「豊洲」の誕生
巨大石炭島から豊洲市場へ
豊洲石炭埠頭
かつて存在した雑誌『婦人倶楽部』には、奥様が集まって社会科見学をする「主婦の見学会」という企画がありました。1959年3月号では、豊洲にあった「東洋一の新東京火力発電所」に出向いています。
この火力発電所は、1954年に完成し、東京都の全消費電力の6割をまかなっていました。当時はまだ日本に原発はありません。
東洋一の新東京火力発電所
一行が驚いたのは、膨大な石炭の量でした。
《広さ1万坪(30万平方メートル)といわれる貯炭場は、大きな山脈を思わせるような石炭の山です。25万トンから30万トンといわれるこの貯炭の山は、大体2ヵ月分の燃料だそうです。すべて国産品を使っているというこの発電所での唯一つの例外——スクレーパーという名の舶来自動車が、石炭を運んで走りまわっています。
大人が背のびしてもとどかない程の直径のあるタイヤ。この自動車が石炭をつんで走りまわり、同時に石炭を踏みかためて自然発火を防いでいるということです》
巨大な石炭の上にスクレーパー
この発電所では、1日に4600トンを発電用に燃やしていました。完全燃焼するため、石炭ガラはもちろん、灰さえほとんど出ない最新鋭の発電所です。
このように、2018年に築地市場が移転する豊洲は、かつて日本最大級の石炭島でした。いったい、この島はどのように作られたのか。今回は豊洲の歴史をまとめます。
電通ビルの下に踏切警報機
広告会社「電通」ビルの真下、住所でいえば「銀座8丁目」に、鉄道の踏切警報機が残されています。近辺に線路はなく、ただポツンと残された踏切跡。鉄道マニアには有名ですが、これはかつて存在した貨物鉄道「東京都港湾局専用線」の名残です。
大正時代まで東京にまともな港はなく、物資の輸送は横浜港が中心でした。しかし、1923年(大正12年)、関東大震災によって陸上交通が壊滅すると、港のない東京は救援活動の遅れや物資の不足に悩まされることになりました。
これを教訓に、徐々に東京に港が作られていきます。1926年に日の出埠頭が供用開始されたのを皮切りに、1932年(昭和7年)に芝浦埠頭、1933年に竹芝埠頭といった具合です。埠頭では、荷物を運ぶために専用線が敷かれていきました。
芝浦埠頭
1935年、築地市場が開業すると、貨物ターミナルだった汐留と築地市場を結ぶ貨物線が整備されました。冒頭の「銀座の踏切」は、1984年に廃止されたこの貨物線の遺物なのです。
貨物線の描かれた地図
戦後、東京湾の港湾施設は、ほとんど連合軍に接収されました。日本は、資源を基幹産業である石炭と鉄鋼に集中させる「傾斜生産方式」を採用するなか、東京は新たな港湾施設の開設に迫られます。残っていたのは、東京湾の東側しかありません。
東京都は1950年、海上を埋め立て、「豊洲石炭埠頭」を開設します。
豊洲石炭埠頭のイメージ図
その後、隣接地を埋め立て、石炭からガスを製造する東京ガスの工場が建造されました。埋め立てはさらに続き、その隣に東京電力の「東洋一」と呼ばれた石炭火力発電所が作られました。ともに1956年に操業を開始しています。
東京ガスの豊洲工場(『東京瓦斯70年史』)
豊洲は石炭、鉄鋼、ガス、電力が集まる日本最大のエネルギー地域となりました。豊洲の拡大とともに、専用線も延長されていきます。1953年に越中島—豊洲石炭埠頭(深川線)、1957年に豊洲—晴海埠頭(晴海線)といった具合です。
深川線の線路跡
かつて東京ガスの工場があった場所は、現在、「がすてなーに」というガスの科学館になっていますが、その屋上から、赤さびた鉄道橋「晴海橋梁」が見えます。これが、晴海線の跡です。
晴海橋梁
それにしても、豊洲埠頭はどのように作られたのか。
当たり前ですが、ただ海中に土砂を放出しても、「埋立地」ができるわけではありません。基礎工事などをきちんとしないと、地盤は安定しません。この、海底で巨大な基礎を作る工事を「潜函工法」(ニューマチックケーソン工法)といいます。
この技術が日本で広まったのも、関東大震災がきっかけです。
震災後におこなわれた大規模な復興工事の象徴が、隅田川に架かる橋の架け替えでした。このとき、永代橋、清洲橋、蔵前橋、言問橋の4つの基礎工事でケーソン(潜函=せんかん)が使われました。
もともとニューヨークのブルックリン橋の基礎工事で使われたもので、当時、最新の技術です。
豊洲埋め立ての現場
この工法はケーソンと呼ばれる木製(後に鉄筋コンクリートや鋼鉄製)の巨大な箱を埋め、その中で基礎工事をする技術です。
水に、開口部を下にしたコップを沈めると、なかに空気がたまります。この空気の中で作業すると考えれば、間違いではありません。
豊洲石炭埠頭の工事で使われた木製ケーソン
巨大なケーソンをうまく沈めれば、広い断面のなかで、安定した作業が可能です。従来の杭(くい)を打った基礎工事は水中での作業は不可能ですが、ケーソンなら可能です。また、ケーソンは、工事終了後、地下室など建造物本体として利用することもできます。
しかし、大きな問題がありました。
ケーソン内に地下水や土砂が浸入しないように、高圧の圧縮空気を常に送り込む必要があるのです。
通常、地下10mで作業するには2気圧が必要で、深度が10m増えるごとに1気圧ずつ増やしていかなければなりません。地下30mでは4気圧です。
この高圧下では、作業員は非常に短時間しか働けません。また、潜函病といって、体内の窒素が気泡化して、関節や筋肉の激痛、知覚障害を生じ、ひどければ死亡事故さえ引き起こします。
ダイビングでも、潜水病を防ぐため、海中での急浮上は厳禁とされますが、同じように、ケーソン作業後は、療養閘(再圧室)で体を慣らす必要がありました。
療養閘
厚労省の労働災害事例集によると、およそ2.5気圧下で作業時間240分、減圧時間120分の函内作業に3日間作業したところ、軽度の潜函病になったとあります。これがさらに気圧が高いと、減圧時間はどんどん長くなっていきます。つまり、作業場が深くなればなるほど、作業効率はものすごい勢いで下がっていくのです。
1962年の『週刊労働ニュース』では、毎日、数名の軽い潜函病患者を発生させていた作業現場で、労働者が再圧室で治療中、部屋のガラスが割れ、室内が一瞬のうちに通常の大気圧になったことで、中にいた労働者が死亡する事故も起きています。これほどまで潜函病というのは恐ろしいのです。
潜函病防止のガイダンス
関東大震災の橋梁架替工事で採用された潜函工法は、外国人の指導のもとで実施されていました。これが、1927年(昭和2年)に着工した新潟・万代橋の工事で、初めて日本人技術者だけで行われたとされています。
そして、この万代橋の工事で活躍した技術者たちが、その後、全国各地で同様の工事を手がけ、潜函工法は日本中に広まっていきました。豊洲をはじめとする東京湾の埋め立ては、こうした技術者たちの活躍のおかげです。
潜函工法は、レインボーブリッジやベイブリッジ、東京湾アクアラインなどの大規模工事で採用されています。また、海上だけでなく、地下鉄や水道施設など、陸上でも次々に実施されています。
現在では、窒素吸入量を減らすため、ヘリウムの利用が進んでおり、函内作業も機械化・無人化していますが、危険と隣り合わせなのは変わりません。
豊洲を走る港湾局専用線は、東京オリンピックが開催された1964年をピークに、貨物量が減っていきます。高速道路の整備で、トラック輸送の時代になったからです。こうして、専用線は1989年までに全廃されました。
深川線の橋脚跡
日本のエネルギーを支えてきた豊洲の石炭ガス製造施設は1976年に操業を停止、その後、1988年まで都市ガス供給施設となりました。新東京火力発電所も2000年に停止し、いまでは巨大な変電所となっています。
そして、東京都は東京ガスの土地を買収し、2001年、築地市場の豊洲への移転が正式決定するのです。
豊洲が一部しかない地図(1925年)
豊洲市場