朝日新聞の歴史
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朝日新聞の誕生
社史には載らない知られざる歴史
朝日新聞野戦支局
明治34年の終わりか翌春ごろのことです。大阪で『滑稽新聞』を出していた宮武外骨の元に、堺から1人の客人がやってきました。その客は「人気の高い滑稽新聞をぜひ堺でも出したい」と言うのです。
何回かやりとりしているうち、宮武は名高い堺の龍神遊郭に招待されました。そのとき、相手をしてくれた娼婦が、寝物語で驚くべきことを言いました。
「私の父は朝日新聞の社長でしたが、株を村山様に売ってしまい、その後の商売もうまくいかなくなったため、私が身を売る羽目になったのです。父が朝日新聞を売らなければ、今頃はいい旦那さんを貰い、私も楽しく暮らしていたでしょう。残念なことです」
この話は『明治奇聞』に書かれたエピソードで、本当かどうかはわかりません。しかし、朝日新聞の創業者は、社業が栄えるうちに放蕩に明け暮れ、株を村山龍平に譲渡したのは事実です。
その人物の名は、木村騰といいます。
木村騰は、醤油醸造業だった木村平八の息子で、独立して西洋雑貨の店を営んでいました。時代は自由民権運動が盛りあがりを見せており、人々はニュースに飢えていました。ある日、騰は新聞を発刊したいと父に相談したところ、最初は反対されたものの、最終的には資金を出してもらうことに成功。親友で同業だった村山龍平と発刊にこぎ着けます。
最初の朝日新聞社屋(大阪)
創刊は、明治12年(1879年)1月25日、土曜日のことです。本社は大阪で、定価は1部1銭(創刊2号までは無料頒布)。4ページで、活字にはルビが振られ、写真の代わりに挿絵が描かれていました。
当時の新聞は、政治の話を小難しく書いた「大新聞」と、読み物や雑報を中心に平易な文章で書いた「小新聞」の2つありました。朝日新聞は、小新聞としてスタートしました。
朝日新聞創刊号(クリックで拡大)
たとえば創刊号では、歌会始で詠まれた明治天皇の和歌を1面に載せる一方、3面には、「身寄りのいなくなった少女『石田あい』に、女中だった『まつ』が身を削って、いい服を着せている」という記事を載せています。
創刊号の部数は3000部ですが、たちまち2人に寄付が集まるなど、影響力はかなりのものがありました。
朝日新聞は、400号のとき、すでに発行部数1万3000を超えていました。新聞販売が好調になると、次第に木村騰は遊びほうけ、ついに財政破綻寸前となりました。明治14年、木村はすべての株式を村山龍平に譲渡。村山は経理担当だった上野理一と共同出資の形で経営することになりました。資本金3万円、このうち1万円が木村に渡されました。
(現在でも朝日の社主は村上家と上野家です)
当時、新聞は江戸時代以来の販売方法が主流でした。瓦版の内容を、節を付けたり面白い言い回しで売っていたのです。これを「読み売り」と呼びます(もちろん読売新聞の語源)。
しかし、読み売りは次第に禁止され、配達人システムが生まれます。朝日新聞の配達人は、はっぴ姿で、わらじ掛け、まんじゅう笠をかぶり、箱を担いでいました。
余談ですが、当時、新聞配達は「女にもてる商売」で、明治12年6月17日の朝日新聞も「西京新聞の配達員が、井上馨の妾の下女と駆け落ちした」という記事を書いています。
新聞配達
創刊からちょうど2年目の明治14年1月25日、朝日新聞は「ひらがな国会論」で3週間の発行停止命令を受けました。しかし、部数は順調に伸び、明治16年は1年間で643万1389枚、明治17年は738万5929枚も印刷しています。
朝日新聞をパクった「小朝日新聞」も登場(翌年廃刊)
明治18年、本社を中之島に移転。
明治19年、横の題字を縦に改め、東京支局を銀座に開設。
大きな転機となったのは、明治21年7月10日、星亨が経営していた「めざまし新聞」を譲りうけ、東京朝日新聞として発行開始したことです。東京は新聞が群雄割拠しており、大阪系の新聞はなかなか進出できませんでしたが、ようやく朝日は東京に地歩を固めます。
数寄屋橋にあった朝日新聞の東京本社
(電光ニュースは昭和3年に設置)
東京朝日新聞の創刊日、村山社長は当時唯一の交通機関だった馬車鉄道を貸し切り、無料乗車を実施し、東京っ子から喝采を浴びます。
さらに人々にインパクトを与えたのが、創刊号に付けられた付録でした。創刊号は4ページですが、6ページの付録は「貴顕肖像図」という精巧な木版画で、明治天皇の肖像だったのです。当時は天皇の肖像を頒布することは許されておらず、そもそも肖像の入手自体難しかったので、人々は驚嘆します。
もちろん、これは村山社長が宮内省から特別許可を得たものですが、注文が殺到。版木を刷りつぶしてしまったので、新しく彫り直すほどで、市中にはニセモノも出回りました。
東京朝日創刊の5日後(明治21年7月15日)、会津磐梯山が大噴火しました。村山社長はすぐさま記者と一緒に画家・山本芳翠、木彫家・合田清を派遣しました。噴火の実況をいきなり版木に逆に描き、その場で彫って本社へ急送。写真がない時代の圧倒的なスクープで、あまりの早業に読者は仰天するのでした。
朝日新聞が報じた磐梯山の噴火
当然のことながら、東京の新聞は朝日新聞を目の敵にし、一致団結して反朝日同盟を組みます。当時の様子を村山社長がこう回顧しています。
《当時は東京日日新聞(現・毎日新聞)も大新聞の見識を保ち、フロックコートを着た受付が人民に新聞を売下げてつかわすといった態度をとっているところであったから、各社の気位と私の営業主義とは大いにブツかり、東京の18新聞が団結して東京朝日に当ってきた。連盟側では「朝日を売ればわれらの新聞は売らさぬ」という。私は「朝日と同時に他の新聞を売ってはならぬなど固苦しいことはいわぬ」と寛容に出て孤軍奮闘し、この争いが約半年もつづいた》(『新聞50年史』)
東京と大阪に販路を持つ朝日は、スクープでも独走します。
明治22年2月11日、憲法発布。この日、東京朝日は憲法の条文をすべて電報で大阪へ送り、大阪朝日は完全に他社を出し抜きます。
明治23年には、東京にフランス製のマリノニ輪転機を日本で初めて導入し、従来の6倍のスピードで印刷することが可能になりました。この機械のおかげで、締切時間を他社より遅くできたうえ、開設されたばかりの帝国議会の傍聴記を、毎日付録に付けることに成功するのです。
明治26年には、千島探検に出向いた郡司成忠と、シベリア横断に成功した福島安正中佐の旅行記を独占。
さらに日清戦争終了後の明治28年(1895年)6月20日には、井上馨の帰国報道で初めて伝書鳩を使用し、速報に成功します。
朝日新聞の伝書鳩
日露戦争の末期になると、初めて誌面への写真掲載が可能になってきました。朝日は他社より若干遅れますが、明治37年(1904年)9月30日、遼陽の戦地写真を初めて掲載します。
朝日紙面に登場した最初の写真
明治38年(1908年)8月29日、日露戦争の講和条約が成立すると、朝日は条約を不満として当局の弱腰を非難。このため大阪朝日は3回の発行停止処分を受けます。
朝日の政府批判は徹底しており、対中国政策、シベリア出兵など、ことあるごとに政府を攻撃していました。
大正7年(1918年)、米騒動が起き、寺内内閣はこの報道を禁止。しかし、朝日は先頭に立って報道します。これに対し、政府は逆襲に出ます。
8月25日の大阪夕刊に書かれていた「白虹日を貫けり」(内乱の兆候を指す故事成語)が秩序紊乱に当たるとして発売禁止になったのです。いわゆる「白虹事件」です。
関西では朝日新聞の不買運動が起こり、右翼団体が村山龍平社長を襲撃。村山社長は辞任、幹部社員は一斉に退社する事態となりました。
昭和3年(1928年)3月9日、朝日新聞は空前の大誤報をしでかします。前日亡くなった久宮祐子内親王(ひさのみやさちこないしんのう=昭和天皇の次女)の訃報関連記事で、「久宮薨去(こうきょ)につき皇后宮の御機嫌奉伺」と活字を組むべきところを「皇后薨去」と組んでしまったのです。
これを大阪府の検閲官が「不敬」だと問題視し、知事に通報。知事は長年の恨みを晴らすべく、一斉に攻撃に出ます。意をくんだヤクザが編集局に乱入するなど、大混乱となりました。
不偏不党がモットーの朝日新聞綱領
昭和6年、満州事変が勃発すると、陸軍は1億円の軍事費増強を訴えます。これを朝日が批判すると、軍部は在郷軍人会を使って、大規模な不買運動を展開します。
こうした流れの中で、昭和11年(1936)、
二・二六事件
が起こるのです。
叛乱軍の一部は、新聞社で朝日新聞だけを襲い、活字ケースをメチャメチャにして引きあげました。
昭和16年(1941年)1月11日、政府は「新聞紙等掲載制限令」を公布。新聞統合や用紙制限が進み、朝日は名古屋での発売が不可能になります。そして、昭和18年元旦、朝日は中野正剛が執筆した「戦時宰相論」を掲載し、発売禁止となりました。
昭和19年3月には夕刊が廃止となり、昭和19年11月以降、用紙制限で週14ページ(1日2ページ)規制となり、朝刊は紙っぺら1枚となります。
朝日新聞はジャワ新聞の発行を委託され(読売はビルマ新聞、毎日はフィリピン新聞、同盟通信はシンガポール新聞)、これも大きな負担となりました。
そして昭和20年3月、日本新聞公社ができ、新聞は1県1紙に。東京では、5月27日、5社による共同新聞が発行されました。
共同新聞
終戦後、朝日は戦争責任を明確化するため、村山長挙社長、上野精一会長ら幹部が辞任します。しかし、昭和22年、2人は公職追放の憂き目に。 オーナーのいなくなった朝日新聞には身売り説がささやかれます。買収先は東京旬刊ニュース社で、買収額は3000万円。しかし、買収後の運営費が2億円必要だとわかり、話は立ち消えとなりました(『新聞時代』昭和33年春号による)。
まもなく2人は公職追放が解かれ、朝日の再興に奔走するのでした。
制作:2014年11月17日
<おまけ>
戦前の朝日新聞がおこなった文化面での貢献をまとめておきます。
●1904年1月5日 大阪朝日に「天声人語」欄ができる
●1904年3月4日 二葉亭四迷入社
●1907年4月1日 夏目漱石入社、6月23日から「虞美人草」連載開始
●1909年3月1日 石川啄木が校正係として東京朝日入社
●1909年3月20日 日本初の世界一周旅行実施
●1910年7月13日
白瀬矗の南極探検
支援
●1915年8月18日 甲子園で「全国中等学校優勝野球大会」を開催。第1回大会は村山会長が始球式を行い、審判は京大総長・荒木寅三郎
●1930年5月5日 第1回「日本一健康児童」(健康優良児)発表
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朝日新聞が支えた日本の航空界
拝謁する健康優良児