銭屋五兵衛・幻のタスマニア領有宣言

金沢
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 明治24年(1891)5月3日、読売新聞に信じられない記事が載りました。

 オーストラリアのタスマニアへ興行に出かけていた日本人の軽業師が、現地で日本語の書かれた石碑を発見。その石碑には、「かしうぜにやごへいりようち」の13字が書いてありました。

 この文字を漢字に直せば、「加州銭屋五兵衛領地」。江戸時代に加賀藩(加州)の金沢で活躍した豪商・銭屋五兵衛が、タスマニアを領有していたというのです。その面積は、なんと島の3分の1に及びました。

 もはや金沢の人間でなければ知らないでしょうが、明治から大正時代にかけて、銭屋五兵衛の名前はかなり有名でした。「銭五」と称され、いくつもの戯曲や小説が書かれたのです。2005年夏には鳥羽一郎が『銭五の海』というCDを発売しているほどで(←本当です)、いつか再びブレークするかもしれません。

 というわけで、今回は世界の海を股にかけた大富豪の物語です。

銭屋五兵衛
これが銭屋五兵衛


 安永2年(1773)、加賀国宮腰(みやのこし)で生まれた五兵衛は、家を継いで質屋、呉服屋を営んでいました。

 文化8年(1811)、船を買って海運業に転じたところから、一気に人生が開けます。当時、日本海の海運は「北前船」(きたまえぶね)が担っていました。北海道から瀬戸内海を回って大阪までを、大輸送船団が結んでいたのです。

 銭屋五兵衛は、北前船の中心地・金沢で、材木からニシン、米・塩・木綿などさまざまな物資を運んで、大儲けしたわけです。

 このころ加賀藩は財政が逼迫しており、藩は五兵衛から多額の借金を重ねます。今の日本と一緒で、ふくれあがる借金に改革(天保改革)をしますが、案の定、うまくいきません。

 で、起死回生の一手として、やむなく海運業を藩で行うことになりました。もちろん「士農工商」の時代なので、これは屈辱的なことでしたが、背に腹は代えられません。

 このとき、五兵衛の3つの船が藩に買い上げられ、経営を委託されます(御手船裁許)。こうして藩の改革に協力することで、五兵衛は一代で財をなしたのでした。伝説によれば、全国に支店34カ所、持船は約200隻を数えたともいいます。

銭屋五兵衛
銭五の遺品


 加賀藩の認可のもとで日本中の海を駆けめぐった五兵衛は、国内だけでなく外国との密貿易まで手を出していたとされます。こちらも大半は伝説のようですが、その伝説がすごいのです。

 冒頭で触れたタスマニア領有だけでなく、

●サンフランシスコの豪商と貿易
●竹島(現在の鬱陵島)でアメリカ人と密貿易
●口之永良部島でイギリス人と砂糖の売買
●択捉島でロシア人と交易
●樺太の山丹人とも取引……


 といった具合です。こういった密貿易説は『銭屋五兵衛と北前船の時代』という本によれば、いずれも根拠は薄いようですが、タスマニア領有説も単なる伝説なんでしょうか?

 ところが、実はこれはかなり確実な話なんです。まずは当時の新聞記事を引用しておきましょう。

《100年前大胆敢為、密かに海外貿易を営み、事顕われて刑せられたる加賀の豪商銭屋五兵衛は、ただ日本近海にて貿易せしものと思いしに、なんぞ図らん、遠く濠洲の領地を有せんとは。

 濠洲の南部タスマニヤに数個の石碑あり。蒼苔(そうたい)深く鎖(とざ)して文字さえ読み難かりしが、今を去ること5、6年前、吾が軽業師かの地に至り、フトこの石碑を認め、手もてその苔を剥ぎ去れば、下より「かしうぜにやごへいりようち」の13字露われたり。さては加州銭屋五兵衛の領地にてありしやと、いずれも一驚を喫しぬ。

 しかるにこの事英人の耳に入りしに、英人は直ちにことごとくその碑石を撤去せしめたりと云う。今その碑石を以って境界となすときは、その領地ほとんどタスマニヤ3分の1に亘(わた)れりと》

 
 この石碑の真贋について調査した『幻の石碑』によれば、タスマニアに渡った軽業師のことは、現地の複数の新聞で確認がとれたそうです。しかも石碑発見の日時を、明治20年(1887)1月12日と特定しています。

 石碑を運び去ったのは、当時タスマニア最大のキャンベル陶器会社の社長だそうですが、もし彼が石碑を持ち運ぶ前に日本政府が領有宣言していれば、タスマニアは日本のものだったかもしれない……と思うと、ちょっと惜しいです。


 さて、このように世界の海を旅した(とされる)五兵衛ですが、嘉永5年(1852)を境に、一挙にその地位から転落します。一族郎党、全員が投獄されてしまうのです。それはなぜか?

 当時、藩は増税策の一環として、新田開発に乗り出していました。そこで藩に協力すべく、五兵衛は金沢にあった河北潟の埋立に着手します。当然、漁場を失う漁民たちはこぞって反対、しかも、五兵衛は地元民を労役に使わず、能登の専門家集団を雇用したのです。

 五兵衛と地元民の対立が激化するなかで、嘉永5年、潟内で大量の魚が死ぬという事件が起きました。しかも、この魚を食べて中毒死する人間まで出たのです。この一件はいつのまにか五兵衛らによる流毒が原因とされ、かくて一族全員が捕らえられたのでした。

 現在でも流毒の確証はありませんが、地元民の反発だけでなく、国禁である外国との密貿易疑惑、材木買い占め疑惑など、さまざまな容疑があったためとも、また藩の敵対勢力による陰謀ともいわれています。

 結局、五兵衛は9月11日に逮捕され、11月21日に牢の中で病死します。主犯格とされた五兵衛の3男・要蔵は磔(はりつけ)となるなど、この事件で一族郎党はほぼ全員が有罪とされ、海運業「銭五」は壊滅したのでした。

銭屋五兵衛
銭五の墓(金石本龍寺)

銭五
要蔵らが磔になった松


 冒頭で触れた読売新聞は、なぜ五兵衛の名前を記した石碑がタスマニアにあったのか、記事の最後をこう結んでいます。

《想うに、香港等にありし五兵衛の一族が、五兵衛の刑に処せられたるを聞き、本国に帰らずして、直ちにこの地に赴きしならんか》

 帰国すれば連座する可能性もあり、やむなく香港あたりからタスマニアに渡航したのではないか? というわけです。前述『幻の石碑』は、五兵衛の土地購入説をとっていますが、もはや真実は遠い時間の奥で、ひっそりと眠るばかりなのでした。

制作:2005年10月15日

<おまけ>

 余談ながら、明治になって開国すると、五兵衛は海外貿易の先駆者として再評価されるようになります。今回の白黒写真は、銭五の分家筋が明治36年に催した「銭五50回忌」記念絵はがきから転載しています。そこには、

《海国の本領は日に月に発揮し、通商貿易振興に伴い、埋れ果てし五兵衛の名もいつしか世に出でて、先覚者の数えらるるに至りし事、かえすがえすも子孫の面目此上やあるべきとこそうれしけれ》
 
 とあります。時代がようやく五兵衛に追いついたというわけです。
 
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