逓信建築
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逓信建築の世界
日本の土台を作った逓信省と郵政省の建築文化
宇治山田郵便局(1909年竣工、白石円治設計、明治村に現存)
郵便マーク「〒」は、カタカナの「テ」を図案化したものです。どうして「テ」かというと、かつて郵便は逓信省の管轄だったからです。
逓信省ができたのは、1885年(明治18年)12月のことで、発足にあたり、農商務省から駅逓局と管船局を、工部省から電信局と燈台局を承継しました。その後、1891年に電気を、1892年に鉄道が移管されました。「逓信」という言葉は「駅逓」と「電信」から1文字ずつ採ってつくられた新語です。
その後、航空機が誕生すると、航空行政も逓信省が握ることになりました(一方で鉄道は鉄道省に移管)。つまり、最盛期の逓信省は、郵便だけでなく、電信、電話、無線、電気、海運、鉄道、航空、為替、保険までをカバーする、日本トップクラスの巨大な省庁だったのです。
逓信省本庁舎(1909年竣工、現存せず)
「日本SFの始祖の一人」と呼ばれる作家の海野十三は、逓信省の電気試験所に勤務しながら、探偵小説を発表していきます。その海野十三が、日本の敗戦時の状況について、こんなことを書いています。広島に原爆が落ちたとき、当然ですが電話も電信も壊滅したわけですが、そうしたなか、かなり早い段階で死者数を把握したのは逓信省でした。
《広島の死傷者は十二万人という。これは逓信省へ入った情報である。》(「敗戦日記」、1945年8月9日)
通信を握る逓信省だったからこそ、被害の報告が入ってきたわけです。
また、こんなことも書いています。
《●自働販売器操作の効用
10銭白銅貨や5銭白銅貨をもって自働販売器の類を操作させることは、夙(つと)に逓信省が公衆電話にて行えるところで、近来は鉄道省も之(これ)を切符販売用に用い、専売局は煙草の自働販売器を認め、キャラメル、チョコレートの自働販売器あり、一時は地下鉄の改札までを10銭白銅貨に働く重力によって行ったものである。》(「白銅貨の効用」)
つまり、日本が誇る自販機は郵便事業から本格的に始まったということです。
切手とハガキの自販機(逓信総合博物館)
このように、逓信省は日本の社会・文化の、ありとあらゆる面をゼロから構築してきました。今回は、その逓信省の功績を「建築」の面から見ていきます。郵便や電信を日本中に張りめぐらせるとき、必要なのは各地の郵便局です。それは地方のランドマークになる可能性が高く、結果として逓信省からは、優秀な建築家が多数輩出しました。
また、特に戦後は全国に郵便局を作るうえで、各地共通の建築ルールが作られ、大量に建てる仕組みが整えられました。もちろん導入する機械なども統一化、共通化が進みます。これが日本を「標準化」していく契機となりました。
現代の日本を作った逓信省の建築、それを「逓信建築」(戦後は「郵政建築」)といいます。今回は、その一端を紹介します。
検見川送信所(1926年竣工)
1930年10月27日、当時の浜口雄幸首相は、ロンドン軍縮条約締結にあたって記念演説をおこない、その演説はイギリスとアメリカに向けて送信されました。これが日本初の国際放送ですが、送信したのは、短波による標準電波を国内で初めて発信できるようになった検見川送信所(千葉県)です。
検見川送信所は、現在も廃墟として残されていますが、合理性を重視した「初期モダニズム建築」の代表作として知られています。一方で「いびつさ」「新規性」「ガラスの多用」など、「表現主義的」な傾向も持ち合わせています。
この建物を設計したのは、逓信省技師の吉田鉄郎です。吉田は、東京駅前の「東京中央郵便局」を設計したことでも知られています。
東京中央郵便局(1931年竣工、一部現存)
東京中央郵便局は東京駅前に建てられましたが、もともとの郵便創業当時、東京郵便役所・駅逓寮は、日本橋四日市に置かれました。現在の日本橋郵便局の場所です。
東京郵便役所と駅逓寮(1871年竣工、現存せず)
1892年、ボロボロになった東京郵便役所が、近代建築として生まれ変わります。これが「東京郵便電信局」で、設計したのは片山東熊です。ギリシャ風円柱のレリーフ、窓にはステンドグラス、3階までの吹き抜け構造で、一般的には「ルネサンス様式」の傑作とされます。
東京郵便電信局(1892年竣工、現存せず)
明治時代、日本の3大 “建築事務所” は、逓信省営繕課、宮内省内匠寮、大蔵省営繕管財局でした。片山東熊は、宮内省で赤坂離宮(現在の迎賓館)などを設計しています。京都国立博物館、東京国立博物館表慶館なども設計しました。
京都国立博物館(1895年竣工)
東京郵便電信局が建てられる前、名古屋や大阪で先に郵便電信局がつくられました。ともに佐立七次郎の設計で、佐立は「日本水準原点標庫」も設計しています。
名古屋郵便電信局(1888年竣工、現存せず/国会図書館『明治大正建築写真聚覧』より)
日本水準原点標庫(1891年竣工)
現役の逓信建築のなかで、もっとも有名なのは、おそらく旧京都郵便電信局(現・中京郵便局)だと思われます。これは、三橋四郎と吉井茂則の共同設計です。
京都郵便電信局(1902年)
三橋は、その後、外務省の嘱託として中国の領事館などを設計。吉井は逓信省本庁舎(1909年)だけでなく、仮議事堂(初代、2代目)、旧大阪駅なども設計しています。
この逓信省本庁舎は、1923年の関東大震災で崩落します。このとき、本庁舎だけでなく、多くの郵便局や電話局が倒壊。そこで、建物が刷新されますが、時代は大正デモクラシーだけに、斬新な建物が次々に生まれました。
明治・大正の重厚な煉瓦造はここで一掃され、柱と壁と大きな開口部というモダンな建築が生まれます。こうした「架構式構造」を採用したのが、山田守です。
東京中央電信局(1926年竣工、現存せず)
別角度から見た東京中央電信局
逓信省は戦後、日本郵政、NTT、NHK、総務省などの基礎となりますが、膨大な資産を継承した「NTTファシリティーズ」の公式サイトには、この建物の評判について以下の新聞記事を引用しています。
《建物は在来の様式を全く超越した近代式のもので、地下室から屋上まで七階の明るい一風変わった行き方で設計されている。外郭に表われた意匠は、山田逓信技師の独創に基づいて、窓や角等をすべて旋律的に考案された外に、新しい味あり、電話局としては我国に類例のないものである》(東京日日新聞、大正13年)
山田守の代表作はいまもいくつか残っていますが、有名どころでは旧千住郵便局電話事務室など。これは、タイルが普及する前、1枚1枚手焼きしたレンガを使った外壁「スクラッチタイル」を採用しています。
旧千住郵便局電話事務室(1929年竣工、現NTT千住ビル)
山田は、のちに永代橋(1926年)、聖橋(1927年)、東京逓信病院(1937年)、日本武道館(1964年)、京都タワービル(1964年)などを設計しています。
なお、前述したとおり、震災後はたくさんの建物を作る必要に迫られ、たとえば日本橋郵便局や京橋郵便局などは、大蔵省営繕管財局が設計しています。
日本橋郵便局(1929年竣工、現存せず)
震災前に逓信省に在籍したもう一人有名な建築家が、渡辺仁です。1920年に独立後は、ホテルニューグランド(1927年)、服部時計店(1932年、現・和光)、日本劇場(1923年)、第一生命館(1938年)などに関わっています。
日本劇場(1933年竣工、現存せず)
※右手は旧朝日新聞社。山田守と分離派建築会を結成した石本喜久治の設計。逓信省技士だった山口文象も協力
このほか、逓信省で活躍した建築家には、京都中央電話局西陣分局(現・NTT西陣別館)を設計した岩元禄、大阪中央電話局(1927年)を設計した森泰治などがいます。
逓信省は、戦時中、主な業務の移管が相次ぎ、さらに戦後の1949年、郵政省と電気通信省に分割されました。電気通信省は電電公社(NTT)や国際電電となりました。その結果、「逓信建築」は「郵政建築」と評されるようになります。
おしゃれな荻窪郵便局(東京、現存せず)
郵政建築は、郵便局の大量建設というミッションに従い、一定の標準化を進めます。同時に、スター設計者は登場しなくなりました。
郵政省の設計について、『国際建築』1954年6月号で、詳細が記録されています。以下、一部省略の上、引用しておきます。
(引用ここから)
■設計はこうして実施される
一つの建築に一人の設計主査が定められる。主査は設計開始から工事完成まで、ディザインのすべての面について責任をもつ。敷地を調査し、事業局のあらゆる希望要求を検討した上で設計が開始される。1/200配置・平面が完成すると、最初の設計会議にかける。
【設計会議】
設計会議は設計課全員で構成されており、課長を中心としていつでも召集される。部屋の中央の机上に提出された図面をとり囲んで、全員から活発な意見がかわされる。この意見は課員相互の間で設計のよい勉強になる。話は時によってとんでもない方向に飛躍することもあり、人間と社会全般の事象について意外に有効適切な知識が得られることもある。
会議の結論を集積して主査は提出図面を訂正し、ふたたび会議にかける。全員の納得がゆくまで会議は随時任意に開かれ、図面は訂正される。こうして1/200配置・平面が決定すると、主査は1/100平面、立面を作製する。これは同じ会議の過程をへて、はじめて実施図面が完成する。
1/100平面・立面は、構造・機械・電気設備係に廻されると同時にドラフト・マンの手にわたって、主査の指導の下に詳細図が作製される。主要な部分は主査自ら作製する。一切の図面が完成すると、仕様係が仕様書をつくる。一式が積算係の手で積算される。この間に、前述の各専門係から主査に対してたえず設計上の打合せがあり、訂正が行われる。
事務上の手続きをへて入札が決定し、工事がはじまる。監督員は主査と必要な打合せをすませた上で現場に出張し、一切の現寸図を作製する。現寸図は主査の手元へ持参または送付され、訂正される。必要なものは主査の下でつくられる。
仕上材料見本・色見本もすべて同じ過程で、主査の決定による。主査は随時に現場に出張して現地で打合せを行う。こうして、主査の眼があらゆる細部に行きとどいた建築が完成する。
おしゃれな若津郵便局(佐賀県、現存せず)
【郵便局舎標準設計図】
毎年度はじめに全国設計課長会議を本省で開いてその年度の設計方針を打合せる。それまでに本省では普通局の標準設計図をつくる。適当の敷地と坪 数を想定して、配置から詳細一切を作製し、課長会議に配布説明してその年度の全国普通局設計の規準とする。
標準化されたスピーカーつきの時計や非常口の文字
(引用ここまで)
郵政省は「かんぽ(簡易保険)」を抱えていたことから、病院はもちろん、健康増進施設や老人ホームなども建設しています。そのため、意外に多く の建物が身の回りにあるのです。
さて、直線と曲線を幾何学的に組み合わせた外観、優美な壁の丸み、並んだ円形窓、重厚な手すりなどが大正時代以降の「逓信建築」の特徴ですが、 戦後の「郵政建築」の特徴は「ひさし」と言われることが多いです。大きな壁に四角な窓を整然と並べ、それを庇(ひさし)で区切った簡明なデザイ ン。ひさしは日本の伝統的木造建築の流れを受け継いでおり、これがいわゆる「郵政スタイル」となりました。
逓信総合博物館(1964年竣工、現存せず)
このデザインが結実したのが、実は外務省の建物です。1954年、コンペがおこなわれ、指名された8名のうち3名が元逓信技師でした。最終的に 設計した小坂秀雄は、合理主義と、日本の伝統的木造建築のひさしをミックスした郵政スタイルを導入したのです。小坂は、のちにホテルオークラ (1962年)なども設計しています。
外務省庁舎(1960年竣工)
1931年に完成した吉田鉄郎の東京中央郵便局は、「逓信建築の最高峰」「モダニズム建築の傑作」などと言われましたが、2008年頃、解体が決まります。しかし、取り壊しに反対の声があがり、当時の鳩山邦夫総務相が「トキを焼き鳥にするようなものだ」と待ったをかけ、一部保存が決まりました。こうして、「JPタワー」の下層階の外観に、いまも残されたのです。
郵便局はその規模や位置からランドマークになることが多く、つまりは逓信建築が日本の街を形作ってきたことは否定できません。逓信省の影響力は、いまもひっそりと残っているのでした。
現役時代の東京中央郵便局(2007年)
制作:2024年5月20日
<おまけ>
実は、戦前、郵便局は「親方日の丸」の代表で、窓口には鉄格子があり、職員が客を見下ろすような形になっていました。しかし、郵政省になってからは徐々に改善され、いまは「顧客サービス」を意識するようになっています。
なお、現在、日本の郵便局の設計は、全国郵便局長会の要請に基き、1972年に設立されたニッテイ建築設計(当初の名前は「日本逓信建築事務所」)などが主におこなっています。
公式サイトによると《全国にある郵便局数約20,000局のうち、半数以上の約11,000局の設計実績》があるとのことです。
ニッテイ建築設計がつくった那覇中央郵便局(1997年竣工)