉄路が広がっていきます。結果、多数の私鉄が乱立する事態となりました。
そして19世紀末、ロンドンとスコットランドを結ぶ私鉄同士のスピード競争が始まります。これを「北への競走」(Race to the North)といいました。
スチーブンソンと初号機「ロケット号」
グレートブリテン島は南北に細長く、南にロンドン、北にスコットランドがあります。島の中央にペナイン山脈があるため、鉄路は島の東海岸か西海岸を通る2ルートとなります。ロンドンとエディンバラを結ぶ約640kmのスピード競争で、19世紀なのに時速100km超を実現していました。
第1次世界大戦を経て、1923年、イギリスの鉄道は4大グループに集約されます。しかし、集約後もスピード競争は続きました。
4大グループの1つ、ロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道(LNER)では、技術陣が数多くの高速蒸気機関車を生み出します。
ナイジェル・グレズリー設計の蒸気機関車「No.10000」
(1929年、LNERクラスW1、車輪配置4-6-4型)
一方、グレート・ウェスタン鉄道は、1932年、「チェルトナム・フライヤー」で時速130kmを実現。これを超えるスピードはありえないと言われましたが、1938年、LNERがクラスA4「マラード」で時速203kmを達成。現在に至るまで、この数字が蒸気機関車の最高速度です。
いったい鉄道はどうしたらもっと速くなるのか? 多くの鉄道技術者が頭を悩ませます。
スピードが落ちる場所は勾配やカーブです。ということは、最初から地上を走らなければいいのではないか?
イギリスのジョージ・ベニーは、1929年、高架レールにぶら下がる(懸垂式)モノレール「ベニー・レールプレーン」を考案します。
ベニー・レールプレイン
モノレール自体は、1821年にイギリスのパーマーが特許を申請して以降、博覧会などで運行されていました。1901年には、ドイツのバルメンとエルバーフェルト間で空中鉄道として営業運転も始まっています(現在のヴッパータールで現役)。
現存する世界最古のモノレール「ヴッパータール空中鉄道」
とはいえ、ドイツの空中鉄道は電気モーターなので、時速40km程度とそれほど速くありません。つまり、速度を上げるには動力の変更も必要でした。こうして、ベニー・レールプレーンは飛行機用のエンジンを使ったプロペラで動く設計となりました。簡単に言うと、プロペラで動くモノレールです。
ベニー・レールプレインのスケッチ
ベニー・レールプレーンのいいところは、速いだけでなく、その安さにもありました。
当時、地下鉄の建設は1マイルあたり400万円、郊外鉄道50万円、市内電車なら70〜100万円かかるところ、ベニー・レールプレーンなら25〜30万円で済むと試算でされました。協力したLNERも乗り気でしたが、結局うまくいかず、計画は中止となりました。
ベニー・レールプレインのポスター
(『Railway Posters 1923-1947』/グーグルブックスより)
列車が走るとき、2つの大きな抵抗を受けます。1つは線路や高架との摩擦抵抗で、もう1つは空気抵抗です。飛行機でない以上、摩擦抵抗は考えても意味がありません。
ですが、空気抵抗を減らすことができれば、それは大きなスピードアップの要因となります。
空気抵抗は、速度の二乗に比例します。スピードが上がれば上がるほど空気抵抗は増すのです。
その空気抵抗に勝つための馬力は、なんと速度の3乗に比例します。いま仮に時速100kmで飛ぶ飛行機に10馬力必要だったとすると、時速500kmで飛ぶには、5×5×5=125倍、つまり1250馬力必要になるのです。
当時、世界最高速を誇ったシューパーマリン水上機は、時速655km出ましたが、2300馬力の発動機を積んでいました。
1931年の最高速シューパーマリン水上機
何とかして空気抵抗を減らしたい。そのカギが「流線型」デザインです。
当時の実験で、流線型を採用すると明らかに空気抵抗が減ることがわかりました。
・従来の機関車+客車6両 時速130km
→ 全体の空気抵抗5.0トン 2400馬力必要
・流線型機関車+客車6両 時速130km
→ 全体の空気抵抗3.2トン 1500馬力必要
・従来の機関車+客車6両 時速160km
→ 全体の空気抵抗6.7トン 4000馬力必要
・流線型機関車+客車6両 時速160km
→ 全体の空気抵抗3.8トン 2300馬力必要
時速160kmだと4割以上の節約となる——これが流線型デザインを採用する最大の理由です。
まるで新幹線のような「シーネンツェッペリン」前部
ベニー・レールプレーンとほぼ同じ時期、ドイツでもプロペラ式列車の開発が始まっています。
飛行機技術者であるフランツ・クルッケンベルクが1929年に開発した「シーネンツェッペリン」です。全長25.85m、全高2.8m、ツェッペリン飛行船に似ていることから「陸上ツェッペリン」と呼ばれました。設計したのが飛行機技術者なので、空気抵抗対策として流線型が採用されています。
500馬力のシーネンツェッペリンは、1931年、時速230kmを達成。この記録は1954年まで世界一でした。
ところが、実験を繰り返すうち、プロペラがまったく必要ないことがわかりました。そこで、1932年、クルッケンベルクは大改造して、プロペラを外してしまいます。つまり、単なる流線型列車となってしまいました。
改造後、プロペラの消えた「シーネンツェッペリン」
流線型を開発したアメリカは、同時期「オートトラム」によって空気抵抗の実験を繰り返しました。時速110kmですが、アルミ製で軽く、大量生産に向いていました。
こうした例を見て、ドイツ国鉄も独自の流線型気動車「フリーゲンダー・ハンブルガー」を開発。これは最高時速160kmを記録しますが、営業運転としては時速120kmほどでした。
オートトラム前部と後部
フリーゲンダー・ハンブルガー
「空飛ぶハンブルク人」と訳されたフリーゲンダー・ハンブルガーは、第2次世界大戦以前、世界で最も速い列車として知られました。その陰で、プロペラ特急「シーネンツェッペリン」は解体され、戦争のために金属供出となったのです。失敗の理由は明確でした。プロペラが危険なことと、列車の連結ができなかったことです。
「シーネンツェッペリン」開通後の世界(『科学画報』1933年6月号)
制作:2017年2月6日
<おまけ>
流線型は車や船にも応用されました。
流線型の船と流線型自動車
<おまけ2>
プロペラ鉄道は何回も科学雑誌の表紙になりました。参考までに挙げておきます
『MECCANO MAGAZINE』1930年8月号(グーグルブックスより)
『POPULAR SCIENCE』1935年4月号(グーグルブックスより)
『Modern Wonder』1938年1月1日号(トロント公共図書館のサイトより)