時刻表の歴史
あるいは「遅刻」の誕生
真っ黒な鉄道線敷地図(明治32年)
『JTB時刻表』が、2009年4月に発売された5月号で、なんと通巻1000号を迎えたそうですよ。創刊号は大正14年(1925)4月発刊で、それ以来80年以上も旅の必需品として利用され続けてきたわけです。
ただし、鉄道開通は明治5年(1872)で、言うまでもなく当時から時刻表は存在していました。つまり、時刻表自体の歴史はすでに137年もあるわけです。
そんなわけで、今回は時刻表の歴史です!
日本最初の鉄道は明治5年(1872)5月7日に開通したんですが、当初は品川〜横浜の仮開業でした。途中駅はまだ未完成だったので、ノンストップ。
横浜発が8時と16時、品川発が9時と17時の1日2往復。時間は35分かかり、料金は上等1円50銭、中等1円、下等50銭でした。
開業当時の品川駅と横浜駅
つづいて6月5日、途中の神奈川駅と川崎駅が完成しました。その当時の時刻表がこちら。品川〜横浜まで1日6本、40分かかったことがわかります。料金は上等1円12銭5厘、中等75銭、下等37銭5厘でした。
新橋と鶴見が抜けてる時刻表
9月12日に新橋〜横浜の開通式があるんですが、このときは1日9本。新橋〜横浜が53分かかりました。
開業当時の新橋駅
開業直後の時刻表
以上2つの時刻表を見て面白いことに気づいたでしょうか?
時間が「時」ではなく「字」が使われているんですよ。これはどうしてかというと、当時はまだ江戸時代の旧式の時間システムが併用されており、混乱を避けるために西洋時間には「字」を使ったんです。
当時、時間の言い方には「十二支」(深夜0時から2時までが子の刻。以下、丑の刻、寅の刻……)と「数呼び」(深夜0時が九つ、2時が八つ、4時が七つ……)の2つあり、さらに西洋時間が入ってきたことで、時間の呼称が大混乱していました。
しかも当時は太陰暦ですからね。時期によって時刻が移動するので、鉄道運行には問題がありました。そんなわけで、この年の末、太陽暦が採用されるのです。
当時の時刻表には次のような注意書きが書いてありました。
《乗車せんと欲する者は、遅くとも此(この)表示の時刻より10分前にステーションに来り、切手買入れ、其の他手続きを為すべし。且つ賃金の定数を過不足なきやう兼ねて用意あらんことを欲す》
ちなみに出発の3分前には駅のドアを閉めるそうで、日本人は鉄道によって「正確な時間」と「遅刻」の概念を学んだわけです。
もうひとつ、当時は「切符」ではなく「切手」という言葉を使っていた点も注目に値しますな。
その後、明治7年に大阪〜神戸、明治10年に大阪〜京都が開通するなど、鉄道網は大きく拡大していきますが、時刻表自体は薄っぺらなものでした。
明治22年に新橋〜神戸が全通。この時点で新橋〜大阪が直通に乗って19時間。
そして明治27年10月5日、庚寅新誌社から日本初の月刊時刻表が登場します(この日が「時刻表記念日」)。これが好評だったため、各社から似たような月刊時刻表が立て続けに出版されました。
明治32年の時刻表
表紙の「十合呉服店」は現在のそごう百貨店
なかは下の写真のように真っ黒で文字が白抜きという、信じられないくらい読みにくいものでした。新橋〜横浜がちょうど1時間。かなりの列車が横浜駅を通過してるところがすごいですな。
新橋始発は朝6時20分発の神戸行きで、大阪到着が夜9時55分。新橋〜大阪が15時間35分でした。
ちなみにこの頃は距離は哩(マイル)で計測されていました。また「時間表」という言い方も多かったようです。
なぜか真っ黒な時刻表(冒頭の写真も同じです)
ついでに下は明治32年の別の時刻表。巻末に小荷物の料金表があるんですが……右下には死体運賃表が! 大人が最低4円で、あとは1マイルあたり20銭追加されるみたいです(12歳以下の子供は半額)。
日清戦争勃発が明治27年(1894年)ですからね、やっぱり当時は死体運ぶ人も多かったんでしょうねぇ。
死体運びが日常?
一方、下は明治42年のもの。新橋、上野、飯田町、新宿、両国橋しか掲載されていませんが……東京駅がありませんな。それもそのはず、新橋は東海道線の起点、上野は東北方面の起点、飯田町・新宿は中央線の起点、両国橋は千葉方面の起点で、それぞれがまだバラバラに存在していたのです。3年後の明治45年(1912)、中央線のターミナルである万世橋駅が完成、さらにその2年後の大正3年(1914)、ようやく東京駅が完成するのでした。
東京駅のない時刻表
さて、『JTB時刻表』が創刊するのが大正14年。JTBの前身「日本旅行文化協会」から発行されました。距離はまだマイルで、時間は12時間制を採用、弁当販売や郵便局(電報)、赤帽の有無が記載されています。このころの時刻表には、外国人旅行者を集めるため(外貨獲得のため)、満州や朝鮮、シベリアの時刻も記載されていました。
鉄道博物館「時刻表」展で復刻版を撮影
昭和5年(1930年)に超特急「燕」が運行開始すると、東京〜大阪は8時間20分に短縮されました。
昭和9年には丹那トンネルが開通し、御殿場経由だった頃よりスピードアップし、東京〜大阪は8時間に。
そして敗戦を迎えると、手書きの時刻表が流通しました。特急を運行する余裕はなく、東京〜大阪で14時間38分かかっています。
終戦後まもなく(昭和21年2月)の時刻表
昭和31年、東海道線が電化され、東京〜大阪は7時間半に。
最後は新幹線が開通したときの時刻表。東京〜新大阪がちょうど4時間ですな。まさに時刻表の歴史はスピードアップの歴史だったわけですな。
新幹線登場!
制作:2009年4月29日
<おまけ>
初期の鉄道はイギリスの技術を使ったため、マイルで距離を測ったわけです。こうした外国人技術者を雇うために必要だったことは何か? もちろん高額な給料は言うまでもありませんが、実は「日曜日が休日」というのも重要でした。それまで日本には日曜が休みという概念はほとんどなく、外国人のために強制的に導入されたわけです。法律的には明治9年4月1日から日曜休日が決められました。
<おまけ2>
『JTB時刻表』は1987年の国鉄民営化以前は「国鉄監修・交通公社の時刻表」としてオフィシャル扱い。そのためすべての駅に置かれていたわけですが、現在は『JR時刻表』(交通新聞社)が公式時刻表となっています。部数は最盛期の200
万部から現在は15万部まで落ち込んだそうです。
『JTB時刻表』999号と1000号。999号は銀河鉄道999!