東京駅の誕生
日本最大のレンガ建築ができるまで

完成直後の東京駅
完成直後の東京駅


 東京駅の初代駅長は、高橋善一という叩き上げの人物です。マスコミにもたびたび登場した「名物駅長」ですが、東京駅の開業に際してもメディアの 取材に応じています。

「1890年(明治23年)、鉄道院の松本荘一郎(後の鉄道省長官)が『東京の中央に大きな駅を作らねば』と言うので、2人で『三菱が原』に検分に行った。東京駅は横に長くて幅がないが、皇居に相対する中央駅としては申し分なかろう。大きすぎるので、女性や老人は簡単に列車には乗れないかもしれない」(時事新報)

皇居に相対する東京駅
皇居に相対する中央駅


 東京駅の敷地は、江戸時代には大名屋敷が並ぶ、非常に静かな場所でした。水野家(肥前)、松平家(三河)、松平家(能登)、本多家(美濃)などの邸宅が並び、町人は誰ひとりとして住んでいません。監視も厳重で、電灯がない時代だけに、女性が夜一人で歩くことはほとんどありませんでした。辻番の門限に遅れる場合、あらかじめ伝えておかないと、産婆以外の女性は決して通行できなかったと伝えられます。

 明治になってこの場所は放置され、三菱がやむなく買収しましたが、あまりに鬱蒼としているので、「三菱が原」と呼ばれました。そんな荒野に東京駅が開業したのは、1914年(大正3年)12月20日です。ルネッサンス式3階建てで、左右には八角形の高塔。設計は、辰野金吾と葛西万司です。

 東京駅の建造は1889年(明治22年)に告示された「東京市区改正設計」を経て、議会で中央停車場の建設が可決された1896年(明治29年)にさかのぼります。日露戦争などで着工は遅れに遅れ、1908年(明治41年)3月25日に起工し、完成まで実に7年弱の歳月がかかりました。

東京駅の骨組
東京駅の骨組(『東京市街高架鉄道建築概要』/国会図書館)


 1階はすべて駅のために使い、2階はホテル、3階は事務所用です。1階中央には皇室専用の出入口があり、車寄せからエレベーターに乗ると、すぐに大広間に到着。その左右に皇族専用の待合室がありました。天皇陛下の休憩所は広間から廊下を隔てて、別に設置されています。

東京駅・皇室専用の待合室「竹の間」
皇室専用の待合室「竹の間」


 広間の天井には黒田清輝、和田英作による、山や海を中心としたさまざまな職業が描かれた壁画がありました。ドームの頂点部には兜をモチーフにした浮き彫りが飾られ、壁には干支のレリーフもありました。一般向け待合室、洗面所、書店などの売店もきちんと整備され、さらに大小数力所の食堂、外国人専用のホテルも準備されました。

東京駅・和田英作による壁画
和田英作による壁画


 開通式がおこなわれたのは12月18日です。

 式場入口には、鉄道院が立てた、高さ10間半、間口14間のルネッサンス式の大緑門があります。緑門には中央と脇の3カ所に出入口があり、正面上部は兜巾形(山伏がかぶる帽子)で、「日の出」「鉄道院の『工』」「車輪」のマークがあちこちに金色で貼られています。

東京駅・開業当時の様子
開業当日の様子


 両脇の小柱には日章旗が飾られ、夜はイルミネーションが輝きました。北側の入口を入ると記念品の配布所があり、北の大広間には、国旗を4本ずつ装飾した8本の大柱が見えます。柱は紅白巻きで、天井には波型の花モール。大広間の北側に杉の葉で造った大舞台が設置され、正面には黄色で「式場」と記された額が飾られ、正面にはオリーブ色の幕が張りめぐらされています。

東京駅開業当日の様子・大緑門
大緑門

東京駅開業当日の様子・イルミネーション
イルミネーション

 
 午時9時、開場式が始まると、大隈重信首相は「明治5年、自分は新橋駅の開通式に臨んだ。それから43年、当時国内の鉄道はわずかに18マイルに過ぎなかったが、今は1万マイル。文明の進むスピードに驚く」との祝辞を述べました。

東京駅開業当日の様子・開場式
開場式


 なお、東京駅開業とともに、旧新橋駅は「汐留貨物専用駅」になり、烏森駅が新しく新橋駅になりました。

新旧の新橋駅
新装なった新橋駅(左)と旧新橋駅


 午前10時すぎ、鈴の音が響くと、一同はプラットフォームに歩き出します。10時30分、ホームに入ってきた木造車体のボギー電車が入ってきました。降りてきたのは、第一次世界大戦で青島攻略を指揮した神尾光臣中将です。東京駅の開業式は、神尾将軍の凱旋に合わせ、繰り上げられたのです。

 大歓迎を受けた中将は、戦況報告のため、駅前から馬車に乗り大緑門を出て皇居に向かいます。残された来賓は、思い思いに駅を見学したあと、11時30分から市主催の祝賀会で立食パーティに参加しました。乾杯後、万歲三唱し、君が代が流れるなか、天皇陛下の「聖寿無疆」を黙禱しました。

東京駅開業当日の様子・神尾将軍の凱旋
神尾将軍の凱旋


 実際に東京駅が稼働したのは20日からです。
 一番列車は、朝5時20分発の横須賀行きです。これは蒸気機関車ですが、これとは別に東京〜高島町(横浜)の電車がありました。

 実は東京駅開業の直前、京浜電気鉄道(現在の京浜急行)が品川〜神奈川の運行を始めており、これに対抗するため、あわてて電車(デロハ6130)を導入したのです。しかし、東京駅の開業を早めたことで、大トラブルが起きました。開業式で、国会議員などの来賓を乗せた試乗電車が立ち往生し、本来なら45分で行くところを2時間以上もかかったのです。これを受け、鉄道院は総裁名義で、全面謝罪広告を出す羽目になりました。

東京駅開業の様子・プラットフォーム
開業時のプラットフォーム


 東京駅では、19日から20日にかけて、必死の調整がおこなわれていました。しかし、電車の調子は悪いまま。そのまま電車始発の5時になりますが、定時の出発はできず、結局5時18分に出発。その2分後、本来の一番列車が、5時20分に発車しています。

 横須賀行き一番列車の切符を最初に手に入れたのは、牛込区矢来町に住む川端由松という人物です。午前3時に家を出て、歩いて東京駅までやってきました。出札係が川端マチという人物で、たまたま同姓だったことで、喜んで大声で奇声を発したと記録されています。

 一方、上りの一番列車は岡山発の普通列車で、この日6時15分に到着しています。

東京駅開業当時の時刻表
当時の時刻表


 当時も一番列車を見ようと多くの人が集まりましたが、いまでいう「乗り鉄」は少なかったようで、この日の午前11時30分までに東京駅で発売されたきっぷは、1等2等あわせて256枚。そのうち新橋行きが52枚、品川行きが25枚。3等は820枚売れ、うち新橋行き300枚、品川行き167枚でした。多くの乗客が近距離だけ乗ったことがわかります。東京駅づきとなった300台ほどの人力車も、ほとんど仕事がなかったと伝えられています。

 その後も電車の調子は悪く、結局1週間で運行停止となりました。改めて開通したのは翌春で、この責任を取らされ、関係者がクビになっています。

東京駅・開業当時の柱
東京駅5、6番ホームに残された開業当時の柱
(書かれた文字は「明治四十一年 株式会社東京堅鉄製作所謹製」)


 最後に、東京駅のレンガ工事についてまとめておきます。

 前述したとおり、東京駅の設計は、辰野金吾と葛西万司です。
 しかし、これより前の1903年(明治36年)、ドイツ人技師のフランツ・バルツァーが「幻のデザイン」を出していました。

 駅舎は、「長距離降車口」「電車用降車口」「皇室専用乗降口」「乗車口」の4棟の建物を一列に配置するもので、乗車口から降車口までの距離は200メートルに及びました。建物は瓦屋根を持った日本建築様式でしたが、辰野から「浅薄な日本趣味」だと却下されました。

 ただし、バルツァーの基本的な構成はそのまま採用されました。駅舎の中央に皇室専用の出入口があり、一般客の乗車口と降車口は南北に分離され、非常に不便でした。これは戦後の1948年まで改善されていません。

東京駅・開業当時の改札口
開業当時の改札口


 東京駅の特徴は、レンガ積みとして日本最大の建物ということです。レンガは、目地のモルタルの厚さを調節しながら、鏝(こて)による手作業で一つ一つ積み上げられました。レンガは「オランダ積み」という方法で積まれています。丈夫ですが、材料に無駄が出るため、工費がかさむのです。

 さらに、大小2種類の化粧レンガがハメ込まれ、珍しい白色レンガも使われました。これは、耐火レンガの表面に釉(うわぐすり)をかけて白くしたものです。

 東京駅には、本体部分で833万2000個のレンガが使われています。化粧レンガは93万4500個。
 施工に関わった職人はのべにして約75万人。そのうちレンガ工は2万4344人です。

 当時、レンガ工の1日のノルマは1人1000個とされましたが、東京駅では1人1日400個に制限され、ていねいな仕事を要求されました(『東京駅はこうして誕生した』による)。

 こうした細やかな作業の結果、東京駅の総工費は282万2005円になりました。現在のお金で250億円ほどです。

東京駅のレンガ
東京駅のレンガ(『東京市街高架鉄道建築概要』/国会図書館)

  
 丸の内から銀座周辺はレンガ建築が並びますが、関東大震災で大きな被害を受けることになります。東京駅は震災では生き延びますが、1945年、空襲で屋根と内部を焼失しました。

 1947年に駅は復興しますが、その時点で3階建てから2階建てとなり、ドームも失われました。長らくこのままでしたが、2012年、5年ほどかけた復原工事が終わり、壮麗な東京駅が復活したのです。

復原前の東京駅復原前の東京駅
復原前の東京駅(2007年)

丸の内の誕生

制作:2021年5月24日


<おまけ>

 幻の設計案を作ったバルツァーは、東京駅をヨーロッパのようなターミナル(線路の終端)式ではなく、パススルー(通過)式にしました。そのアイデアが流用され、東京駅の利便性は大きく高まりました。

 東京駅の開業式では、そこかしこに万国旗が飾られています。国際社会の目を意識したわけですが、実は3カ国だけ旗が飾られませんでした。それがドイツ、オーストリア、オスマントルコで、第一次世界大戦における日本(連合国側)の敵(同盟国側)だからです(時事新報による)。
 ちなみにブルガリアも同盟国ですが、開業式でブルガリアの旗があったのかなかったのか、記録には残されていません。
 
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