新潟県中越地震から1年
旧「山古志村」へ行ってみた
至るところで災害復旧中
2005年10月23日、発生から1年たった新潟県中越地震の復興現場へ行ってみました。
中越地震では長岡や小千谷などが大きな被害を受けましたが、土砂ダムで村全体が孤立した「山古志村」の報道が記憶に残っている人も多いのではないでしょうか。
その被災地は今どうなっているのか? 地震発生から1年目の現場を見に行きました。
実は旧山古志村(現長岡市)は現在でも立ち入りが制限されており、復旧工事の車両でも許可証がないと入れません。
ところが今回、一般人に旧山古志村内を歩いてもらって、被災地の現状を知ってもらおうとウォーキングツアーが企画されました。それで1日だけの特別許可が下りたというわけです。参加者は75人でしたが、もちろん外部の人間が旧村内を歩くのは震災後初めて。
旧山古志村役場
さて、バスに揺られて旧山古志村役場に到着。一見まともに見えますが、なんと建物の接続部(左の写真の左側)が離れているではありませんか。つまり、強い揺れでビルが動いてしまったのです。
役場の駐車場はアスファルトが盛り上がって山になってるし、裏手は断崖みたいにえぐられてるし、なかなか強烈。
破壊された車と、屋根だけ残った民家
復旧に尽力した長島忠美・元村長(現衆議院議員)は、
「当初は頑張れ頑張れと被災者に言っていたが、それではダメだと気づいて、途中から『言いたいことは何でも言ってくれ』と言葉を変えるようにした。家から何から全部壊れたけど、ただひとつ、ふるさとへの愛情は壊れなかった」と講演。
被災者からもらった差し入れのビールに涙し、復興が完了するまでそのビールを大事に保存してあるとも言ってました。
(余談ながら避難所では家族の絆も強まり、特に危機的だった奥さんとの仲も元に戻った、と笑わせる場面も。なかなか話術に長けてる人でした)
さて、ウォーキングは、旧役場から3.5キロほど歩いて、まずは虫亀闘牛場を目指します。
ガードレールが根本から外れてる!
崩壊した水道施設と倒れた道路脇のミラー
けっこう歩くと疲れましたが、参加者はみんな予想以上の崩壊ぶりに驚いていました。
ところで、山古志村は闘牛と並んで、鯉の生産で有名でした。この村が「箱庭的」と称されたのは、養殖池があちこちにあり、それが美しい風景を作っていたからです。でも、今ではその多くが枯れています。
村の全景
(左下が水の残った養殖池、右下は枯れている)
歩いて歩いて、ようやく闘牛場へ。ここは11年前に出来たばかりなんですが、もちろん今は闘牛はやっていません。
闘牛場
闘牛場上の神社では、石碑がほとんど倒壊
ふりしきる雨の中、この闘牛場で昼食をとり、また歩いて長岡市の太田小中学校へ。この小中学校も、この日、1年ぶりに生徒が戻り、文化祭を行っていました。
こうして全部で7.2キロのウォーキングが終わりましたが、まだまだ復興には時間がかかりそうです。
中越地震の被災者は、いまなお仮設住宅に2812世帯(9160人)が入居しています。そして、もうすぐ2度目の冬がやってくるのでした。
制作:2005年10月24日
<おまけ>
この日、長岡市ではさまざまな関連イベントが行われました。犠牲者51人への黙祷終了後、信濃川で花火が打ち上げられると、自然と拍手が起こりました。
昼間、時代行列をしてた人たちがさまざまな格好で町を歩いていて、なかなかいい感じの雰囲気でした。
地震発生時間(17時56分)の黙祷と、「ありがとう」のキャンドル
広告