与那国島「人頭税」の地獄
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与那国島「人頭税」300年の地獄
幻の象形文字と知られざる巨石文化
日本最西端の地
かつて与那国島には、男女あわせ100人ほどしか住んでいませんでした。文字はないものの、樹の実やカズラの根っこ、あるいは海岸で魚をとって食べる、地上の極楽のような生活を送っていました。
1477年、朝鮮・済州島の漁民が漂着し、6カ月後に帰国するまでの記録が『成宗実録』に残されています。土を掘るような棒はありましたが、まだまともな鉄器は入ってきていません。ところが、それからわずか20数年後の西暦1500年、琉球王府の命を受けた宮古島の首長が、船団に乗って上陸してきます。これをサンアイ・イソバという女性酋長が撃退しました。
この20年ほどで酋長が生まれたということは、この間にスキやクワといった鉄器が流入し、生産が上がり、人口も増えた結果です。そのため、かつてこの島を訪れた司馬遼太郎は、《酋長サンアイ・イソバは、鉄器時代の到来を象徴する存在》(『街道をゆく』)と指摘しています。
与那原遺跡で発見された製鉄の証拠となる「ふいご」の羽口(DiDi与那国交流館)
与那国島は、鉄器の導入とともに豊かになり、侵略者を迎えるまでになりました。もちろん110kmしか離れていない台湾からも海賊がやってきましたが、大きな侵略者はやはり琉球王朝と、その上に立つ日本でした。
1609年、薩摩藩は琉球国に侵略し、1611年、敗残国となった琉球に八重山諸島の年貢の取り立てを命じます。徴税は過酷でしたが、1637年からさらに過酷な「人頭税」が導入されました。かつての楽園は、こうして地獄のような島になりました。司馬遼太郎は《人間を十把ひとからげに働く家畜として扱うという政治思想が、この島を300年ものあいだ支配し続けた》と指摘しています。
与那国島でいったい何が起きたのか――。今回は、与那国島の人頭税についてまとめます。
サンアイ・イソバが住んでいたというティンダバナ
探検家の笹森儀助は、1893年(明治26年)8月1日、はじめて与那国島に着いたとき、島の少女たちから盛大な歓迎をされました。
《午後8時、与那国湾に碇泊す。港湾記すべきものなし。
午後10時、漸(ようや)く上陸す。上陸には烟火出迎う。与那国の名産美少婦数十人、魚貫して来る地方習慣なり》(『南島探験』)
なんと数十人もの美女たちが「魚貫して」(魚をつらねたように列をなして)出迎えてくれたのです。笹森は長旅によって「目が痩せた」、つまりどんな女性もきれいに見えたと冗談を語りつつ、島の女性は《色白く懇切多情》だと称賛しています。
笹森は、政府の依頼で琉球や八重山の調査をしていたこともあり、『南島探験』にはこの島の詳細な記録が残されています。
当時の与那国は、1884年に診療所開設、1885年に小学校開校、1888年に警察署設置など、近代的な制度が入りこみ始めていました。しかし、1890年には経費削減のため病院が閉鎖されるなど、扱いは低いものでした。
八重山と宮古島の女性の入れ墨(『日本地理風俗体系』)
特に住民を苦しめたのが「人頭税」でした。人頭税は、薩摩藩支配下の琉球で、1637年から先島諸島(宮古・八重山)に敷かれた税制で、15歳から50歳までの男女に過酷な税金が課されました。あまりの重税で人口減が起き、納税額が減ってしまったことで、1659年にはさらに過酷な「定額人頭税」となります。
これは、住民1人1人の定率を廃止し、八重山全体で一定の税額を定め、それを住民に割り当てる仕組みです。これにより、一定の税収を確保できました。導入にあたり、住民には「人口が増加したら税の負担は減少する」と説得し、人口増を図りましたが、結果的に納税が楽になることもなく、役人のカモにされただけでした。
定額人頭税は、本税は男が米、女が布でしたが、付加税として土木税と賦役がありました。与那国島から土木税として納付したのは、黒縄、牛皮、馬の油、きくらげ、胡椒、綿花、菜種、酒、煙草、チョ麻、魚貝などです。賦役は月に5日だとされましたが、実際には月の半分も酷使されたとされます。
同じ背の高さになると課税されたという、宮古島の人頭税石(ぶばかりいし)
笹森は、島に到着した2日後(8月3日)、島の総代に話を聞いています。そのなかで「17歳の妾」の話が記されています。これは「賄(まかない)女」と呼ばれる役人の現地妻で、妾になれば人頭税が減免されたとされます。もちろん、すでに「賄女」の禁止令は出ていますが、この島では空文のまま、なおも続いていました。
さらに、この島には人頭税をめぐり、残酷な伝説が残されています。それが、「トゥング・ダ」と「クブラ・バリ」です。
「トゥング・ダ」は「人桝田(一升田)」と書きますが、今では廃村となった島仲部落の外縁(現在は山の中)にある一町歩ほどの天水田です。その昔、村々から15歳から50歳までの男子を非常召集し、間に合わかなった者(とくに障害者)を殺したと伝えられています。与那国では、障害者にも納税の義務が負わされていたので、こうした人減らしが必須だったのです。
人桝田を望む
「クブラ・バリ」は久部良集落の東にある岩石の割れ目で、全長約15m、幅約3m、深さ約7mとかなり長い断層です。その昔、ここに村々の妊婦を集め、割れ目をジャンプさせたといいます。体の弱い妊婦は必死に飛んでも渡りきれず、奈落の底に転落して亡くなりました。もちろん、無事に飛べた妊婦にしても、心身の疲労は流産の原因となりました。これも人頭税による過酷な現実です。
クブラ・バリ
当初、定額人頭税の導入には「人口が増えたら税の負担は減少する」との誘い文句がありましたが、現実にはこの島に増えた人口を支えるだけの豊かさはありませんでした。当時の農民は必死になって水田を開拓しましたが、いくら水田が増えても税額に達する収穫は容易ではなく、またいったん台風が来れば水田は荒れ、結局、耕作地の放棄につながりました。農民たちの絶望が伺えます。
笹森は人頭税への批判を強め、1903年(明治36年)、ようやく第8回帝国議会で人頭税が廃止されました。廃止当時29歳だった崎原タマさんが、1964年、人頭税時代の苦しさについて証言しています。
《男は米、粟作り、女はご用布織りに昼も夜もなかったこと。これらの上納品が少しでも出来が悪いと番所できびしい責め苦にあったこと。野菜のかわりにタンポポやツワブキなどの野草を食べていたこと。貢租物を運ぶ御物船の到来が遅れると数千の俵を解いて干しなおしをさせられたこと。年貢米は定められた額の以外に運搬中にこぼれる減量分を見積もって余分に負担があり、番所に詰めている与人(ゆんちゅ)や目差などの役人の賄い分も出すので一層苦しかったこと》(原文は『新南島風土記』/米城惠『よみがえるドゥナン』より孫引き)
また、「賄女」については、《役人の現地妻であるマカナイ女は、貢布免除の特権があったが、喜んでこれになる者はいなかった》としています。
旧・島仲部落の拝所ツイヌトゥニ
笹森は、与那国の文化風俗についても詳細に記録していますが、もっとも衝撃的なのが、謎の象形文字の存在です。
《与那国島に結縄の外に符号の象形文字あり。下等人民は結縄のみを以て通用し、上等社会は今に象形符号を用いるを見たり》
結縄(バラ・ザン)は、藁(わら)に葉っぱなどを結び、物品や数量を表示したものです。まだ文字のなかった時代、島民が収穫や交換のために使いはじめ、後には納税の算定に使われました。それが進化したものが「カイダ・ディ(字)」で、象形文字で事物をかたどり、その品名や数を指示したものです。このバラ・ザンとカイダ・ディは、1885年に小学校令が出されるまで使われていました。
与那国の基本文献は、ほぼ池間栄三『与那国の歴史』の1冊だけですが、そこにはこう書かれています。
《1477年の朝鮮漂流民の記録に、 文字を解せない、又は文字はないと記してあるのから推して、 バラ・ザンのみが上古の遺態であって、 カイダ・ディは中山の支配下に置かれて後に、 貢納物や取引のために案出されたものと思われる。
『八重山歴史』によると、 往時は徴税令書として、納税額を記入した板札(イタフダ)と言う板切れを用いたようである。 この板札について、1814年の記録である『御手形写』と言う写本によると、 百姓より税を取り立てる際に、 役人の不正行為を防ぐために、大浜親雲上正喜と言う役人が、 完全な象形文字を創作して、 板札制度をととのえたとある》
この象形文字もまた、徴税のために作られたことがわかります。
カイダ・ディ(『南島探験』より)
こうした酷税に悩み、与那国では「南方に楽園がある」という伝説が広まることになりました。それが「ハイドゥナン」で、与那国島の南方に(実在しない)楽園「南与那国島」があるとされたのです。与那国方言で「ハイ」は南を意味し、「ドゥナン」は「渡難」という、与那国島の別称です。実際、島から抜け出した人たちの伝承も残されています。
冬になると、与那国島には、越冬のため東南アジアなどに渡る野鳥「サシバ」の一部が島の上を飛びます。その野鳥の声を聞くと、島の老人たちは不思議なことをおこないました。初代・与那国町長である浦崎栄昇の証言です。
《それ(注:渡り鳥の声)を耳にした島の年寄りたちはヒディ(消し炭)を庭に出し、松明をともして振り、こっちは島の上空だということをサシバに知らせる。なぜ、そんなことをするの、と聞くわたしに、年寄りたちは、サシバはご先祖の洗骨のためにハイドゥナンへ行く、その道先案内をするんだよと、と答えたものです》(『よみがえるドゥナン』)
つまり、サシバが南へ向かうのは、ハイドゥナンでしめやかに「洗骨」をおこなうためです。
では、洗骨とはなにか。これは風葬や土葬した遺骨を、数年後に酒などで洗い清め、墓に埋葬する風習のことで、与那国では
「フチギライ」の名で死後3年後におこなう習わしでした。
墓については、カネや社会的地位のある者は石を積み上げ、天上壁と入口の戸型に1枚の平石を使用して、前方後円型の墓を造りました。一方、普通の庶民は土に埋め、上から土を盛って土饅頭型の墓を造りました。さらに岩窟に死体を入れ、その入口を石と土で密封して墓にしたものもありました。後には、岩窟利用のほうが一般化し、岩壁に横穴を開け、上面を亀甲型にした墓が広まりました。
与那国島の墓地(『南島探験』より)
岩壁を掘るのは、この島の岩が、加工しやすい砂岩・泥岩からなる場所が多いからです。そのため、この島には古くから岩石加工技術がありました。実際、下の墓の写真を見ても、両サイドに階段状の加工がなされています。しかし、人間が昇るには段差が大きいようです。では、いったい、この加工はなんのためだったのか。
司馬遼太郎は、海辺につくられた与那国の墓について
《与那国島では、幽明の界(さかい)がなく、死者もまたこの地上とおなじ明るさの、あるいは地上以上にあかるいこのような海風の吹きわたる台上で暮らすのである。さらには、琉球の神々は天(あま)から天降るよりも海(あま)からくるという信仰があるために墓地もこのような場所が選ばれるのであろう》(『街道をゆく』)
とし、中国福建省あたりから入ってきた文化で、江戸時代に普及したのではないかと指摘しています。それ以前は風葬でした。ということは、与那国の墓は人頭税とともにあったと言っても過言ではなく、だとすると「魂がここではないどこかに逃げ出せる」意味あいをもたせた可能性が出てきます。ならば、墓につけられた段は「魂が天に昇るため」と解せそうです。
現在の与那国島の墓地
一方で、神が海から来るのなら「海から来る神に自分の墓を知らせる」ため、沖から目立つように造形された可能性も出てきます。「ハイドゥナン」で洗骨された魂が島に戻るときの目印にもなったでしょう。実際のところ、石段の理由は定かではありませんが、この島の住民が、常に海のはるか先を意識していたのは間違いなさそうです。
本サイトの管理人は、初めての与那国島で「巨石ツアー」に参加したのですが、そこで面白いものを教えてもらいました。断崖絶壁にある「亀」と思しき巨石で、その背中には、与那国島らしき地形が彫り込まれています。与那国島が、亀の背に乗ってはるか南を目指す――もしこれが本当に人工物なら、虐げられた人たちの切なる思いが、この亀に投影されているのかもしれません。
亀と思しき石
制作:2025年1月28日
<おまけ>
与那国島といえば、琉球石灰岩に掘られた海底遺跡が有名です。東西250メートル、南北150メートル、高さ25メートルほどで、階段やテラスのように見える切り込みも多数あり、人間が作った巨石建造物ではないかと言われています。1986年に発見され、神殿説、城壁説、水中墓説、石切り場説など諸説紛々となりましたが、仮に人工物であれば、いったい誰がいつ作ったのか。
いまから2万年以上前、沖縄本島に「港川人」と呼ばれる人たちが暮らしていたことが化石から判明しています。また、港川人が消えたあと、南から「丸ノミ」を使う人たちが来たという説もあり、こうした人たちが海底遺跡を作った可能性がありますす。
そして、1万数千年前には「ヤンガードリアス期」という寒冷期があり、このときは沖縄の海水面が40メートルも下がったとされます。その後、地球の温暖化で遺跡が海底に沈んだことは十分ありえそうです(木村政昭『沖縄海底遺跡の謎』ほかによる)。詳細は不明ですが、与那国の巨石文化の奥深さを感じさせるのは間違いありません。
海底遺跡