巨大津波の惨状
明治29年の三陸大海嘯
明治29年の三陸大海嘯


 2004年12月、スマトラ沖で大地震が起き、巨大津波が発生しました。米ハーバード大学の調査によれば、地震のエネルギーは阪神大震災の約1600倍だったそうです。

 津波は震源の水深が深ければ深いほど速度が速くなり、水深4000mで時速700km、水深1000mで時速200-300kmにもなるんだとか。震源から8900km離れた南極の昭和基地でも73cmの津波が観測されたことから考えても、異常に巨大な津波でした。

 津波による死者は30万人説も流れ、伝染病などの二次被害を考えれば、観測史上、ダントツの惨事となってしまいました。

 ちなみに過去、死者が1万人を超えた津波は、以下の通りです。

●1771年4月 石垣島近海の地震による津波で1万2000人
●1792年5月 雲仙岳の噴火による津波で1万5000人
●1868年8月 チリ北部を震源とするアリカ地震の津波で2万人以上
●1883年8月 スマトラ島近くのクラカトア火山の噴火による津波で3万6000人
●1896年6月 明治三陸地震で2万2000人

 津波のことを英語でtsunamiというのは有名ですが、まさに日本は津波の被害に悩まされ続けてきました。

 上にあげた以外にも、明応7年(1498)、慶長9年(1605)、慶長16年(1611)の津波では5000人以上の死者が、宝永4年(1707)の津波は2万人以上、安政元年(1854)の津波も1万人以上の犠牲者(ただしいずれも正確な記録なし)といわれています。

 なかでも日本が大きな被害を受けたのは、2万2000人が亡くなった明治29年(1896年)の三陸沖地震によるものです。6月15日午後7時32分、釜石沖を震源とする地震が発生しました。マグニチュードは7.6。およそ30分後に三陸海岸を巨大津波が襲いました。岩手県綾里では波高が38.2mを観測しています。

明治29年の三陸地震による津波
明治29年の三陸地震による津波


 この津波の様子を、当時の新聞はこう書いています。

《海上に異様な響き、たちまち丈余の怒濤
 宮城県志津川町被害の詳報

 宮城県本吉郡志津川町にては、去る15日午後8時過ぎ、海上に轟然として砲発にてもしたらんごとき異様の響き聞こゆると、間もなく汽車の鉄道を軋るがごとき音轟きければ、皆々何事ならんと訝りつつある内、たちまち1丈(約3m)余の怒濤が逆巻きて咆哮し来たる勢いの凄じく、アナヤと驚く間もあらせず芝居小屋は巻き去られ、90余の漁戸は波底に埋没せらるると同時に、建家の倒潰する音、怒濤の激する響きは、老幼男女の悲鳴叫喚せる声に和して、沸くがごとく耳に徹して物凄きなんど云うばかりなかりしが、24、5分も立ちたらんと覚しき頃、潮水ようやく引き去りて、その跡を見れば悲惨の様はまた一入(ひとしお)にて、実に目も当てられざる状況なり。

 屍体のここかしこに三々伍々泥に埋まるあれば、重傷を負い泥に塗(まみ)れて呻吟するもあり。

 郡書記諏訪部勝治氏の住宅などは遠く田甫の中に流されて、その妻は嬰児(みどりご)を抱きたるまま無惨の死を遂げしも、同氏は2人の小供と抱き合うて2階に斃れ居りしが、時経てようやく人心地付きたりと云う。

 かかる有様なれば、満目ただ修羅場と云うの外なかなか筆紙に尽すべくもあらざる惨状なり》(明治29年6月19日 時事新報)

 地元の小学校では、ちょうど祝賀会が行われていて、多くの児童が流されました。

津波
小学校を襲った津波


 海岸には犠牲者が死屍累々と並び、漂流した遺体を地引き網でかき集める事態となりました。 

津波
漂着した犠牲者

津波
地引き網による死体集め


 唐桑村で入浴中だった娘は、風呂桶が浮かび上がったため助かったなんていう話もありますが、三陸沿岸の村はほとんど全滅でした。
 
 三陸では昭和8年3月3日にも釜石沖を震源とする地震が発生(マグニチュード8.3)、死者約3000人という惨事が起きています。

昭和8年の三陸津波

昭和8年の三陸津波
昭和8年の三陸津波

 1960年5月22日には、地球の反対側チリの太平洋沖を震源とする地震が起き、地震発生から22時間後に最大6mの津波が三陸海岸を襲いました。このときも142名が犠牲となっています。

 この地震以降、気象庁は海外で発生した巨大地震に対しても、津波警報・注意報を出すようになったのでした。


制作:2004年12月29日
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