日本初の南極探検

日本初の南極探検
南極の氷の中を進む


 明治45年(1912)1月28日、白瀬矗(しらせのぶ)陸軍中尉を隊長とする南極探検隊が、南緯80度05分、西経156度37分、標高305mの地点に日章旗を立てました。今回は、この日本初の南極探検についてまとめておきます。
 
 明治43年(1910)7月5日、当時人気だった雑誌『成功』の村上俊蔵(村上濁浪)が中心となって、神田錦輝館で南極探検発表演説会が開催されました。

《館前の行列は跡より跡より押し寄する人のために尽くることなく》(東京朝日新聞)というほどの人気で、数百人が会場に入れなかったといいます。

 錦輝館は浅草花やしきに次いで活動写真(映画)が上映されたいわば日本初の映画館なんですが、ほかにもここで大杉栄が逮捕されたりと、当時の話題スポットでした。そのうえ、前年にアメリカ・ペアリー隊が北極点に到達していて、南極は「最後の未踏地」として国際的に大いに話題になっていたのです。
 
 いったい誰が最初に南極点を踏破するのか? 

 1909年、イギリスのシャクルトンが南緯88度23分まで進んだことを受け、イギリスは国をあげて南極点到達を狙っていました。これがスコット隊。またノルウェーのアムンゼンも、北極点から南極点に計画を変更していました。


白瀬矗
隊長・白瀬矗(1861-1946)


 村上俊蔵は白瀬を隊長にしたうえで、後援会長を大隈重信に依頼します。この探検には政府は1銭の援助もしないし、後援の朝日新聞社も下りてしまうしで、頼りは募金だけでした。そこで、大隈は積極的に募金を呼びかけます。以下、大隈が新聞記者に語った言葉。
 
「氏の競争者ともいうべきスコット大佐は、英国帝室並びに国民の同情を得て、すでに本国を出発したるを以って、遅くも来る8月中に出発するにあらずんば、南極の天王山はついに他に占領せらるる虞(おそ)れあり。
 しかるに日本人が学術上大冒険をなすの初陣に際し、僅々4万円の経費のために見す見すこの勇者を見殺しにするは、国民としてあまりに腑甲斐なきに似たれば……」(明治43年7月10日、大阪毎日新聞)

日本初の南極探検
探検隊送別会

日本初の南極探検
皇居に参拝するメンバー


 朝日新聞の支援など義捐金により、なんとか白瀬は出発することができました。探検に使用した船は、郡司成忠(海軍大尉で幸田露伴の兄)が千島遠征に使った中古の帆船で、東郷平八郎が「開南丸」と名付けました。

日本初の南極探検
芝浦埠頭を出港する開南丸


 明治43年11月28日、開南丸は芝浦埠頭を出港します。翌年2月11日にニュージーランドのウェリントンから南極に向かいましたが、残念ながら氷に阻まれ撤退します。
 白瀬は再チャレンジを狙いますが、問題は予算難。やむなく野村直吉船長らが東京に戻り、講演会などで金を稼ぎます。

日本初の南極探検
演説会のビラ(入場料は1銭)


 後援会の努力むなしく、資金はなかなか集まらず、白瀬はお金の心配をしながら再出発します。そのとき白瀬が大隈に送った電報。
 
「……この上なお船員の給料、家族の手当、その他多大の経費を要すべきに付き、謹んで我が国民諸士のご後援を仰ぐ。出発に臨んで一言、同胞諸士に希(こいねが)う」

 白瀬が再び南極を目指したのは明治44年(1911年)11月19日。この航海の様子を、後に白瀬本人がインタビューで語っています。

《昨年11月シドニー発、本年1月16日極地に着けり。シドニー発後、ニュウジーランドの沖、南緯60度の辺より極圏に達するまでは、例により海上波高く40尺を超ゆることあり、航路困難云うべからず。

 61度辺より流氷の東に流るるを見る。これより氷塊数十里に渡りて浮動する故、航海に危険を感じ、一進一退多くの日時を要し、辛うじて極圏に入れば一面の氷塊にて、71度より先にて船長はコールマン島を目当てに進まんと主張せしも、陸岸は流氷の危険多からんことを恐れ、エリバス山を目当てに沖の方を航行することとせしに、果して危険大いに減じ、進んでロッス海に入る。

 66度より70度までは氷を縫うて行かざるべからざるため、この間2週間を要し、更に進んで76度辺に至れば、また一面の氷に包囲さる。

 かかる次第にて1月13日までは進路未だ定まらず、苦心惨憺を極めたるが、天佑なるかな、14日に至り船路一条を発見したれば、一同雀躍して進みたるに、15日に至れば始めて大氷原を見る。更に進んで78度30分に至り、また大氷原を見たるが、種々探検の末、氷原にあらずして時々浮動する大氷塊たるを確かめたり。

 イルス湾の手前にて一湾を発見したるも、無名なるを以って開南湾と命名し、国旗を樹(た)て、一行の名刺を埋めたり》(明治45年5月13日時事新報)


日本初の南極探検
捕獲したペンギン

日本初の南極探検
船体の氷結


 白瀬が名付けた「開南湾」から先も苦労の連続でした。再び新聞記事を引用しときます。
 
《犬橇(そり)は29の内23用をなし、1橇10頭の犬を附け、100貫の荷物を載せたるも漸次減じたり。犬はそれより次第に減じ、今は6頭を残すのみ。約50浬(約90km)進めば氷点下30度を算するも、シャツ3枚に犬の皮を着せば好し。靴は北海道のアイヌに限る。日光来たるもこれを受ける方のみ暖かく、半面はなんらの感覚もなく、身体の半分は氷解け、一方はますます凍ると云う奇観あり》

 かくて明治45年(1912)1月28日に極点到達を断念、南緯80度05分の地に日章旗を掲げたのでした。そしてこの一帯を「大和雪原」(やまとゆきはら)と命名しました。

日本初の南極探検隊
午後0時20分、日章旗立つ(中央が白瀬)

 
 実はアムンゼン隊は1911年12月14日、スコット隊は1912年1月17日に南極点に到達していました。白瀬隊の断念は残念ですが、まぁ予算難を思えばやむを得ない決断だったでしょう。

 白瀬隊の総予算は当初4万円でしたが、最終的には7万円かかったと言われています。ところがスコット隊の総経費は約40万円。それだけの差があるうえ、スコット隊は帰路全滅しているのです。無理を通せば白瀬隊も危なかったはずです。
 
 探検終了後、白瀬は再び大隈に電報を打っています。わびしいことに、これもやっぱり金の心配でした。
「開南丸帰朝同時に、総員の給料、手当約2万円余要る。ご準備を願う」

 白瀬はその後、抱えた借金返済に追われ、不幸な末路をたどりました。後援した雑誌『成功』もつぶれ、村上俊蔵は病死します。

 残念というか情けないことですが、日本人の探検家は、たいていの場合、むなしい最期を迎えることが多いのです。


制作:2005年5月15日

<おまけ>その後の南極観測
 
 白瀬に何の援助もしなかった日本政府は、日章旗が立った45年後の1957年1月29日、南極に昭和基地を建設しました。この1月29日が「南極の日」。

 白瀬が名付けた「開南湾」や「大隈湾」などの地名は、現在でも公式なものとして採用されています。もちろん、「大和雪原」も公式に認められていますが、極地研ニュースNo161によれば、なぜかこれだけ各国の地図から消えてるんだそうです。なんだか納得いかないですが、ここらへん、強く主張しない政府の責任ともいえるでしょう。

 というのも、白瀬の探検の後、アメリカのバードがこれらの場所に英語名を名付けたとき、日本政府は何の抗議もしなかった前歴があるからです。さいわい、バードが白瀬の命名を尊重したため事なきを得ましたが、一歩間違えば、白瀬の命名はすべて抹殺されているところでした。
 
 南極観測船の名前は初代が「宗谷」、次が「ふじ」。そして3代目が「しらせ」です。その「しらせ」は、2007年に耐用年数がすぎ、なかなか後継船の予算がつきませんでしたが、2009年に2代目「しらせ」が就航しています。

宗谷
船の科学館に係留保存されている「宗谷」
   
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