史上最強の米軍部隊
日系・第442連隊戦闘団
映画『Go for Broke!』(1951)より
ドイツ軍に占領されていたローマが陥落したのは1944年6月4日のことでした。
連合軍がローマに入城すると、市民は花を投げ、大きな歓声で出迎えました。この情景は、後に映画『戦火のかなた』(1946)などによって再現され、ノルマンディー上陸作戦などに並ぶ第2次世界大戦の“名場面”となっています。
『戦火のかなた』では、ある米兵が、ローマ入城時に知り合った娘と半年後に再会するエピソードが描かれています。再会した娘は娼婦に身をやつしていた、という話です。
実は、この名場面には、描かれなかった歴史があります。今回は、もしかしたら、その米兵は日系人だったかも、という「もしも話」を紹介します。
ローマ陥落は、1944年1月から行われたイタリア、モンテ・カッシーノの戦いの勝利が決定打となりました。
このとき、ドイツ落下傘部隊を相手に奮戦したのは、日系人によって編成された第442連隊でした。激戦で戦死は48人、重傷者は134人にのぼり、部隊の兵力は半減します。死んだ兵士には勲章が与えられますが、その勲章の多さから「死傷者勲章大隊」と呼ばれるほどでした。
モンテ・カッシーノの戦い(『Go for Broke!』)
まもなく、ドイツ軍の防衛線近くで大規模な戦闘が起きました。約5万の米英連合軍は2カ月間、ドイツ軍と交戦を続けたものの、状況は一進一退のまま。そこに442連隊が高地攻略に成功、連合軍はローマへ通じる道を確保するのでした。
部隊ではローマへの一番乗りを目指して士気が高まりますが、あと10キロの地点で、突如、停止命令が下されます。そして、後からやってきた白人部隊が追い抜いていき、ローマ解放の栄誉は白人の手に渡ったのです。日系部隊はローマへの進軍さえ許されず、そのまま転戦することになります。
なぜ日系部隊がローマへ入れなかったのか? それは人種的差別が理由としか考えられませんでした。
イタリア娘も日本人には声もかけない(『Go for Broke!』)
1941年12月8日、日本軍が真珠湾を攻撃すると、アメリカはすべての日系人に「敵性国民」のレッテルを貼り、約12万人の日系人を全米10カ所の収容所に強制移住させました。
強制収容先に運ばれる日系アメリカ人(米国立公文書館のサイトより)
日系人は戦争中、収容所内で何もしないで過ごすことも可能でしたが、若い日系2世の多くは銃を取って戦うことを選びました。もちろん最初は道路整備や建設業務しかできませんでしたが、献身的な活動が評価され、1942年5月、ハワイの日系人を中心に第100歩兵大隊(通称「ワンプカプカ」)が編成されるのです。
その後、アメリカ全土の日系人を合わせ、1943年2月に第442連隊が作られました。
当時のアメリカでは、排日移民法など日本人は劣等民族として差別されていました。床屋では「ジャップの頭は刈らない」と言われたこともしばしばあったといいます。
こうした差別のなか、しかも「敵性国民」の部隊なので、当初から“弾除け”としか見られず、ヨーロッパ戦線では、常に最前線に配置されました。
しかし、この差別が、逆にアメリカへの忠誠につながり、初陣から大活躍することになるのです。部隊の合い言葉は“Go For Broke”(当たって砕けろ、とことんやれ)でした。
442連隊の訓練の様子(カリフォルニア大学電子図書館)
ローマ解放後、442連隊と100歩兵大隊が合流。1944年9月、突然の移動命令を受け、海路、フランスのマルセイユに上陸し、そこで、ドイツに占領されていた東北部の町ブリエラを解放します。人々はその功績をたたえ、ブリエラには今でも「442通り」があるそうですよ。
フランスを行軍する日系部隊(米国立公文書館)
ブリエラ解放後、休む間もなく、転戦命令が下ります。今度はボージュの森でドイツ軍に包囲されていたテキサス大隊の救出でした。
この戦闘でも大きな犠牲を払い、211人のテキサス大隊を救出するために442連隊は800人の死傷者を出しました。
ところが、救出されたテキサス大隊からは「ジャップか」という侮蔑の言葉さえ聞こえてきたのです。442部隊側が「われわれは米軍だ」と怒ると、相手は直立して敬礼し、詫びたというエピソードが残っています。
テキサス大隊救援中の部隊(『Go for Broke!』)
その後、連隊の傘下にあった第522野砲大隊がドイツへ進軍し、ミュンヘン西方のダッハウでナチスの強制収容所を解放します。
一方、本隊はイタリア戦線に呼び戻され、ドイツ軍最後の防衛線「ゴシックライン」に投入されました。それまで2個師団2万人の部隊が半年がかりで落とせなかったゴシックラインを、442連隊はたった2500人の兵力でわずか32分で突破しています。
連隊の生き残りを追ったドキュメンタリー映画『442日系部隊・アメリカ史上最強の陸軍』で、この戦闘に参加したダニエル・イノウエ氏(現・上院議員) が次のように語っています。
「この戦いで肘を撃たれ、右腕が吹き飛ばされました。右手には手榴弾を握っていたので、残った左手でその手榴弾を拾い、投げました。幸い、敵に命中し、血しぶきが私の銃を赤く染めました。痛くはありませんでした。そういうときは痛みを感じないものです」
ゴシックラインを打ち破ったことで、山岳地帯の都市が解放され、1945年5月、イタリアの戦闘はようやく終結します。そして3カ月後、太平洋戦争も終わりを告げます。
1946年7月、ワシントンに凱旋した442連隊の表彰式が行われました。トルーマン大統領は小雨の中、連隊を直接出迎え、次のように演説しました。
「君たちは敵と戦っただけでなく、偏見と戦い、そして勝った。この戦いを続ければ、常に万民が幸福であれ、と憲法でうたうこの偉大な共和国が、幸福の象徴としてありつづけるだろう」
(うーん、翻訳が難しいので原文を公開しときます。
You fought not only the enemy, but you fought prejudice--and you have won. Keep up that fight, and we will continue to win--to make this great Republic stand for just what the Constitution says it stands for: the welfare of all the people all the time.)
なお、大統領から直接出迎えられた米軍部隊は、442連隊が唯一です。
442連隊を出迎えたトルーマン大統領(米国立公文書館)
この部隊がどれだけ勇猛果敢だったかを示すエピソードとして、戦闘後に全員集まれと言ったのに、あまりに人間が少ないので怒ったところ、「これで全員です」と答えた話が有名です。数字でいうと、「死傷率314%」というのもあります。314%って、単純計算でどの兵士も平均して3回以上の大けがをしたことになります。
いずれにせよ、この部隊の活躍で、日本人は高く評価されるようになりました。1952年に排日移民法が撤廃され、米国へ帰化する道がひらかれ、1957年には、土地・家屋の購入が認められました。
ただし、差別がなくなるのは、1960年代の公民権運動の高まりを待つ必要がありました。
現在、442連隊は解体されていますが、第100歩兵大隊が予備役として残っています。なお、今でも、アメリカ陸軍では442連隊の活躍を必修科目として教えています。
●映画『Go for Broke!』(1951)には、実際に442部隊で戦った兵士が参加しています。現在、パブリックドメインとして米公文書館で公開されています。
制作:2011年6月26日
<おまけ1>
『442日系部隊・アメリカ史上最強の陸軍』によれば、アメリカの日本語学校の生徒に対し、当時の東條英機首相が「君たちはアメリカ国民なのだから、アメリカのために戦え」という手紙を書いたそうです。武士道ですなぁ。
当時の日系兵はみな2世で、家では親から日本語を習っていたため、「武士道」を理解していました。それが「当たって砕けろ」の精神につながったわけですな。
<おまけ2>
第442連隊(英語だと442nd Regimental Combat Team)は、アメリカ陸軍史上、もっとも多くの勲章を受けた部隊として歴史に名前を残しています。
2010年10月には、オバマ大統領が442連隊と100歩兵大隊に「議会金章」(Congressional Gold Medal)を授与しました。この賞はジョージ・ワシントン、エジソン、マザー・テレサ、ダライ・ラマ14世、アウンサン・スー・チーなど、錚々たる人物が受賞している米国の最高の勲章の1つです。
連隊の生存者を迎えるオバマ大統領(ホワイトハウスのサイトより)、オバマの左手の上の人物がイノウエ氏