初公開!
「空の通り魔」一〇〇式司偵の開発秘話





 日本陸軍の航空機史上、最も優秀といわれるのが「一〇〇式司令部偵察機」です。初飛行は昭和14年(193911月で、終戦まで主力機として活躍しました。
 開発は三菱重工で、設計は久保富夫。
 
 終戦直後、当時の雑誌『航空朝日』が突如として廃刊になるんですが、その最終号(194511月号)に久保ら、戦闘機開発者の対談が掲載されました。
 そのなかから「一〇〇式司偵」に関する久保の発言をピックアップして公開します。

 いったい、日本陸海軍はどのように飛行機開発を主導していたのか、その実態を明かす貴重な証言です。

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 あの頃、要するに陸軍は、新しいものを次から次へと作りさえすれば必ず性能その他で向上するという観念が強かった。一つ出来るとすぐ次のを命令する、出来るとまたすぐ次の新しい飛行機を命令する。しかもその間が1年とか半年とか非常に短くて、設計データが揃わないうちに次のを命令するという調子でした。
 とにかく1つの試作が済むか済まぬうちに、次から次へと新しい命令が来る。その結果、試作の番号だけは非常に増えてるわけですね。

 戦闘機では、例えば「九七戦」「一式戦」、その他川崎の「キ四五」と新しいのを同時に命じたのですけれども、あまりにピッチが狭くて、一般に性能が出なかった。それに比較して一〇〇式が一番性能が出たというわけです。そのことは海軍でも同様でした。例えば零戦ですね。

 司令部偵の目的は、大体今までの偵察機は主として前線の戦闘場付近の偵察をやったわけですが、そうでなく、後方の敵の司令部とか都市とか、戦略上の要点を偵察する、奥地に入って偵察する。それで隠密という条件がありますので、高々度と高速と、ある必要な航続距離が要求されます。
 ところが大東亜戦の初期までは任務を果たしましたが、だんだん後期になると、電探(レーダー)が発達して隠密偵察ということが出来なくなった。そのために特に高々度と高速ということが後で問題になります。

 司令部偵は初めは数はそんなに要らないということでした。だから我々も改良を加えなかった。放ってあったのですけれども、そのうちに墜(おと)されだしたら、やはり是非やれということになって発動機は「金星」というのに換えました。これも性能が良くなるかと思ってやったのですが、結果においてはあまり効果がなかった。

 三型と称して、高々度という要求が非常に多くなりまして、胴体前方にタンクを増設したり、落下タンクを付けたり、同乗席に増加タンクを付けたりしました。
 他の飛行機は割合に低い所で使われるのに、司偵は8000以上10000m位を常用するというので高々度の性能が最も考慮されまして、実際やりましたことは、発動機のプラグなんかいろいろ研究しました。

 例えば酸素装置ですね。これはその頃たいていの飛行機が付けておりますが、実際飛ぶのが6000mとかそこらです。それを司偵が8000とか10000行きますと、酸素装置はなるほど付けているが、漏洩とか凍結とか、これは素人には問題にならないようなことですけれども、実は非常に重要な問題で、酸素装置の不備のために墜落した飛行機が非常にたくさんあります。
 前線に行って還らなかった飛行機が果たして撃墜されたのか……無線を持ってるから撃墜されたのなら、敵に追躡(ついじょう)されてるということを打って来ますから判るわけですが、何の無線もなく還って来ないというのは、相当多くは酸素装置の故障じゃないかといわれるのです。

 酸素ビンは鉄で出来ていまして、3.3リッターの場合は12本積んでるんですが、これを7リッターとか10リッターというビンにすると1本ですむとか、あるいは2本ですむとかいうわけですが、空中で射撃を受けた場合いっぺんに爆発の危険がある。
 数が増えると漏洩の場所が増えるし、装備もやりにくいというわけで、酸素では大分操縦者とゴタゴタしましたが、結局、12……計算上はそんなに要らない、3本もあれば十分でしたが、事実は12本積んでいました。

 自由操縦装置も付いていました。これは司令部偵に限りませんが、実戦には殆どそれを使わなかったといわれていました。
 高い金と努力と装備の不便を忍んでやったものを、それが不完全ですから、実際実用にはならなかった。ただ設計を困難にし性能を低下させただけです。

 日本の飛行機がだんだん遅れて行ったのは、飛行機屋の責任ではなく、結局、総合技術ですから、工業界全体が足並みをそろえて進歩していなければ、今日の進歩した飛行機は出来ない。飛行機屋自身で優秀な飛行機を作る時代は過ぎたと思うのです。