北朝鮮で虎狩り!

山本唯三郎
得意満面の山本唯三郎


 大正6年(1917)12月20日の午後5時、帝国ホテルで盛大なパーティが開かれました。第一次世界大戦の船成金・山本唯三郎(松昌洋行社長)が朝鮮半島に虎狩りに行き、そのお披露目会というわけです。

「獲物試食会」の参加者は時の権力者たち……田健治郎(逓信大臣)、仲小路廉(農商務大臣)、清浦奎吾(枢密院副議長)、末松謙澄(枢密顧問官)、小松原英太郎(枢密顧問官)、神尾光臣(陸軍大将)、渋沢栄一(男爵)、大倉喜八郎(男爵)ら200人以上。

 食堂には虎狩りにちなんで竹林が配され、そこに獲物の虎、豹、熊、のろ鹿の剥製が置いてあります。

虎狩り
パーティの様子


 気分が乗ったところで、メニューは次の通り。

・咸南虎冷肉 
・永興雁スープ
・釜山鯛洋酒むし
・北青岳羊油煎
・高原猪肉ロースト
・アイスクリーム、果もの、コーヒー

 食事の途中には、浅草オペラを作ったローシーの歌劇やら虎狩踊が披露され、宴は大いに盛り上がったのでした。

 というわけで、北朝鮮・虎狩りツアーに出掛けよう!


 まず参加者はマスコミ19人を含む31人。これに現地で雇った砲手やポーターが加わり総勢約150人! 11月10日午前8時30分に東京駅を出発、翌9時38分、下関到着。その後、さくら丸に乗船して釜山へ。そして元山を中心として狩りが始まりました。

 メンバーは8チームに分かれました。1〜5班は咸鏡道へ、7・8班は全羅南道へ、6班は別働隊として金剛山で熊狩りに専念します。

虎狩り
黎明の霜を踏んで成興の町へ


 山は非常に深く、歩行も困難な峰が続きます。『征虎記』によれば、たとえば馬南嶺はこんな感じ。

《嶺は海抜二千弱、道あるにあらず岩と雑木とのみ。辛(かろう)じて剣鋩の如き石角を踏み、時に肩を没する雑草を分け、襞(ひだ)より谷、谷より背を縫ふて登る。一峯の天際に巨人の鉄兜を被りたるが如きあり》

 ここで、1匹の虎が突然姿を現しますが、距離が遠く、銃弾は当たりませんでした。
 こんな感じで狩りは続き、ついに第3班が虎をゲットです。

《中腹の雪に覆はれたる茅(かや)より一頭現はれ山頂目指して逸走せんとするを、(砲手の)白は之れを約四十歩の短距離に引付け、第一弾を背に、第二弾を腹部に、第三弾を頸部に加へて斃(たお)すを得たり》

 また別の日、第1班も虎をゲット。

《虎の姿を発見したるあり。試みに一弾を放って幸いに背に命中せしむるを得たり。虎は痛手に咆哮して其(その)声全山を震撼し、勢子の一人が恐怖に打倒れたる瞬間を盗んで驀然(ばくぜん)近くの岩穴に躍入る。……先ず一弾を見舞って唇を打ち、再び松明を入れて第二弾は頭を砕く。更に一弾を加へて全く危害の憂なきを確めて漸く之れを引出すを得たり》

 結局、1カ月で虎はこの2頭だけでした。もちろんそのほかに熊や豹、猪、水虎など多くの獣をしとめています。その量は、1両の貨車をいっぱいにするほどでした。

虎狩り
東徳山の頂上ではのろ鹿をゲット


 一行は京城(現ソウル)の朝鮮ホテルで大宴会を開催、12月10日、東京駅に帰着しました。
 それから10日後、冒頭の試食会が開かれたわけです。席上、得意絶頂の山本は、日本のトップ連中を前にこんな挨拶をします。

《一行が勝手気儘な振舞をして、慣例を無視し、風習を破り、事実、猟師の指図に反対の行動に出でて、夫(そ)れで却って相応に獲物があったに徴しましても、所謂(いわゆる)習俗の力が案外に薄弱なものであると……》

 朝鮮を併合して7年後という時機を考えれば、これはけっこう微妙な発言です。
 山本はさらに続けます。

《戦国の武将は陣中の士気を鼓舞せんが為めに朝鮮の虎を取りましたが、大正年代の吾々(われわれ)は、態々(わざわざ)出掛けて行って申さば日本の版図内の虎を狩って戻りました。之(こ)れにも深長な意味があると存じます》

 この発言を人々はどう聞いたか。おそらく、会場の多くの来賓は笑顔で納得したことでしょう。おりしも世界は大戦の真っ最中です。日本も3年前にドイツに宣戦布告し、青島を占領しました。翌年には対華21ヶ条要求を中国に認めさせています。
 
 領土拡大こそが正義だった時代。このとき日本は、明らかに“朝鮮の先の虎”を狙っていました。世界の利権争いに後れを取ってはいけない……こんな思いを込めて、日本は翌年8月にはシベリア出兵するのでした。

制作:2003年3月5日
<おまけ>
 それにしてもだ、最近の日本には山本みたいな豪快な人間はいなくなりましたね。残念なことです。せっかくなんで、この船成金のもう1つのエピソードを紹介しときます。

 大正8年(1919)1月、パリ講和会議が始まり、第一次世界大戦は終了します。終戦でいきなり船舶需要が減り、山本の台所事情も苦しくなってきました。
 そこで、絶頂期に手に入れた絵巻物を売却することになりました。これが現存する最古の歌仙図「佐竹本三十六歌仙絵巻」です。

 山本は現在の値段で言えば40億円ほどで手に入れてたんですが、この値段では誰も買うことが出来ません。そこで、三井財閥を作った益田孝が世話人となって、絵巻を36分割、くじ引きで財界人に分けることになりました。

 こうして国宝級の絵巻は團琢磨(三井財閥総帥)やら馬越恭平(日本麦酒株式会社社長)やらスーパー財界人の手に渡りました。

 くじ引きの日は、12月20日。帝国ホテルでの「獲物試食会」の、ちょうど2年後のことでした。
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