治水の歴史
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本邦「治水」1600年史
全国縦断「水害対策」の旅
室戸台風
で壊滅的な打撃を受けた大阪港(1934年)
2015年9月、台風18号による大豪雨が関東・東北を襲いました。鬼怒川の堤防では越水や決壊が起き、茨城県常総市は大きな水害に見舞われました。
越水した堤防が1年たってどうなっているかというと、コンクリートで固められています。
当然ですが、日本の治水対策は、より高く、より強固な堤防を作ることが大前提なのです。
鬼怒川の堤防
被害の大きかった水海道は、古文書に「水かへと」と書かれるほど水と関係が深い場所です。鬼怒川と小貝川が近接しており、古くから稲作と水運で栄えました。古代には平将門の乱があり、近世では一時、天領になるほど豊かな土地です。
水海道では「鬼怒川の水は尽きるとも、その富は尽くることなし」と称えられた豪商たちが店を連ねました。なかでも有力な問屋が五木田家で、当主は代々「宗右衛門」を名乗り、「五木宗」 と呼ばれました。その栄華は、今に残る「五木宗レンガ蔵」などで偲ばれます。
五木宗レンガ蔵
しかし、この場所は、長らく洪水に悩まされてきました。繁栄は、水害と裏表の関係にありました。
江戸時代、小貝川に流れこむ八間堀川は排水能力が低く、氾濫が相次いでいました。
そこで、幕府の普請役だった市村宗四郎が新八間堀川を開削して鬼怒川に接続。おかげで、洪水は大きく減りました。
水運の担い手だった水運組合「河岸講中」は、水運の無事を祈って水神宮を建てました。近くには市村宗四郎を神格化した「市村大明神」の祠も存在しています。
そして、昭和13年、この地を襲った水害の「水災記念碑」も残されています。
3万6800人に被害と書かれた水災記念碑
碑文には、死者はいなかったものの、3万6800人が被害に遭い、白米16tがすべて流出し、被害は約24億円だったと記録されています。
新八間堀川が鬼怒川に流れ出す場所には、国土交通省の排水施設があり、増水時、市街地へ水が逆流しないようになっています。それでは、なぜ2015年の台風では、市街地まで冠水したのか。
台風当日、鬼怒川が増水したため、新八間堀川に水が逆流しないよう水門を閉め、新八間堀川から鬼怒川へ排水が行われていました。
しかし、鬼怒川の上流で堤防が決壊すると、水門付近の水位は上限近い8mまで達します。新たな決壊の恐れが出てきたため、水門を閉じたまま排水が中断されました。
この結果、新八間堀川がせき止められた状態になり、さらに「樋管」と呼ばれる排水口から水が逆流したことで浸水被害が生じたとされています(東京新聞2015年10月23日)。樋管を閉じておけば逆流はなかった可能性もありますが、どちらにせよ、想像を超えた水量だったのは確かです。
巨大台風の前では、「想定」はいともたやすく打ち破られることがわかります。
水海道排水機場(奥が鬼怒川、手前が市街地寄りの新八間堀川)
日本の治水の歴史は長く、たとえば『古事記』には「秦人を役して茨田堤を作った」と書かれています。これは、4世紀、仁徳天皇が大阪の淀川ぞいに築かせた堤防のことです。
秦から来た渡来人はその後、兵庫に移住します。
茨田堤(国会図書館『河内名所図会』より)
『播磨国風土記』には、兵庫県の林田川(原文は意此川)について、こんな文章が書かれています。
《神尾山には出雲の神がいて、通り過ぎるもの10人のうち5人、5人のうち3人を殺した。そこで、出雲の人たちは鋤(スキ)を祀ったがダメだった。後に、河内国の茨田の漢人が移り住んで敬ったところ、神の怒りは静まった》
これは、スキのような農具ではなく、渡来人が池溝を作ったことで水害がなくなったことを意味する治水の物語だとされています。
ほかに古代で有名な治水エピソードとしては、九頭竜川、日野川、足羽川が注いでいた巨大な湖を、4世紀末、継体天皇がうまく水を海に逃したことで、福井平野が姿を現したとされています。
福井市を見下ろす継体天皇の銅像
治水からはやや離れますが、『日本書紀』には、616年ごろ、「河内の狭山は田んぼに水が少ないので、農民は働かない。そこで、池溝を開いて……」とあります。これが、日本最古のダム式ため池とされる大阪狭山市の狭山池です。
狭山池は行基、重源、豊臣秀吉の家臣・片桐且元らによって改修が行われ、現在もダム湖として存在しています。
狭山池
秀吉は、治水に熱心でした。
大阪では淀川に約27kmの堤防「文禄堤」を築き、太閤下水も作りました。また、洪水被害の大きかった木曽川にも堤防を作っています。この堤防は徳川家康によって整備され、「御囲堤(おかこいつつみ)」と呼ばれるようになりました。
御囲堤は、木曽川の氾濫から尾張国を守るためのものです。対岸は美濃国で、尾張藩の洪水を防ぐため、美濃国は常に3尺(約1m)低い堤防しか築いてはならないという不文律が存在したと言われています。
長良川河口堰
木曽川の近くには長良川、揖斐川が流れていて、昔からこの3川は大洪水を引き起こしてきました。
江戸時代(1754年〜1755年)、幕府は薩摩藩に命じ、木曽3川の分流工事(宝暦治水)を行わせました。工事は難航し、莫大な工事費用と数多くの藩士が死亡しました。その責任を取り、担当の平田靱負は工事完了後に自害。そして、亡くなった薩摩藩士を祀るため、治水神社が建立されました。
治水神社(岐阜県)
徳島県の吉野川には、第10堰と呼ばれる江戸時代の堰が今も残っています。長さ1000m・幅30mの石積みで、当時のままの堰です。
吉野川第10堰(徳島県)
江戸時代の治水工事マニュアルは『堤防橋梁積方大概』(明治4年)で今に残されていますが、それから10年後、明治14年に刊行された内務省の『土木工要録』には、ある斬新な技術が記載されました。
粗朶工(そだこう=ケレップ)と呼ばれるもので、ナラ、クヌギ、サクラなどの枝を束ね、クッション状にしたものをいくつも沈める工法です。流水のコントロールがしやすい西洋の技術です。
『土木工要録』に描かれた粗朶工(国土交通省のサイトより)
これを持ち込んだのはお雇い外国人のオランダ人で、有名なのがヨハニス・デ・レーケ。
淀川・木曽3川の改修、大阪港の築港、利根運河の建造など、日本土木史上、最大の恩人ともいうべき人物です。
デ・レーケが行った筑後川の導流堤(福岡県大川市)
治水工事には、低水工事と高水工事の2つあります。低水工事は、粗朶などを使って川の流れを安定させるもの。高水工事は、堤防を作って洪水を防ぐものです。日本では、長らく低水工事が採用されてきました。
明治18年(1885年)、淀川で大洪水が起きます。
復旧工事は粗朶沈床工法(低水工事)で行われました。大量の粗朶を作るため、山を丸坊主にしましたが、これにより山の保水力が低くなるという大きな矛盾が生まれます。
こうして、日本でも高水工事が始まります。明治29年(1896年)、河川法が制定され、淀川で本格的な治水工事が開始されました。この工事で新淀川が開削され、淀川は河口までまっすぐな川となるのです。
まっすぐな新淀川(途中で切れてるのは本庄水管橋)
以後、日本の川は、河口までなるべくまっすぐ伸ばし、河岸に巨大堤防を作るという方法論が確定します。
たとえば秋田でも、雄物川をまっすぐ日本海へ放流する人工的な川筋が大正時代に作られました。この工事により水害は減り、さらに放水路の掘削で出た土で湿地帯を埋め、広大な工業用地(茨島地区)が誕生しました。秋田の発展は、雄物川の改造が作り出したのです。
直線工事が行われていない雄物川の中流部
河口が直線になり排水機場も完備された小松市の梯川(石川県)
日本の河川はどこもコンクリートで埋め尽くされていますが、間違いなくそのおかげで日本は発展しました。
現在、環境保全から低水工事の見直し、ビオトープ(生物の生息空間)の設置などが進んでいますが、洪水がある限り、コンクリートの高い高い壁が消えることはないのだと思われます。
それは、東日本大震災の被災地で、より高くより強固な堤防が作られたことを見ても明らかです。
津波対策の新防波堤(福島県真野川漁港)
制作:2016年9月4日
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東京大水害
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「水の都」東京と小名木川
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超巨大地下神殿「首都圏外郭放水路」
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共産党が宣言した幻の「利根川」巨大開発
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幻の「房総半島」開発プロジェクト
<おまけ>
大阪狭山市にある狭山池は、建造から1400年を迎えました。その記念事業として、池に巨大な太陽光パネルを設置。その電気を使って池の水を分解、水素を生成し、燃料電池によって全2万5000世帯へ電力供給を目指す大プロジェクトが始まりました。
ついに永続するエコシステムが誕生するのか、その動向に注目です。
淀川に設置された水防碑