防波堤で波力発電
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波力発電の世界
波浪発電所(『科学の友』1948年4月号)
夕闇近づく海に、緑と赤の航路標識が輝いています。
緑は左げん標識、赤は右げん標識なので、この標識の間を船は向かって右に移動しなければなりません。
緑と赤の航路標識
それにしても、海上に浮かぶこの標識の電源はどうしているのでしょうか。現在では太陽光パネルによる発電が主流ですが、波力発電によって光らせるものもあります。これを発明したのが、後に「波力発電の父」と称される益田善雄氏。「益田式航路標識ブイ」は今も一部で現役です。今回は、この益田氏の業績を中心に、波力発電の歴史を振り返ります。
防波堤発電(『科学の友』1948年4月号)
1997年1月2日、ロシア船籍のタンカー「ナホトカ」号が島根県隠岐島沖で沈没しました。積載していた重油2万キロリットルのうち6200キロリットルが流出し、島根県から秋田県にわたる日本海沿岸に深刻な油汚染をもたらしました。
「ナホトカ」号は老朽化で縦強度が不足しており、船首が折れて沈没しました。しかし、そんな簡単に船は破壊されるものなのでしょうか。実はこのときの波は「サギング」だったことがわかっています。サギングとは、船首と船尾に強い縦の力がかかること、逆に「ホギング」は船体中央に縦の力がかかることです。2013年6月17日、インド洋で商船三井のコンテナ船「MOL COMFORT」が真っ二つに割れたのはホギングの影響だったことがわかっています。
波には恐ろしいほどのパワーがある……だったら波を使って発電できないだろうか、こう考えた人物が益田善雄氏です。
益田氏は、海軍兵学校を卒業し、第二次世界大戦末期には特攻隊の部隊長を務めています。当時の様子をこう振り返っています。
《戦争末期には、日本は多くの特攻兵器を用いたが、そのうち㊃(マルヨン)兵器と秘称された海軍の震洋艇は、量産され、各地に配備された特攻ボートである。速力30ノットの高速で疾走し、米軍の艦船を上陸前に体当り攻撃によって撃沈するため、200キロの炸薬を艇首に装備していた。
私達が乗った五型艇は、震洋艇の中では大きい方で、艇の全長6.5メートル、重量2.4トン、豊田製の自動車エンジン2基による速力32ノット、機銃1挺、ロケット砲2門の兵装をもった2人乗りの艇であった。
この小艇を走らせ、夜の南支那海に出航すると、長いうねりが艇の行手を阻み、黒山のように見える。高速で走る艇は、高波の峯から峯へジャンプする。その瞬間、激しく舟底を波が叩く。ベニヤ製の特攻艇は、波で砕けるのではないかと思ったことがしばしばで、波のエネルギーについて、私は強烈な印象を受けた》(『日本の波力発電』)
戦後、益田氏は、郷里の福岡で農業をしながら波力発電の研究を進め、ついに古賀海岸で日本最初の発電に成功します。1947年2月のことでした。
捕獲された「震洋」(オーストラリア戦争記念館)
波力発電はすでに50とも100とも言われる装置が開発されていますが、大きく分けると3種類しかありません。
(1)波の上下運動で空気を押し出し、タービンを回す「振動水柱型(空気タービン式)」
(2)波で物体を動かし、その運動をピストン運動などに変える「可動物体型」
(3)波でたまった海水を上から下に落として水車を回す「越波型」(通常の水力発電の小型版)
海洋発電には、このほか「海洋の温度差」を利用したもの、「潮の流れ」を利用したものなどがありますが、ここでは触れません。岩手県久慈市には、2016年、「可動する物体」による「久慈波力発電所」が完成しました。その模型を見ると、可動型の仕組みがよくわかると思います。
黄色い部分を動かして発電(久慈波力発電所の模型/国立科学博物館)
いずれにせよ、現状では、波力発電の多くが(1)になります。益田氏も最終的にこの方式を採用しますが、簡単に説明すると、海面にコップを伏せて空気をため、上下する波で空気が押し出された勢いでタービンを回す仕組みです。まだわかりにくいので、益田氏本人による説明を紹介します。
《原理はいたって単純です。海の波をそのままエネルギー源に使うには速度が遅すぎる。そこで波の力で空気を押して、圧縮された空気が吹き出す勢いを利用し発電タービンを回そうというわけです。もともと波というのは風から起こるんですが、その波の力をもう一度風に変えてタービンを回そうという方式です》(『日経ビジネス』1980年2月25日号)
波力発電の仕組み(『科学の友』1948年4月号)
簡単に説明していますが、これはなかなか実現が難しいのです。そのため、波力発電の理論自体は古くからありますが、実現したのはわりと最近です。
世界初の成功事例としてあげられるのが、1910年、フランス人がボルドー海岸の岩場に井戸を掘り、波によって井戸の水面を上下させて住宅に電気を供給したことです。また、1931年頃、モナコ海洋研究所が波力による揚水に成功しますが、これがもっとも知られた事例です。
日本では、内務省の技師だった前出繁吉が有名です。1948年の雑誌『港湾』に「波力発電装置を有する防波堤の考察」という論文を書いています。それを子供向けに紹介した資料が下のイラストです。
防波堤に埋め込んで発電
実はこの防波堤一体型は、2022年、岩手県釜石で初めて実証実験が始まりました。さっそく見に行ってみましたが、遠すぎて陸地からはなかなか見えず……。なお、この発電システムは津波が来ても大丈夫なように設計されているそうです。
釜石の湾口防波堤に設置された波力発電機
拡大するとこんな感じ
さて、益田氏の業績に話を戻します。
前述のように、益田氏は、1947年2月、日本最初の波力発電に成功します。このときは、3つの浮体を連結し、「ホギング」「サギング」の力を直接受け(「く」の字と、逆「く」の字の運動)、その力を発電機の回転運動に変換する仕組みでした。
その後、前後を係留した浮体式、波力で油圧ポンプを動かす方式などに挑戦します。
当時、益田氏は防衛庁の職員でしたが、防衛庁技術研究本部に異動し、ここで空気タービン式の研究を始めます。海上保安庁からも予算をもらい、ついに波力発電ブイの実用化に成功しました。これは1965年以降、海洋機器メーカーの緑星社から発売され、全世界で数千機が設置されました。
波力発電ブイを成功させた益田氏は、つづいて波力発電灯台の実現を目指します。これは、1966年、あしか島(海獺島)灯台でみごと成功するのでした。
あしか島灯台(左は海象観測ステーション)
かつて、科学技術庁の資源調査会は、日本の沿岸では、海岸線1メートルあたり10kWの波力発電が可能だと発表しています。使用可能な日本の海岸線の総延長を5000kmとすると、理論的には5000万kWの発電ができる計算です(原発1機が通常100万kW)。そこで、波力発電の未来は、まず離島での活用が目指されました。
益田氏は、万博事務所から予算をもらい、1970年の大阪万博で離島用の波力発電システムを展示しました。政府4号館の地下1階に、幅2メート ル、長さ40メートルの水槽が設置され、人工波による発電の様子が見学できました。
1973年のオイルショックを受け、世界中でさまざまな新エネルギーの開発が始まります。ここで、益田氏にも波力発電の大規模化の話が持ちこまれ、研究は拡大の一途をたどります。益田氏は直径100メートルの巨大リングブイを組み合わせることで4000kWの実現を目指します。こうなると防衛庁での研究は不可能になり、益田氏は海洋科学技術センター(現在のJAMSTEC)に移ります。そしてこの巨大リングブイの研究が、ついに波力発電船「海明」につながります。
通産省(当時)は、1974年、巨額の予算をかけて、新エネルギー開発「サンシャイン計画」(液化石炭、地熱、太陽熱、水素、海洋温度差発電な ど)をスタートさせます。一方、科学技術庁はこれとは別のプロジェクトとして、波力発電に力を入れます。その象徴が「海明」です。
「海明」(『日本の海洋資源と開発』より)
「海明」は長さ80メートル、幅12メートル、高さ5〜7メートルの船型ブイです。船底には波に向けた空気室を10個備えており、やはり波面の上下によって空気タービンを回転させます。
この世界初の海上実験にはイギリス・アメリカ・カナダなど6カ国が参加し、「IEA(国際エネルギー機関)プロジェクト」にもなりました。山形県鶴岡市の由良沖で発電し、電力を東北電力の送電線に送ることに成功しましたが、結果としては期待はずれでした。「海明」に積み込んだ発電機の電気出力は125kWの能力を持っていたものの、実際は50kW程度しか出ず、年間発電量も20万kW程度と想定外に低かったのです。
成績がいまいちの理由は明確でした。波が上下して空気が弁を動かす仕組みだと、弁の破損が多く、出力が低く、また発電も不安定だったのです。そこで、第2期計画では弁を使わないタンデム・タービン発電機を利用しました。しかし、こちらもそれほどの期待に応えることはできませんでした。
結局、「海明」の実証試験は1978年から1986年まで、その後継船も2002年まで実験を続けましたが、ここでプロジェクトは消滅しました。
鶴岡の固定式波力発電所(『日本の海洋資源と開発』より)
1983年、益田氏は、山形県鶴岡市に沿岸固定式の波力発電システムを構築します。こちらも世界初ですが、タンデム・タービン発電機ならではの利点として、自然の地形に則った固定式の波力発電所をつくることができました。
空気室の高さは海面上5メートル、荒波は直径1.3メートルのタービンを回すことができましたが、やはり実証実験は翌年に終了してしまいます。とはいえ、この実験により、防波堤に設置するアイデアの実現に近づきました。
その後、空気タービン式は「マイティーホエール」(海洋科学技術センター、伊勢で実施)を最後に、可動物体型も「海陽」(日本造船振興財団、西表島で実施)を最後に、波力発電の巨大プロジェクトは影を潜めます。現在も小さな実験は続いていますが、残念ながら当初の大量発電の夢はなかなか実現しそうにありません。
マイティーホエールの発電タービン(国立科学博物館)
制作:2022年10月6日
<おまけ>
英国エジンバラ大学のステファン・ソルター教授も、益田善雄氏と同じく「波力発電の父」と呼ばれるような人物です。ソルター教授は、「ソルターのアヒル」という可動物体型の波力発電機を開発します。波力発電に見切りをつけたあとは、地球温暖化を防ぐ大規模な実験を続けました。たとえば、船上から微粒子状にした海水を空中に放出し、発生した雲で太陽光線を遮る実験もおこなっています。海洋学者って、発想が大胆な人が多いですね。