宝塚歌劇団と「郊外」の成立

宝塚
鉄道開通前?の宝塚温泉

《武庫川の岸にして、近年浴場を設け冷泉を熱し、遠近の遊客を延く……》

 明治40年(1907)に完結した吉田東伍『大日本地名辞書』で宝塚をひくと、こんな感じで結構あっさりした表記しかありません。それもそのはず、宝塚が発展したのは、明治43年(1910)に箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄宝塚線)が開通してからのことだからです。


 この路線は沿線に目立った名所もなく、 経営者小林一三は、乗客を誘致するため、さまざまな策を考え出しました。まず宝塚の武庫川東岸に新温泉を整備、日本初の屋内プールなどもオープンさせました。

 大正3年(1914)には宝塚少女歌劇団を結成、これが大好評を呼びました。

 ちなみに第1回公演は『ドンブラコ』(桃太郎)『浮れ達磨』『胡蝶』の3本立てで、出演者は百人一首から芸名を取った高峰妙子、雲井浪子ら16人でした。


 宝塚歌劇団は4年後には東京進出し、松竹歌劇団とともに、レビュー大ブーム時代を築きました。

宝塚歌劇団「セニヨリイタア」
宝塚歌劇団「セニヨリイタア」
(昭和5年?・新橋演舞場)


 でだ、小林一三の非凡なところはここからです。鉄道の終点に遊園地などのレジャーランドを作ったうえに、出発地・大阪梅田でデパートを経営したのです。沿線に住んだ住人は、平日はターミナル駅を目指し、週末は郊外のレジャー施設に向かう。

 こうして初めて、鉄道を中心とした庶民の生活が始まるわけです。

大阪のデパート
大阪市内の百貨店(昭和6年)


 この営業戦略は、以後、多くの私鉄で踏襲されました。関西でいえば、阪神の甲子園や近鉄の生駒山上遊園地。東京でいえば、京成の谷津遊園や東急の多摩川園などが有名なところです。最近でいえば西武の西武園、東武の東武動物公園など、全部パターンは一緒ですね。

生駒山遊園地
上空から見た生駒山遊園地(昭和6年)
左端は現存する最古の飛行塔


 人々は次第に私鉄沿線に住み始め、こうして「郊外の生活」が成立していきました。現在の多くの日本人のライフスタイルは、宝塚がその先鞭だったというわけです。


制作:2002年1月6日


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