大元帥法の秘密
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敵国降伏マニア
福岡県筥崎宮の「敵国降伏」額(戦前)
西暦939年、朝廷に反旗を翻した平将門は天皇に即位して、「新皇」と名乗ります。朝廷の意を受けて、京都・東寺の高僧泰舜は、将門調伏の秘法を執り行いました。
修法のさなか、壇上にはおびただしい血がしたたり、さらに秘印を結ぶと、独鈷杵(とっこしょ)という法具が半分に折れてはるか東に飛んでいくではありませんか。まさにこの瞬間、平将門は藤原秀郷、平貞盛らにより討伐されたといわれています(東寺文書『真言伝』による)。
東寺(戦前)。別名は「教王護国寺」
太元堂には大元帥明王が祀られています
いったい、将門を討ち取ったこの「秘法」とは何でしょうか?
これこそ「大元帥法」(たいげんのほう。「帥」は発音せず、大元明王の法とも書くようです)で、国家最高の密教秘術です。『続日本後紀』によれば、840年、唐に入った僧・常暁が法琳寺に持ち帰ったとされています。
法琳寺は密教の根本道場でしたが、江戸時代に廃寺になりました。戦前まで瓦製造の跡が残ってましたが、今は何も残っていません。
法琳寺の瓦窯の跡
この秘術は毎年正月8日から14日までの7日間、宮中の治部省で、国家鎮護のために行われました。
最高の法術なので、朝廷以外で行われることは固く禁じられていました。ところが995年、藤原伊周がひそかに執り行い、大事件となりました。これが長徳の変(ちょうとくのへん)と呼ばれる政変で、これをきっかけに藤原道長が大権勢をふるうことになったのです。
このとき、どうして大元帥法が問題になったかというと、この秘術は正月以外に臨時で行われることもあるんですが、それは敵国折伏のためにやるのです。つまり国家の敵を潰すため。要は、藤原伊周の行為は、大げさでなく天皇家への革命と見なされたわけです。
ではいったい大元帥法とはどんな秘術なんでしょう?
実はこれに関する資料があんまりなく、詳細は調べきれないんですが、どうやら次のような感じです。
まず本尊は6本の手を持ち、炎のような髪に憤怒の表情をした夜叉(やしゃ)神である大元帥明王(太元帥明王とも書きます)。
天皇の御衣を箱に入れて、緋色の綱で結んで封印。さらに秋篠寺(奈良市)の閼伽井(あかい、またの名を香水閣)から香水をくんできて、三角形の炉で護摩木などを燃やしながら、600巻ある「大般若波羅蜜多経」(大般若経)すべてを黒い服を着た僧が読誦します。その際、南を向きながら、すべて1人で通読しなければなりません(「真読の大般若」といいます)。
これを繰り返すのか、さらにほかの教典を読むのか不明ですが、結願後、御衣を元に戻して終了。
う〜ん、正直言って、こんな単純だとは思えないんですが、これ以上はよくわかりませぬ。
ちなみにこれは不動護摩の一種で、炉の形や衣服の色など違いはあれど、北を向くと「息災」、西は「敬愛」、東が「増益」、そして南が「調伏」とされています。
さて、この敵国降伏の秘術が次に大々的に行われたのが、元寇でした。
ここで元寇について詳しくは書きませんが、2回あったのはご承知の通り。
●文永の役(1274年10月)
●弘安の役(1281年5月〜7月)
このとき、亀山上皇は伊勢神宮や春日神社、日吉神社などに参拝し、大元帥法も執り行いました。上皇は「我が身をもって国を救え」と宸筆(直筆)の願文を書いたほど。同時に日本中で「敵国降伏」の祈願が始まりました。尾張の性海寺や阿蘇の宮原両神社など、当時の記録はいくつもの社寺で残っています。
で、そのおかげで神風が吹いたわけですな。その様子は『増鏡』に次のように書かれています。
《七月一日、おびたたしき大風吹きて、異国の舟六万艘、兵乗りて筑紫へよりたる、皆吹き破られぬれば、或は水に沈み、おのづから残れるも、泣く泣く本国へ帰りにけり。石清水の社にて、大般若供養説法いみじかりける刻限に、晴れたる空に、黒雲一村、俄に見えてたなびく。彼の雲の中より、白き羽にてはぎたる鏑矢の大なる、西をさして飛び出でて、鳴る音おびたたしかりければ、彼処には、大
風
の吹きくると兵の耳には聞こえて、浪荒くたち海の上あさましくなりて、皆沈みにけるとぞ。猶我が国に
神
の御座します事、験に侍りけるにこそ》
6万艘が沈んだというんだから、これはすごい神風です。
ちなみに、最近の研究では、文永の役では神風は吹かなかったとされています。今の暦では11月の終わりにあたり、台風が吹くわけない。単純に偵察のため、最初からすぐに引きあげる予定だったというわけですな。
また、弘安の役ではたしかに台風が来たようですが、日本側は石塁を20キロにわたって作っていたため、蒙古軍はなかなか上陸できなかったと言われています。つまり、騎馬による戦いではなく、海戦だったというわけです。
これが20kmに及ぶ石塁(明治24年「伏敵編」による)
今津の石塁
さて、実はここからが本題。
『増鏡』によれば、亀山上皇は「八幡へ御幸」したとあるんですが、これは福岡市箱崎町にある筥崎宮のことです。実は、この神社は「敵国降伏(ごうぶく)」の神として崇拝されていました。楼門の正面には、なんと「敵国降伏」の額が飾られているんですよ!
筥崎宮と扁額(縦約2.4m、横約1.5m)。現在の額は戦前の額とデザインが違います
この額の文字は醍醐天皇の直筆で、神社の創建当時(921年)に37枚が下賜されたとされています(『宇佐宮縁起』による)。
ちなみにこの文字を亀山上皇のものだとするのは誤りで、元寇で社殿が焼失後、再建時に納めた(『石清水文書・宮寺縁事抄』による)ものと勘違いしたんだと思われます。
実は御宸翰はずっと一般公開されたことはなかったのですが、2001年、初公開されています。しかし、残念ながら俺は未見なんで、明治時代に書き起こされた資料を掲載しときます。
御宸翰は幅6寸の紺色の紙に金色で書かれています。37枚のうち2枚は「国」が異体字で書かれています。
左2つが異体字(「伏敵編」より)
さて、元寇から600年以上経った1904年、福岡市東公園に亀山上皇の銅像が立てられました。時まさに日露戦争が勃発した年だけに、ここでも「敵国降伏」が祈られたわけですね。
亀山上皇の銅像(戦前)
山崎朝雲作、高さ5.25m、重さ約1トン
日清、日露戦争のときは大元帥法の記録はありませんが、実は太平洋戦争では大元帥法が執り行われたと言われています。高野山で護摩を焚き続け、フランクリン・ルーズベルト大統領を暗殺したというんですね(1945年4月12日に死亡)。
これはネット上ではよく見る記述ですが、
「昭和天皇実録」
には記載されていないので、残念ながら、後世作られた伝説です。
これが「敵国降伏」切手
でも、元寇の神風パワーが使われたのは本当です。なんと「敵国降伏」の10銭切手が発行されているんです。
しかし、これじゃ、やっぱり戦争に勝てるわけありませんな。
制作:2008年7月16日
<おまけ1>
佐賀県武雄市の広福寺には、弘安の役のとき、後宇多天皇から賜った「敵国降伏」の額が残ってるそうです。俺は未見だし、ネットでも確認できなかったんですが、写真持ってる人は送ってね!
<おまけ2>
筥崎宮は、寺社には珍しく西向きに造られています。真鍋大覚という物故学者の説では、冬至の朝日を裏参道、夏至の夕日を表参道に見る位置に正確に建てられているそうです。夏至には玄界灘に沈む太陽が神殿の中心に差し込んで、御神鏡がピカリと輝くようになっていたんだとか(現在はズレています)。実際、明治20年の神職の日誌に「鳥居の真ん中から夕日が入ったので、本殿の鏡を降ろして当てた」という記録があるそうです(読売新聞2006年6月21日)。
筥崎宮の表参道。この距離を太陽光が一直線に入ってくるんですって!