2035年「土星で絹糸づくり」幻の未来
90年前の「養蚕」未来予測

未来の養蚕
未来の養蚕


 かつて半農半漁の小さな漁村だった横浜は、1859年(安政6年)に開港すると、たちまち外国商人が集まり、一気に繁栄することになりました。

 外国商人が集まった最大の理由は、安価で良質な日本産の生糸がここで手に入ったからです。当時、ヨーロッパでは蚕の伝染病「微粒子病」が大流行し、生糸の生産量が激減。最大の輸出国だった中国(清)はアヘン戦争後、太平天国の乱などが起きており、輸出どころではありませんでした。

 そうしたなか、脚光を浴びたのが日本です。居留地には商社・銀行・ホテルなどの建物が並び、「売込商」と呼ばれた日本人商人が生糸を中心に大量の物産を販売しました。

 1872年(明治5年)には、群馬県に官営・富岡製糸場ができ、関東一円から横浜に絹が運びこまれました。生糸は外貨を獲得する大産業となり、日本の発展を支えていきます。まさに「貿易立国」日本の誕生で、もし絹糸の輸出が振るわなければ、日本の近代化が遅れた可能性も高いのです。

旧横浜生糸検査所(現在の横浜第2合同庁舎)
旧横浜生糸検査所(現在の横浜第2合同庁舎)


 日本は、1909年(明治42年)、中国を抜いて世界一の生糸輸出国となり、「ジャパンシルク」は世界を席巻。
 横浜港で言えば、生糸は1860年から1941年まで輸出額で首位だったと記録されています。

 1923年(大正12年)、横浜は関東大震災で大打撃を受けますが、生糸輸出が再開するとすぐに復活。1929年(昭和4年)に輸出量はピークを迎えるのでした。

 養蚕農家がこの世の春を謳歌していた1935年、雑誌『蠶絲(蚕糸)の光』(1935年1月号)に「100年後の蚕糸業」という未来予測が掲載されました。今回は、そんなマニアックな未来予測を掲載しておきます。

かつての養蚕技術は博物館へ
かつての養蚕技術は博物館へ


【はつゆめ100年後の蚕糸業】

 100年後は日本の蚕糸業が亡(ほろ)びているのである。というと、「そんな馬鹿なことがあるか!」とどなられ、「そんな消極論者はブンなぐってしまえ!」と叱るかもしれない。さりながら、それは早合点というものである。新年早々あわててはいけません。スピード時代だからって、そう急に勝手な解釈をしてにらむのは、せっかくの屠蘇を無駄に使用するものである。まずゆるゆるとわけをお聞きめされ。

 現在においてすら、世界の蚕糸業はイタリア・フランス・シナの蚕糸業ではない。実にわが大日本の蚕糸業なのである。

 ゆえに、日本蚕糸業の亡びるときは、すなわち世界蚕糸業の亡びるときなのである。日本蚕糸業の亡びるゆえん? もちろん科学のきわまりなき発達によるとはいえ、そこらあたりにころがっている人造絹糸によるなどの俗論とは仕入れがちがうんですぞ。

桑を食べる蚕(カイコ)
桑を食べる蚕(カイコ)


 躍進日本は、よどみなく発展し伸張していき、世界に覇を唱えている。すべての政治機構、産業機構、教育衛生はさらなり、美術文芸、武道・剣道そのほか百般の機構は駸々乎(しんしんこ=早く)として小止(こや)みなき進歩、改良、変遷を試み、仁丹1粒ほどの栄養的食糧が1日の糧(かて)として用いられ、「腰弁」(注:弁当を持ち運ぶこと)の2字は遠き昔の話となり、わが日本には桑園も蚕室も、蚕種家も、製糸家もなくなってしまう。

 かの蚕業取締所とか、繭検定所とか、特約取引(注:蚕種を配布し、生産された繭を製糸業者が全量買い上げる仕組み)とか、わずらわしき数々の言葉は「百科辞典」にすら見出されなくなって、わずかに「古語辞典」にその片鱗を示し、「緋縅の鎧(ひおどしのよろい)」とともに多条繰糸機が博物館の一隅に並び、楠木正成の名とともに全国養蚕業組合連合会長の名が遠き昔を憶い起こさせるのみである。

多条繰糸機(岡谷蚕糸博物館)
多条繰糸機(岡谷蚕糸博物館)


 日本の蚕糸業が亡びた今日、そこにわれらは何を見出すのであるか? 霊峰富士の山頂に幾百呎(フィート)の高塔が聳えている、それは「宇宙蚕糸管理局」の尖塔である。塔の尖端からは常に強力なある種の光線が放射されている。塔の内部には20世紀の人々のいまだ見たことも想像したこともないさまざまの機械が装置されている。

富士山頂の「宇宙蚕糸管理局」
富士山頂の「宇宙蚕糸管理局」


 絶頂にはロボットが何か仕事をしているのが反射鏡に写っている。1つ1つに翼をそなえてまわりを飛び回ってるのもある。

「オーイ、火星の蚕室が補温装置に故障を生じて火事だと言ってきたよ」
「それじゃ月世界から氷山を運んでいって消せ」

繭を乾燥させる乾繭機(碓氷製糸)
繭を乾燥させる乾繭機(碓氷製糸)


 所長が1人の弟子を呼びだした。

「君は天王星の蚕種製造の模様を監督したまえ」
「かしこりました、制空機の切符をください」

 向こうから1人出てくる。

「所長殿、水星の製糸主任から電話です」
「テレビジョンで見たがね、糸状斑の状態がよくなかったよ」
「あ、それから君、第1号ロボットを織女星へ送ってXYZ線による絹織物の検査をさせてくれたまえ。牽牛星とあうのは来年の夏だから、今から真面目に働かないと暇はやらないと伝えにゃいかん」

養蚕で土星も監視中
土星も監視中


 嘘だと思うなら、ひとつ御案内を申し上げよう。ここは土星である。もっとも、ここにも桑園というものがなくなって、土地から桑を作るのではない。土の精から桑の精を作っている肥効100%の肥料はすべて人工でタンクにつめてあること、人間のオナラに等しい。


 養蚕は金星の受け持ちだ。宵の明星から暁の明星までの間に一齢間がすぎる。超短波による蚕病の予防駆除、否、栄養促進のおかげで、昔のように「鞭声粛粛(べんせいしゅくしゅく)夜河をわたって」(注:頼山陽の詩句)、斃蚕(=死んだ蚕)を捨てる悲劇もなくなっている。

 通風換気による「上蔟」(じょうぞく=繭を作る蚕を集めること)の改良は、スイッチひとつひねれば、室の窓が開いて暖かく乾燥した空気がオゾンを含んで蚕架の周囲をめぐっていく。

ボール紙で作った「蔟(まぶし)」に集めるのが「上蔟」
ボール紙で作った「蔟(まぶし)」に集めるのが「上蔟」

蚕が上に登る性質を利用して「蔟」を回転させることで繭が均一に集まる(富岡製糸場)
蚕が上に登る性質を利用し、蔟を回転させることで繭が均一に集まる(富岡製糸場)


 まだ驚くにはあたらぬ。

 製糸はもはや1個の繭から1本の糸縷(しる=糸筋)を引き出す仕事ではない。化学的の再生絹糸に変わっている。したがって、糸質本位は糸質物本位になって、繭は大きく重くなって、繭層歩合は80〜90%(注:通常は25%ほど)。

 もちろん、絹は昔のような絹でなく、一種の光沢繊維(フィラメント)として、より細く、より輝き、より柔らかに進化した。宇宙の最高最美の織物はすべてこの糸からできる。

 むかしむかし、その昔、ヨーロッパの童話に最上の絹を織らせて身にまとった王様が庶民の眼には裸としか受け取れなかったというのがあったが、それが100年後の今日、実現されたのだから嬉しい。
 
 そんなデタラメを、という人があるかもしれないから、証拠物件をひとつお目にかけよう。そら、そこへ行く新しい晴れ着を着た彼女のあとからついていく男の顔つきをソッと横のほうからのぞいてみたまえ。(注:まるで裸に見えるから)テへ(と苦笑い)。

進化した絹糸でまるで裸に見える服
まるで裸に見える女性たち


(ここまで)

 養蚕農家は、最盛期の1929年(昭和4年)には約221万戸ありましたが、2023年はわずか146戸にまで減っています。
 未来予測にもある「人造絹糸(化学繊維)」が普及し、安い中国製の生糸が市場を押さえたことで、生糸の輸出量は下降の一途をたどります。1974年を最後に輸出も途絶え、いまでは日本製の生糸はほぼ絶滅状態となってしまいました。

「100年後は日本の蚕糸業が亡びている」――不穏な予測は、残念がら的中してしまったのです。


制作:2025年1月1日


<おまけ>

 現存する「横浜第2合同庁舎」は、かつての「横浜生糸検査所」です。そのため、正面玄関上部に掲げられている紋章は、カイコの成虫と菊と桑の葉をあしらった「カイコ蛾」をデザインしたものとなっています。生糸で繁栄した横浜の記憶を、今に伝えているのです。

カイコ蛾の紋章
カイコ蛾の紋章
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