村井兄弟商会
「村井兄弟商会」の工場(京都市東山区馬町、1914年頃)
京都国立博物館から数百メートル離れた場所に、かつて真っ赤なレンガ造りの建物がありました。玄関は巨大で、窓には鉄格子が嵌められています。
ここは、タバコ製造で有名な村井吉兵衛の「村井兄弟商会」の工場跡です。
1900年(明治33年)に建設されたこの工場は、敷地が約1600坪(約5300平米)あり、2000人以上の職工が、24時間態勢で、1日1000万本のたばこを製造しました。いつも機械の音がしていたため、地元では「機械館」と呼ばれていました。
工場は老朽化がひどく、文化財の指定も受けていなかったので、残念ながら、2009年に解体されています。そこで、今回は村井の一代記をまとめます。
工場の定礎
1864年、京都で生まれた村井吉兵衛は、9歳のとき、タバコ商のおじの養子となり、14歳のころには、地方で葉タバコの買い入れなどをおこなっていました。
20歳を過ぎた頃、洋書の『百科製造秘伝』に出会い、紙巻きたばこの製造方法を知ります。そして、1890年(明治23年)、ついに紙巻きたばこの製造に成功、「サンライス」と命名し、20本入り(パイプ5本付き)4銭で発売開始します。
旧たばこと塩の博物館
アメリカ視察後、村井は海外の葉に香料を混ぜた「ヒーロー」を10本入り3銭で発売。「ヒーロー」は発売5年で年間20億本と、日本で一番吸われる銘柄となりました。
海外視察直前の村井
当時、アメリカでは噛みたばこ全盛でしたが、ジェームズ・デュークが作った「アメリカン・タバコ・カンパニー」が紙巻きたばこで一挙に勢力を拡大中でした。
デュークは村井吉兵衛を支援し、京都工場に巨額資金を投入、村井兄弟商会は外資系企業の嚆矢として大きく成長していきます。
村井吉兵衛とデューク
デュークの販売拡大に大きな役割を果たしたのが、同封されてい「タバコカード」です。当初は美人のブロマイドが多かったのですが、女性喫煙者が増えていくと、花や風景画が増えました。村井はデュークから版を買い取り、自ら印刷工場も作ったうえで、「西洋女性」「元勲」など多彩なカードを出していきます。
煙草カード
専売局に移管された村井兄弟商会の東洋印刷
外国の葉を使った村井兄弟商会に対抗するのは、岩谷松平の「天狗煙草」です。岩谷は国産の葉を使用し、国産を売りにした「国益天狗」「愛国天狗」「輸入退治天狗」などの新銘柄を次々に発売します。
天狗煙草は、真っ赤な衣装でのぼりを掲げた自転車の宣伝隊を作り、銀座を走らせました。村井も負けじと、銀座に馬車つきの音楽隊をパレードさせます。
村井双六
村井の宣伝はどんどん大規模になっていきました。
本拠地の京都では、1895年(明治28年)、東山の如意ケ嶽の山腹に「ヒーロー」「サンライス」の大看板を立てました。これは第4回内国勧業博覧会のためですが、この大看板が明治天皇の目に触れるのはまずいと、大きな批判が起こります。すると村井は、「看板を撤去する」という広告を新聞に出し、かえって大きな宣伝効果を手に入れるのです。
看板を撤去するという広告
1899年、村井兄弟商会は鹿児島の桜島の山腹に大看板づくりを計画します。1文字の大きさが7mもある大看板で、計画段階で大きな批判を受けますが、看板は実際に立てられたようです。
このころ、村井兄弟商会の売り上げは1カ月約20万円にもなっていました。当時の公務員の初任給が9〜10円ほどなので、相当大きかったことがわかります。
村井兄弟商会の東京支店
しかし、1904年(明治37年)、煙草専売法の実施で、村井は事業から撤退します。京都の工場は、専売公社の京都工場となりました。
京都工場の様子
村井吉兵衛は、手に入れた補償金1120万円で新事業に乗り出します。
まず「村井銀行」を設立、さらに倉庫、海運、石鹸などさまざまな事業に手を出します。
村井カタン糸、村井紡績所を創業後、1907年には、イギリスの繊維会社と共同で「帝国製糸」を設立、大実業家となりました。
村井カタン糸の宣伝
村井吉兵衛の自宅は今の永田町で、ここから馬車で出社する姿は名物でした。
そして、京都・円山には贅の限りを尽くした大別荘も建設しています。竣工は1909年。当時、伊藤博文が招かれ、扇の面に漢詩で「長楽館」と命名しています。この建物は現存し、レストランなどに使われています。
長楽館の玄関