100メートル道路
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「100m道路」の誕生
戦後復興の成功例と失敗例
道路標識も複雑な名古屋の巨大道路
日本には、道幅が100mを超える道路「100m道路」は3本しかありません。
名古屋の久屋大通と若宮大通、広島の平和大通りです。
札幌の大通公園も道幅は100mありますが、これは明治時代から存在しており、通常「100m道路」と呼ぶことはありません。
広島の平和大通り
一般的には、戦後復興の中で誕生したものを指しますが、では、いったいなぜ「100m道路」は東京にできなかったのか? 今回は、対照的な東京と名古屋の戦後復興の物語です。
もともと名古屋城は清洲にありましたが、1612年、水害対策のため、徳川家康が近傍の台地まで城下町をそのまま移転させます。これを「清洲越し」といいますが、この結果、新造の名古屋は碁盤状の町となりました。
このときできた名古屋の東端が、現在の久屋大通となります。
復興のシンボルとなった名古屋テレビ塔(久屋大通の真ん中)
明治になると、日本全国に鉄道が敷かれるようになりますが、当初、政府は東京〜京都の幹線鉄道を中山道経由(高崎〜大垣)で計画します。つまり、名古屋は幹線鉄道から伸びる支線の一駅になる予定でした。実際、1886年(明治19年)に完成した名護屋駅は、現在の駅より南側の大湿地帯にある、資材運搬用の駅でした。
これに対し、初代名古屋区長の吉田禄在(よしだ・ろくざい)が猛抗議。また中山道の工事が難航することがわかり、結果、幹線は東海道経由となり、名古屋は一大工業地帯として発展していきます。
名古屋を無視した中山道鉄道の公債(国立公文書館)
名古屋は、周辺の広大な土地、碁盤目状の効率的な町並み、交通の要衝という好条件が揃ったことで、大きな発展を遂げます。三菱重工業をはじめ、戦前から飛行機を中心とする大規模な工業都市となっていました。
しかし、そのために戦争で度重なる空襲を受け、敗戦時には市街地の3分の2、市の4分の1が焼け野原となりました。
名古屋の復興を進めたのが、元内務省の土木技師である田淵寿郎です。
1945年12月に「大中京再建の構想」を発表、翌年、議会で「名古屋市復興計画の基本」が正式決定します。
復興案の中核である「田淵プラン」は、以下の通りです。
名古屋の復興構想(『復興名古屋1949』)
●100m道路によって、市内を4分割して防火帯にする
(堀川と合わせ実質は市内6分割)
●50m道路9本、30m道路13本を作る
●道路幅8m以下の道路はつくらない
(道路とは自動車2台がスピードを落とさないですれ違えるものである)
●市内を通る鉄道はすべて立体交差にする
●交通を改善するため、地下鉄を作る
●名古屋港を拡張整備する
●住宅地を確保する
新造の住宅地(1949年)
復興の最大の障害が、市内に300カ所ある寺と墓地でした。田淵は18万基の墓を一挙に郊外(現在の平和公園)へ移転させる荒技を繰り出し、区画整理を推進しました。
名古屋が幸運だったことは、市街が碁盤目だったことで、戦時中は建物疎開が徹底して行われたことです。市中心部に幅50mの疎開空地帯が造られており、これらが戦後そのまま幹線道路になりました。
また、ガス管や水道管が撤去された空き地が多く、戦後すぐにバラックが建たなかった場所が多かったのです。いたるところに広大な空き地が残っていたことと、市民が多くの土地を無償提供したことが復興が進んだ理由です。
なお、バラックが密集した名古屋駅周辺は、新幹線の開業時にようやく再開発されることになります。
疎開空地帯がそのまま幹線道路になった桜通
100m道路に関しては批判も多く、田淵の自叙伝には「100メートル道路をつくりはじめたころは、世間の人は飛行場でもつくるのか?と笑った」と記録されています。しかし、この道路がモータリゼーションを経て、名古屋の自動車王国を支えたのは間違いありません。
ただし、人間より車が優先された整然すぎる街は、人間味に欠けるとの指摘があるのも事実です。
中央の緑地帯も活用できず(名古屋の若宮大通)
さて、一方の東京はどうだったのか。
まず、政府の動きから見ておきます。
敗戦後すぐに政府は「戦災復興院」を設立し、全国の復興を目指します。1945年12月に閣議決定された「戦災地復興計画基本方針」はハイレベルで、大都市の幹線道路は幅員50m以上、中小都市では36m以上とし、必要に応じて50〜100mの広い道路を設けること、駅前広場を設けること、緑地を市街地の1割以上作ることなどが明記されていました。驚くことに、電線地中化も書かれていたのです。
幅員100mの道路は、東京、川崎、横浜、名古屋、大阪、神戸、広島の7都市で計24本計画されました。
しかし、敗戦から4年後の1949年、財政金融を引き締める「ドッジ・ライン」により、国庫補助は大幅削減。結局、「100m道路」は名古屋の2本と広島の1本のみが実現しただけでした。
皇居に飛行場の可能性もあった石川栄耀の東京復興概念図
(『科学の友』1948年3月号)
東京の復興計画を立てたのは、石川栄耀(ひであき)です。
石川の策定した基本方針は「帝都復興計画要綱案」として1945年12月に公表されます。こちらも内容は壮大なもので、
●東京の郊外40km圏内の衛星都市に工場などを分散。その中間は農業地域に
●食料自給を考えると、東京の人口は300万人が適当で、最大でも500万人
●昭和通り、外堀通り、四ツ目通り、蔵前橋通り、新宿通りなどを100m道路に
●100m道路のうち40mは緑地にするなど、帯状緑地を増やす
1968年の新宿予想図
石川は、1947年5月、東京に必要なものは「健全娯楽施設」と「文教地区の建設」だとし、以下のように提案しています(『新地理』第1巻第1号)。
●健全娯楽施設
上野公園、芝公園、靖国神社などを大文化公園とし、1万坪以下のものを下位文化公園とし、適宜配置
●文教地区の建設
・本郷、神田、早稲田、三田、大岡山5地域を指定
・小石川、赤羽、国立、大泉、八王子、千葉、浦和、日吉も指定し、万全を図る
しかし、東京では幅の広い道路への批判も強く、また復興に冷淡なGHQのお膝元ということもあり、結果的に、駅前の整備が優先され、東京で100m道路が実現することはありませんでした。
その結果、東京は常に大渋滞に悩まされることになるのです。
大渋滞の東京(1961年)
戦後復興とは別に、東京は、皇居を中心とした環状線と放射線の道路を整備することが決まっています。
東京の道路整備イメージ(『建設画報』1961年)
1964年の東京オリンピックで環状7号線と放射4号線(国道246号)が整備されましたが、当初の道路計画は、いまだ未完成のままなのです。
未完の環状4号線(紫の丸)と放射6号線(緑の丸)
「東京都緊急道路整備事業計画図(昭和36年度〜40年度)」より
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道路舗装の歴史
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田中角栄の日本列島改造論
制作:2019年1月21日
<おまけ>
名古屋の復興計画「田淵プラン」のルーツは中国・南京の都市計画にあった可能性を毎日新聞が指摘しています。
田淵は内務省の技術者として1937年に中国に入り、南京、上海などの復興に関わりました。
《南京は、南北の大通りと東西を走る二本の幹線道路を中心に整然と区画整理が施され、そのかなめの場所にモニュメントを配置するなど、名古屋の街づくりと酷似。目抜き通りの「中山路」は、両わきに緑が茂り、名古屋・久屋大通のイメージそのままだ》(毎日新聞1995年8月14日)
この説が正しいかどうかはわかりませんが、名古屋復興の青写真となった可能性は確かにあるのです。