八瀬童子
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天皇の棺を担ぐ「八瀬童子」
600年間の「無税」特権
明治天皇の「葱華輦」
福井県小浜市から京都に向かう道を「若狭街道」(国道27号〜国道367号)といいますが、かつてこの道は「サバ街道」とも呼ばれました。若狭湾で取れたサバは、行商人に担がれ、徒歩で京都に運ばれます。塩でしめたサバは、丸一日たって京都に到着する頃、ちょうどいい塩加減になったと伝えられます。
「サバ街道」のゴール
この道は物流ルートとして古くから使われたため、道沿いにある八瀬の集落では、古くから「かま風呂」が有名でした。いわゆる蒸し風呂で、薪(まき)で焼いた石に塩水をかけ、発生する蒸気で温まりました。今でいうサウナで、明治40年(1907年)ごろまで使われました。伝承によれば、672年の壬申の乱で、背中に矢を受けた大海人皇子(後の天武天皇)がここに風呂を作ったことが始まりだとされます。
「矢(や)」が「背(せ)」に当たったことから、この地を「やせ」と呼んだとも言い伝えられますが、実際は横を流れる高野川に「瀬(流れの速い部分)」が8つも9つも、数多くあるということから「八瀬」になったのではないかと考えられています。
八瀬の「かま風呂」
かま風呂のそばにある険しい山を登れば、「鬼が洞」という洞窟が残されています。
八瀬は比叡山のふもとにありますが、かつて比叡山にいたある坊主は、3歳のころから酒を飲むほどの「うわばみ」で、長じて、最澄から寺を追放されることになります。山を追われた坊主はこの洞窟に隠れますが、そこも追われ、全国の山を転々としたのち、ついに丹波の大江山に移ったとされます。
この大江山に住んだ鬼が「酒呑童子」で、多くの悪行を重ねたことから、990〜995年ごろ、源頼光ら「四天王」によって征伐されることになります。この四天王に含まれる坂田公時が、いわゆる「金太郎」です。
酒呑童子
話がずいぶん飛びましたが、こうした経緯から、八瀬の住民は自分たちが「鬼の子孫」であると公言してきました。ただし、鬼は鬼でも、角のない鬼だといいます。この地に住む人たちは、昔から子供のようなざんばら髪で、前髪を切らず頭の上でまとめる異形の姿から「八瀬童子」と呼ばれるようになります。
驚くことに、この “鬼” たちは、昔から税金を免除されてきました。いったいなぜそんなことがあり得たのか、今回は、比叡山の麓に住む、この不思議な「八瀬童子」の歴史をまとめます。
かつての八瀬の風景
古代日本の皇族であるヤマトタケル(倭建命)が死ぬと、后や子供は御陵を作り、泣きながら脇の水田を這い回り、「山芋のツルが稲にからまって難儀だ」と歌いました。するとヤマトタケルは白鳥に姿を変え、浜に向かって飛んでいきました。遺族は浜まで白鳥を追いかけ、「小さな竹が腰にからまって困る(だから白鳥に追いつけない)」と歌います。
白鳥が続いて海に行くと、遺族は「海藻が腰にからまってたいへんだ」、磯に行くと「岩ばかりで歩きにくい」と歌いました。この4つの歌は、悲しみを国土開拓の苦難に合わせて歌ったのだと思われます。そして、『古事記』には《故今に至るまで、其の歌は天皇の大御葬に歌ふなり》とあり、4つの歌はその後も天皇の死去に際し、必ず歌われる「葬歌」となりました。
これは、近代日本でも同様で、明治天皇、大正天皇、昭和天皇の大喪の礼でも歌われました(「産経新聞」2016年10月6日、元宮内庁和歌御用掛・岡野弘彦氏の証言)。
では、この歌を誰が歌うのか。それは、天皇の霊柩を納めた「葱華輦(そうかれん)」を担ぐ人たちです。それこそが、八瀬童子です。
八瀬童子は、葬儀だけでなく、皇居内でも天皇の移動で駕籠を担ぎました。明治維新後、天皇が京都から東京へ移動した行幸の際も天皇の乗った「鳳輦」を担いでいます。
東京行幸で担がれた「鳳輦」
猪瀬直樹『天皇の影法師』に、八瀬童子・植田増治郎(明治35年生まれ)の証言が残されています。
《なんでも御一新のときには100人ばっかし、八瀬童子がついていったと聞いとる。鳳輦をかつぐためやな。うちのじいさんもそんときにいったんや、ゆうてた。そんうち、10人ばっかしが東京に残ったんや。そりゃ、手が足らんちゅうし。それから交代でな、常時千代田城でお勤めするようになったと聞いとるで》
植田本人は、関東大震災直後の大正12年の年末に東京に呼ばれました。
《八瀬からきていた輿丁(よちょう)は新入りのわしを含めて12名いた。これが6人ずつ交替でもってお駕籠をかつぐ。そう24時間勤務ゆうやつで一昼夜ごとに入れかわる。黒番・赤番という名がついとった。わしは黒番や。お駕籠は昔の殿さんをかついだやつと同じや。うるしが塗ってあるきれいなやっちゃ。前に2人、後に2人、4人でかつぐ。あと2人は交替要員や。全員左肩でかつぐ。なんでか知らん、そういう習慣やから。そりゃお駕籠のなかに入っとるのは天皇陛下にきまっとるやないか。あのな、御車寄せから内苑とおって吹上御苑までいくのもそうやし、賢所へおまいりにいくのもそうや》
つまり、天皇は皇居内でも輿丁に担がれて移動していたわけです。植田によると、輿丁の仕事は大きく分けると3つありました。駕籠をかつぐこと、「お湯」と呼ばれた天皇の入浴のサポート、そして「お厠(おとう)」というトイレの手伝いです。
《「お湯」はお風呂の用意をすることや。陛下がお住まいになられるところは、わしら “おつね御殿” というとった、そこに風呂があった。湯殿は檜づくりやった。取手のある大型の白木の風呂樋(どい)を30個並べる。熱湯を入れたもんが10個、微温湯、ぬるま湯のことや、これも10個、冷水も10個や。10個ずつ3列に揃える。この作業は2人でやった。女官さんが一人ついて、みておった》
そして、天皇の排便後には、鍵を開けて引き出しとなっているトイレを取り出しました。その引き出しを、仕丁(じちょう)が侍医寮まで持っていくのです。
イラストで見る明治天皇の「葱華輦」
八瀬からは、皇室に出仕した住民もいました。梅原猛『京都発見 洛北の夢』には、1943年から5年間、東京の大宮御所で当時の皇太后の身の回 りの世話をした玉置鈴子の証言が記録されています。
《お台所は『中清(ちゅうぎょう)』『大清(おおぎょう)』に分かれていました。『大清』は陛下の、『中清』は私らのお台所です。御膳掛の、中井さまという長老の方から『おまけさん(赤不浄)やおへんどすな』とまず聞かれます。それから、草履や着物の裾をさわった手はいけませんでした。『オツギ(次清)』はいけないと注意されました。とにかく、腰から下は不潔である、というようなお考えがあったのでしょうね》
この証言から、月経時は仕事ができなかったことがわかります。
大正天皇の「葱華輦」
別角度から見た大正天皇の「葱華輦」
さて、では、八瀬の住民は、どうして天皇に仕えるようになったのか。
八瀬の人々は、もともと平安時代、比叡山のふもとに住み、延暦寺の雑役に従事していました。1336年、都を追われた後醍醐天皇が、足利尊氏の軍勢を避けて比叡山に向かった際、八瀬童子らが護衛し、輿をかついで登りました。その功により、後醍醐天皇から諸役免除の特権が与えられました。現地には、後醍醐天皇が出した「綸旨」(りんじ)が残されており、そこに「八瀬童子等年貢以下候事課役一向所被免除也(年貢・課役を免除する)」と書かれています。
そして、年貢などの免除は歴代天皇も踏襲し、明治天皇のものまで、計25通の綸旨が残されました。さらに、織田信長の直筆文書もあり、そこには「八瀬で自分の軍勢が狼藉しない」と約束したうえ、有名な「天下布武」の朱印が押してあるそうです。
こうして、八瀬では、1945年の終戦まで600年も免税特権が続くことになります。
古文書が残された蔵
実は、八瀬には、長い歴史のなかで、2回の大きな危機がありました。
ふだん、八瀬の住民は、比叡山に自由に出入りし、木を伐り、獣や魚を捕る権利がありました。その柴や薪、餅、漬物などを頭にのせ、都へ売りに出て生活を支えました。それを、隣の大原では「大原女」、八瀬では「小原女」と呼んでいます。
大原女、小原女(『八瀬大原の栞』より)
江戸中期の1707年、延暦寺は突然、山への出入りを禁止します。これでは生活ができません。八瀬の人たちは、薪を納入していた近衛家や、視察に来た老中・秋元喬知などに直訴するなど、あらゆる手段を使って撤廃を申し出ますが、なかなかうまくいきません。しかし、将軍・綱吉が死んで家宣が将軍になると、夫人が近衛家出身だったこともあり、ようやく撤廃されました。
八瀬では、近衛家と秋元喬知のおかげだとして、地元には「八瀬近衛町」「八瀬秋元町」の地名が残っています。また、八瀬天満宮社には、秋元喬知をまつった「秋元神社」があり、ここで免税に感謝する「赦免地踊」がいまでも奉納されます。
女装した少年が燈籠を頭に載せて歩く赦免地踊
もう一つの危機は、明治になって、租税制度が変わったことです。当然のことながら、八瀬の人々は陳情を重ねたはずですが、全国一律の制度の例外を作ることは困難です。そこで、皇室から1285円の御下賜金が与えられ、それを運用して納税することになりました。
しかし、これは一時金であり、運用状況は年ごとに厳しくなりました。そこで、いったん下賜金に加え、八瀬童子の地券をまとめて宮内省に提出。そのかわり、地租ぶんの全額を毎年下賜されることになりました。八瀬の税金免除は、事実上、廃止されず、温存されることになりました。
こうした恩義に応えるべく、八瀬の人たちは自発的に皇室への労働奉仕をすることになりました。それが、徐々に駕輿丁(かよちょう)として、天皇を担ぐ業務につながったのです。
八瀬の童子は、明治維新後、明治天皇が1868年と1869年の2度、東京へ赴いた行幸で輿を担ぎました。また、明治天皇、大正天皇が崩御した際は、上京して棺(ひつぎ)を担いでいます。前述したとおり、皇居内の移動でも天皇を担いでいます。ちなみに、明治天皇の大喪の際は下賜金が3388円与えられ、そこから必要経費と輿丁分配分1720円ほどを引いた残金370円ほどが、納税用の積立に回されました(宇野日出生『八瀬童子』による)。
八瀬天満宮社から見える比叡山(向かって左の山。右が「鬼が洞」がある瓢箪崩山)
しかし、昭和天皇の大喪の礼では、車が使われたことで、「葱華輦」を担ぐことはありませんでした。棺を車から輿に移す作業は手伝いましたが、実際の担ぎ手は皇宮警察でした。
現在では、皇室とのつながりはほとんどなくなっていますが、今でも天皇や皇后の誕生日には祝電を打ち、京都訪問の際は御所での出迎えと見送りは欠かしません。また、実は今も宮内庁から年額5000円の下賜金があるといわれています。
八瀬にある妙伝寺では、今も住民が毎月28日に集まり、「念仏講」という法要をおこないます。法要では、後醍醐天皇、明治天皇、大正天皇、昭和天皇、徳川家宣、秋元喬知など17人の名前が読み上げられ、一心に念仏を唱えるのだそうです。
秋元神社
制作:2023年10月17日
<おまけ>
八瀬は、比叡山登頂の最短コースとなる登山口で、1925年には叡山ケーブルが完成しました。あわせて、この地に一大レジャーランドを作る構想が生まれました。
『八瀬大原の栞』(1925年)には、こう書かれています。
《京都電燈会社またここに大遊園地を設け、着々その完成に近づきつつあり。園内高野川の清流、貫流して清きこと掬(きく)すべく。池あり、岩あり、樹木あり旗亭(=料理店)その間を点綴す。園またうしろに山を負い、飛瀑かかりて素絹を垂れたるが如く、緑の山の間に稲荷の赤き鳥居、隠見し、さながら一幅の好画図たり。
夜に入れば遊園地は電燈の海と化し、イルミネーションは数里の外より望むを得べく、四季の好散策地たるを思わしむ。大釣橋、テニスコートおよび各種の運動具完備し、近く、大プールの設けられんとす、果樹園また計画さる》
しかし、このレジャーランド計画はうまく行かず、いま、八瀬の土地は、マンションが立ち並ぶ普通の住宅地になっているのでした。
八瀬の観光マップ