大阪万博・日本にあった「最後の未来」

大阪万博太陽の塔
万博といえば「太陽の塔」


 制作費60億円で映画化されたコミック『20世紀少年』は、小学生ケンヂが仲間と秘密基地を作って遊んだ1969年から始まります。
 この年、アポロ11号が人類初の月面着陸をし、翌年には大阪で万国博覧会(大阪万博)が開催されました。ケンヂは東京在住だったため、残念ながら大阪万博には行けなかったわけですが。

 万博当時、小学生だった岡田斗司夫は『失われた未来』で

《ロケットや空飛ぶ車やモノレール。そんな「未来のオモチャ」は、いつも子供たちに「きっとすばらしい21世紀がやってくるよ」と約束しつづけたのだ》

 と書いてますが、確かにこの頃、大人も子供も未来を信じていました。

石坂泰三
石坂泰三

 さて、この大阪万博の基本理念は「人類の進歩と調和」。
 日本万国博覧会協会会長だった石坂泰三(元東芝社長、経団連会長)は、公式ガイドに次のように書いています。

《科学と技術さえも、その適用を誤るならばたちまちにして人類そのものを破滅にみちびく可能性を持つにいたった。このような今日の世界を直視しながらも、なお私たちは人類の未来の繁栄をひらきうる知恵の存在を信じる。多様な人類の知恵がもし有効に交流し刺激しあうならば、全人類のよりよい生活に向っての調和的発展をもたらすことができるだろう》(省略引用)

「人類そのものを破滅」とは穏やかでないですが、これはつまり、当時は公害は深刻だし、60年安保ほどではないにせよ、まだ東京でデモが続くような不穏な時代で、豊かになり始めた人々は日々の生活に若干の不安を抱き始めていたことを示しています。
 だからこそ、大人も子供も万博の提示する「技術革新による明るい未来」に熱狂したのでした。

 当時、万博のテーマ展示の指揮をとったのが作家の小松左京。
 小松左京は、1964年に開通した東海道新幹線の試運転を軽飛行機で上空から見て、飛行機より速い電車ができたとショックを受けました。そのまま識者と「万国博を考える会」をつくり、万博開催から基本理念の起草まで協力するのです。

「万博を象徴するモニュメントをと、岡本太郎さんに頼みにいきました。できた案は、丹下健三さんが設計したお祭り広場の大屋根に穴をあけ、塔が突き出る奇抜なもの。僕が、石原慎太郎さんが書いた『太陽の季節』の一場面みたいだと大笑いしたら、岡本さんは『よし、名前は太陽の塔だ』となってしまった」(朝日新聞2005年7月8日)

 有名な太陽の塔の命名秘話です。
 ちょっと様子がつかみにくいので、万博公園の壁に印刷されていた写真を掲載しときます。
(『太陽の季節』の一場面というのは「勃起した陰茎を外から障子に突き立てた」という場面のことです、念のため)

大阪万博大阪万博
当時のお祭り広場と、現在の残骸
※当時の写真は著作権が残存しているため、本サイトでは基本的に公開できません



 万博は1970年3月15日(日)から9月13日(日)の183日間開催されました。ただし、開会式は3月14日の午前11時から。

大阪万博
 これが関係者に配られた「プレオープン招待券」


大阪万博
これが「開会式典次第」(当時もの)


大阪万博入場券
こちらが通常の入場券
(大人800円、15〜22歳までの青年600円、小人400円)


 万博博覧会協会の内部資料によると、オープン初日(15日)の入場者予測は53万人。ところが天気がいまいちだったせいもあり、実際の入場者は27万4124人。
(この日だけで迷子227人、尋ね人108人、病人343人)

 入場者数は最後まで衰えず、閉幕8日前の9月5日にはなんと83万5832人が入場。これって当時の山梨県や福井県の人口を超えており、電車に乗り遅れ、会場内で野宿した人も多数いたそうです。

 結局26週間で最終的に6421万8770人が来場し、空前の大成功を収めました。収支も160億円の黒字を叩き出しました。
(参考までに迷子累計4万8139人、尋ね人12万5778人、病人7万5591人、会場内死者8人、火災21件、入車台数281万1955台)


 さて、会場には国内33、外国84の計117のパビリオンが立ち並びましたが、なかでも人気は冷戦を反映してアメリカ館とソ連館でした。
 アメリカ館はアポロ12号が持ち帰った「月の石」、ソ連館は史上初の人工衛星の模型や世界初のドッキングに成功したソユーズなどを展示、宇宙ブームを彩りました。

大阪万博

 こちらが当時会場で配ったソ連館のパンフです。これを見ると入口を入ってすぐに、
「世界最初の社会主義国家の誕生。新しい型の社会を創設するうえでのV.I.レーニンの役割」
 というナイスな展示が始まっていることがわかります。そのほか「あらゆる教育は無料」「毎年750万人が労働組合の負担で休息」など美辞麗句が並んでおり、今見ると笑うしかないです。 

 一方、国内館で人気があったのは三菱未来館や日立グループ館。
 日立グループ館では40mの空中エスカレーターで4階に上り、そこから260人乗りの世界最大のエレベーターに乗って場内に移動したあと、「シミュレート・トラベル」が楽しめました。
 観客は「日本縦断コース」「すばらしい大自然コース」など3つのなかから好きなコースを投票し、多数決で行き先が決まりました。
 そして、「シミュレート・トラベル」終了後、観客はレーザー光線を利用した初公開のカラーテレビの展示に驚きました。

大阪万博
これが投票カードの一部

 実は日立は1968年に「キドカラー」と名付けたカラーテレビを発売しています。「キド」とは「輝度」と「希土」をもじってるんですが、要はテレビの輝度を上げるため、ユーロピウムなどの希土類元素(レアアース)を蛍光材料に使ったのです。これによって当時誰も見たことのないきれいな赤の発色が実現したわけです。

大阪万博
公式パンフに掲載されていたキドカラーの広告
(「ソリッドステート」とは真空管を使用しないことを指します。宣伝文でも「オールトランジスタ化」を強く謳っています)


 高度成長下の人々は、きそって美しいテレビを買い求めました。
 しかし、そのブラウン管には「美しい風景」よりは「公害」「戦争」「破壊」といったネガティブな映像が氾濫していました。
 そして1973年、第1次石油危機(オイルショック)が起き、「明るい未来」は急速に色あせていくのでした。

大阪万博太陽の塔
太陽の塔の背後は暗い未来を暗示?


制作:2008年10月31日


<おまけ>
 2008年10月、万博跡地にできた遊園地エキスポランドが倒産しました。またひとつ、輝かしい未来の残像が消えていくのですな。
 ついでに言うと、日本万国博覧会記念機構も2010年度までの廃止が決定しています(公園自体は残すようです)。
エキスポランド
会社更生法が適用されたエキスポランドの在りし日の姿
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