このサイトの立場
〜「土人」は差別用語だから使うな、とか言ってる人達へ〜
1999年8月4日付けの北海道新聞にこんな記事がありました。
《道が構想・伝統工芸の研修や博物館・「アイヌ文化空間」を整備》
要は、昔アイヌが生活していたそのままの環境を整備してアイヌ文化を保存しようと言う計画なんですけどね。はてさて、こうした計画が出るのはとっても素晴らしいことなんですが、一体どこまで意味があるんでしょうか?
どうせ「アイヌは自然と共存し」とか「純朴なユーカラの調べが」とか、ありきたりで表面的な物ばかりだと思うんだよね。「アイヌとはアイヌ語で『人間』の意味だ」なんて言いますが、人間の文化には、当然、陰の部分があるわけで。それを無視して、ただアイヌ文化を賛美するのは間違いだと思うんです。
つまり、アイヌ文化を研究するなら、“ありのままの”アイヌ文化を見直すべきだ、と言いたいんです。
今さら書くまでもありませんが、アイヌの歴史は、和人による侵略の歴史です。アイヌの大地だった北海道を明治政府は当然のように没収し、日本語教育を進めました。その侵略の負い目のせいかどうか、「アイヌ=善・和人=悪」といった分かりやすい文脈で見る人もいます。この場合、アイヌの悪い面はまったく見えてこない。
一方、行政がアイヌを見る場合も、どうしても前述のように表面的な部分しか見えてこない。和人による侵略の歴史なんて教えないから、よりいっそう、アイヌ人が美化される可能性もある。
結局、現状では「アイヌの負の部分」は誰も教えてくれないわけだ。
はっきり言います。本来のアイヌ人は「土人」でした。だって、たとえばアイヌの裁判は熱湯に手を突っ込んで火傷した方が有罪なんだよ。野蛮ですよね。それにアイヌは数も数えられなかった。だから「アイヌ勘定」といって、物々交換で和人に数をごまかされたりしたわけです。
こうした「土人」への教育は絶対必要だったと思う。これを単なる「侵略」という言葉で片づけるのは間違いだし、アイヌの「土人文化」を無視した上でのアイヌ賛歌も間違い。
アイヌ文化が滅びる寸前の今こそ、こうした「土人文化」をはっきり認識する必要があると思うんです。
1878年に北海道を旅したイサベラ・バードは、『日本奥地紀行』でこう書いています。
「アイヌ人が少しも能力を発揮したことがなく、単に子どもがそのまま大人になったものにすぎないことを考えると、彼らは頭脳の中に知恵ではなくて水を溜めているのではないかと思わせるほどである」
時代を考えたとしても、外国人にここまで言われたアイヌ。その「土人性」を認識してこそ、初めてアイヌ文化を語れるはずだし、その将来を考えられると思う。
だからこのサイトでは、誰も教えてくれない「アイヌの土人性」に重点を置きたいと考えています。差別ではなく、民族学的な視点で。「アイヌの純粋性」ばかり謳う人は、それこそ「真実のアイヌ文化」を曇った視点でしか見ていないはずです。そういう人は、自分が率先して電気もガスもコンビニもない生活を試してみるといいと思いますよ(酋長になれば3人まで妻が娶れるしね)。
「生存していても歴史がなく、消え去っても少しも記念物を残さない民族」(「日本奥地紀行」)の歴史と記念物を作るのは、きっと今しかないんです。
そしてどうせ作るなら、ちゃんと作ってみたいでしょ?
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