「地価」の誕生
あるいは有島武郎の情死の真相

地租改正反対一揆
地租改正反対一揆


 日本有数の進学校・開成高校の校歌は、《常盤の緑 色映ゆる 道灌山の学び家に》で 始まります。
 高校の裏手には、江戸城を築いた太田道灌の出城跡とされる「道灌山」があります。江戸時代には、富士山や筑波山が見える景勝地として、また薬草の採集地として知られていました。この場所には、秋田・佐竹藩の屋敷や庭園「衆楽園」などがありましたが、明治になると荒れ地のまま放置されました。

江戸時代の道灌山
江戸時代の道灌山(『江戸名所図会』)


 1908(明治41)年に発表された夏目漱石の『三四郎』には、この場所を抜けて道灌山へ出ようとして、番人に怒られたエピソードも書かれています。

 1916年(大正5年)、荒れ果てていたこの場所を、東京渡辺銀行の頭取だった渡辺治右衛門が譲り受け、理想的な住宅地を建設します。
 作家の野上弥生子は、この場所に家を買い、戦争で焼け出されるまで住みました。

《或る資産家が三四年前から北の方の郊外にある自分の所有地にW-町と名づけて田園都市のようなものを拵(こしらえ)えている。会社組織になっていて、住む人は好みの設計に依って家を建てて貰える。建築費も年賦で地代と共に家賃代りに支払えばよいというのである。(中略)

 両側の家は悉(ことごと)く新しく立派で、大きかった。赤い屋根の洋館からはピアノの音がしていたり、また或る家の風雅な窓からは冴えた琴の音が洩れたりしていた。而してどの家の表門も堅く閉ざされて、たまたまそう云う音楽の響でもする以外には、物音一つしないでしんと静まり返っている中を、広い、立派な道路が白く輝いて堂々と横たわっていた》(『所有』)


 渡辺治右衛門は、このあたりの土地3万坪を坪単価5〜6円で買い、10年ほどたったときには、坪20円弱になったと言われています。渡辺は土地で大儲けしましたが、1927年(昭和2年)、渡辺銀行が倒産し、昭和恐慌が起きると、渡辺町は売却されることになります。

 というわけで、今回は日本の土地制度史を振りかえってみることにします。

 もともと、江戸時代は土地の私有という概念はありませんでした。田畑永代売買禁止令はありましたが、これは農民を土地に縛り付けるもので、個人の財産権という意味はありません。

 土地は財産であるという概念が発生したのは、明治になってからです。1869(明治2年)に大蔵省が設立され、2年後に租税寮という大蔵省の内局ができました。この両者が必死になって考えた税金の仕組みが、1873年(明治6年)7月の地租改正です。

大蔵省
大蔵省

●地租改正

 地租改正は、全国バラバラだったコメによる徴税システムを改め、「地租」に統一を図ったものです。つまり、現物から貨幣への転換です。

 次にあげる「地租改正の詔勅」は全国統一システムの確立を、「太政官布告」は税率の確定(地価の100分の3)を宣言しており、まさにこの2つが地租改正のポイントです。

<地租改正の詔勅>
上諭
 朕惟ふに租税は国の大事人民休戚(きゅうせき)の係る所なり、従前其法一ならず、寛苛(かんか)軽重、率(おうむ)ね其平を得ず、仍(より)て之を改正せんと欲し、乃(すなわ)ち所司の群儀を採り、地方官の衆諭を尽し、更に内閣諸臣ト弁論裁定し、之を公平画一に帰せしめ、地租改正法を頒布す、庶幾(こいねがわ)くば、賦(ふ)に厚薄の弊なく、民に労逸(ろういつ)の偏(へん)なからしめん、主者奉公せよ(原文カタカナ)


<太政官布告(第272号)、明治6年7月28日>
 今般地租改正に付、旧来田畑貢納の法は悉皆(しっかい)相廃し、更に地券調査相済(すみ)次第、土地の代価に随(したが)ひ、百分の三を以て地租と可相定旨被仰出候條、改定の旨趣(ししゅ)別紙條例之通可相心得、且(かつ)、従前官庁並郡村入費等地所に課し取立来候分は、総(すべ)て地価に賦課可致、尤(もっとも)其金高は本税金の三ケ一より超過すべからず、此旨布告候事(原文カタカナ)

 しかし、租税反対の一揆が激増、政府は3%から2.5%に減税します。

●地券制度
 
 地租改正のために採用されたのが、明治6年(1873)の地券制度です。要は、全国の土地ひとつひとつの所有権を確定させていくという遠大な作業です。ちなみに島崎藤村の『夜明け前』には、主人公半蔵が地券調べで忙しいという記述があります。

《この奔走が半蔵にとって容易でなかったというは、戸長(旧庄屋の改称)としての彼が遠からずやって来る地租改正を眼前に見て、助役相手にとかくはかの行かない地券調べのようなめんどうな仕事を控えているからであった》(『夜明け前 第二部下』)

地券
明治6年の地券

地券
明治16年の地券(税率は2.5%)


 ちなみに、上の地券は山口県のものですが、地券発行は明治政府寄りのエリアから開始されたため、最初期のものはほとんど東京や薩長土肥のものです。

●地価の成立

 土地の所有者を確定させたあとは、「地価」を決めなければなりません。地価の3%を税金としたからです。その地価をどうやって決めたかというと、従来のコメの生産高(石高)を基準としました。
 実際に使用された「地価算出表」を見ると、米1斗(18リットル)で4円37銭7厘5毛、1石(180リットル)で43円77銭5毛などと決定されていったのがわかります。

地価算出表
実際に使われた地価算出表(明治13年)


●登記システムの登場

 地券制度は1889年(明治23年)3月に廃止され、以後、登記による土地台帳制度に変わりました。これが現在まで続くシステムです。
 登記法が施行されるにあたって、当然、さまざまなマニュアルが発行されましたが、その1例を公開しておきます。『登記事務質疑録』という当時の裁判所の内部資料には、こんなQ&Aが書かれています。

Q 土地売買が外国人の場合どうしたらいいのですか?
A 内国人から外国人に売る場合は、登記簿の取り消し欄にその内容を記入して、物件を朱で消してください。逆の場合は、契約書と翻訳文の綴じ目に印鑑を捺して、登記物件の番号を書くこと

Q 地面の木や石の登記はできるのですか?
A 「樹木附」「庭石附」などと記載すること

 現場の苦労が忍ばれます。

●寄生地主の登場

 このように、土地の売買が自由にできるようになると、貧乏人は結局土地を売り払い、わずかな大地主と、搾取される大多数の小作人という関係が強固になってしまいます。地代の60%近くを収奪される搾取ぶりは、寄生地主制と言われるほどです。

土地売買の契約書
土地売買の契約書
(明治17年、「永代地所売渡」が可能になった)


 寄生地主とはどのようなものだったのか。このあたりのことを、作家の有島武郎の文章で見てみましょう。有島は北海道のニセコに親から引き継いだ広大な農場450ヘクタールを持っていましたが、1922年7月に土地共有という形で、小作人に無償で解放しています。こんなことをする人間は珍しいので、大いに世間の耳目を集めました。

《今の世の中では、土地は役に立つようなところは大部分個人によって私有されているありさまです。そこから人類に大害をなすような事柄が数えきれないほど生まれています。それゆえこの農場も、諸君全体の共有にして、諸君全体がこの土地に責任を感じ、助け合って、その生産を計るよう仕向けていってもらいたいと願うのです》(『小作人への告別』)

 
 昭和に入っても地主の寡占化は止まりませんでした。1941年で日本の全耕地の46%が小作地で、全農家の28%が耕地をまったく持っていない純小作農でした。多少とも地主から耕地を借りている小規模自作農を加えると、実に69%が搾取される側だったのです。

●農地改革

 こうした悲惨な状況を一掃したのが、敗戦直後の1946年に行われたGHQの農地改革(「自作農創設特別措置法」)です。政府が地主から強制的に土地を買い上げるわけで、その代価は向こう24年払いの「農地証券」でした。結局、戦後の大インフレで、この農地証券は紙くずになるのですが、逆に言えば小作人はタダ同然で土地を手に入れることができました。

農地証券
紙くずとなった農地証券


 農地改革を数字で見ると、小作地は田で14%、畑で12%に激減しました。また、純小作農は8%、小規模自作農を含めても43%に減りました。
 1952年7月には、さらに進んだ農地法が施行され、農民は自分の土地で創意工夫をもって農業に従事できるようになりました。これが成功を収め、1955年には、1200万トンを超える史上最高の米豊作が実現したのでした。

●借地・借家法


 一方、1941年、国家総動員態勢の下で、地主の権利を制限する「借地法・借家法」が改正されました。これは、借地や借家の契約期間が終了しても、借り手側の希望で契約が延長できる仕組みです。戦時下、世帯主が出征したとしても、留守家族が安心して住み続けられるように制定されました。貸し手側は、「正当な事由」がない限り、拒否できません。

 加えて、1938年以降、地代や家賃の値上げが禁止されています。この結果、日本ではわざわざ家を買う必要もなく、借家住まいが多い状態が続きました。もちろん、土地そのものの流通も極めて少なかったのです。

 しかし、戦後の農地改革で土地は市場に出回り始めます。
 1960年代、高度成長期になると、人々の所得が増え、同時に住宅向けの金融が整備されるようになりました。住宅金融公庫により、資産がなくても、ローンを組めば郊外に家を持つことができるようになりました。
 アメリカの「広い家」というイメージも流布され、日本でも「マイホーム主義」が誕生します。
 
 1964年の東京オリンピックが近づくと、東京に大規模な公共投資が集中し、土地はミニバブルを起こします。それと同時に、東京に集まる人の受け皿として、膨大なアパートやマンションが出現しました。
 一方で、行政は「公共用地取得に関する特別措置法」を制定し、土地の取得を容易にしました。

公共用地取得
土地収用の説明会(1961年)


 こうして、土地を基本とする徴税システムは現在まで生き延びたわけですが、バブルを経て、土地資本主義も壊滅的な打撃を受けました。税金の減収は続きますが、さて、

Q 財務省はどうするんでしょうか? 
A どうせ国債を乱発して、問題先送りですね。


更新:2019年6月16日

<おまけ>

 有島武郎は450ヘクタールの土地を70戸の小作人に譲り渡しました。時価50万円ともいわれた巨大な資産ですが、実はその1年後の1923年6月9日未明、『婦人公論』の記者で人妻の波多野秋子と軽井沢で情死しています。
 つまり、色恋沙汰のために土地を処分したんじゃないかという説が根強かったんですが、実はそうではなく、土地解放という「危険思想」に官憲が圧力をかけ、それを苦に自殺した可能性があるのです(有島記念館の名誉館長の説)。

 有島の農場では、1921年秋、小作農の自立のために農地改良工事を行いましたが、その補助金がらみで農場管理人が詐欺罪で捕まっています。有島の自殺は、その有罪判決から29日目のことでした。自殺したとき、有島は45歳、秋子は29歳。遺書には「私達は最も自由に歓喜して死を迎える……恐らく私達の死骸は腐乱して発見されるだろう」と書いてありました。

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