古河電工・富士通の誕生
足尾銅山が作ったニッポン
あるいは国際資源投機のはじまり

足尾銅山製錬所の大煙突
足尾銅山製錬所の大煙突


 江戸時代、日本は世界に冠たる資源大国でした。代表的なのが銀と銅です。
 しかし、幕府は1668年、銀の流出を止めるため、輸出を禁止。そのため、代替品として銅の必要性が増してきました。

 幕府は、1610年(慶長15年)に発見された足尾銅山に加え、尾去沢(秋田県)、別子(愛媛県)の開発に乗り出します。最盛期、日本では毎年4000トンほどの銅が産出され、日本は世界最大の産銅国となりました。

 足尾銅山は、幕府直轄の鉱山として採掘が続き、幕末には「坑道が8008もある」といわれる蜂の巣状の山になっていました。

 1877年(明治10年)、この鉱山を買ったのが、生糸などで大儲けしていた古河市兵衛です。
 古河市兵衛は、42歳のとき会社が破産し、ほぼ一文無しになってしまいます。ただ、破産のとき、自分の財産を率先して提供したことで、業界での信頼を勝ち取ることに成功しました。1万円札の肖像となる渋沢栄一もその1人で、足尾銅山の買収に、傘下の第一銀行から巨額の融資をしてくれました。

 足尾銅山の購入価格は4万8380円でしたが、いざ採掘を始めると、1年めは922円の赤字となりました。

 古河は、坑夫に奨励金を払う、排水のための手押しポンプや運搬用トロッコを導入するなど業務改善を図ります。
 銅の生産額が徐々に上がるなか、1884年(明治17年)、大鉱脈が発見されました。1884年5月の1カ月間の銅の生産量は、1882年の年間生産量に匹敵しました。

小滝坑
当初の小滝坑


 1885年(明治18年)、古河は勝負をかけ、一気に全山を採掘するための「通洞坑」を開きます。掘削には、蒸気タービンを動力にした削岩機や、ダイナマイトによる発破など最新技術が使われ、1896年(明治29年)に完成。これが、最盛期、日本の産銅の4割を占めた足尾銅山の大隆盛につながります。

通洞坑
通洞坑の入り口


 通洞坑の掘削が始まって数年後の1888年(明治21年)、横浜にあったイギリス系の商社「ジャーディン・マセソン商会」が古河のもとを訪れ、向こう3年間、足尾銅山で採掘されたすべての銅を買うという魅力的な提案をよこします。
 これは、パリにあった金属商社が、世界中の銅を買い占めるための戦略でした。世界初の銅の買い占めは、1860年、イギリスのスウォンジーで行われましたが、これは2度めの買い占め事案です。

 当時、世界中で、銅の生産額が減少していました。
 1886年(明治19年)の世界の産銅量は21万トンで、前年に比べ1万トンの減少です。翌年は、さらに減少する気配でした。ヨーロッパ市場の銅の在庫はまもなく枯渇しそうでした。

銅鉱石
銅鉱石


 この状況で、パリの金属商社は銅の買い占めに乗り出します。実は、この会社は以前スズの買い占めで儲けており、2度めの成功を夢想したのです。
 金属商社は銀行などによるシンジケートを結成し、アメリカのアナコンダ銅山、スペインのリオ・ティント銅山などを買い占め、あっという間に世界の8割の銅を押さえました。 そして、ジャーディン・マセソン商会経由で足尾銅山にも手を伸ばし始めたのです。

 古河はこの交渉に乗り、年間産出量1万9000トンの銅を向こう29カ月間にわたって独占提供することになります。ところが、契約の直前になって、ジャーディン・マセソン商会は「契約主はフランスのシンジケート」だと言ってきます。これに納得しなかった古河は、ジャーディン・マセソン商会との契約に固執し、シンジケートの契約は拒否しました。

ジャーディン・マセソン商会
ジャーディン・マセソン商会へ引き渡した銅の領収書(『翁の直話』より)


 銅の値段は高騰を続けます。
 1トン40ポンドだった銅は105ポンドまで上昇します。しかし、古河はシンジケートと契約していなかったため、この高騰にも縁がなく、世間では「売り損じの馬鹿者」扱いされました。

 しかし、この高値を見て、アメリカなど世界中の銅山で増産が始まります。市場の在庫はあふれ出し、最後は35ポンドまで暴落し、シンジケートは破産。逆に、シンジケートと契約していない古河は大きな損害をこうむることなく、この危機を乗り越えます(『財界巨人叢書』第1編ほかによる)。

足尾銅山の製錬所、選鉱所跡
当初の製錬所、選鉱所跡


 なお、ジャーディン・マセソン商会は、前身は東インド会社です。その長崎支社がグラバー商会で、坂本龍馬や岩崎弥太郎(三菱財閥)を支援したことで知られています。

 ジャーディン・マセソン商会との契約は、もともとの生産量を大幅に上回っていたので、古河は増産のため、新しい技術を一挙に投入していきます。これが、日本初の技術を次々に生み出しました。
 たとえば、水力発電、ロープウェイによる鉱石運搬、溶鉱炉、電車などです。

 1887年(明治20年)、ドイツ・シーメンスの営業マンが、水力発電を売りにやってきました。古河はこの新技術をまるごと購入し、間藤発電所を建設。これが日本初の発電所で、この電力を使って排水ポンプ、坑内の巻き揚げ機、電話などの導入が進みました。

足尾銅山坑内の巻揚機
坑内の巻揚機


 鉱石運搬のためのロープウェイは、索道と呼ばれるもので、1890年(明治23年)に導入されました。当初は輸入品でしたが、1902年(明治35年)に足尾銅山の技師・玉村勇助が独自の「玉村式索道」を考案し、貨物用索道の国産化が図られます。現在、スキー場に設置されたロープウェイは、乗降時にいったん停止しますが、これが玉村式索道の特徴です。玉村式索道建設は、現在、日本ケーブルとなっています。

足尾銅山選鉱所
選鉱所まで伸びる索道(左手)


 1897年(明治30年)には、足尾銅山坑内に日本初の電気機関車が導入されました。また、鉱山周辺には足尾銅山馬車鉄道が敷設されましたが、途中の「古河橋」付近は後に電化されています。

 世界有数の産銅国だった日本ですが、銅の精錬技術はなく、長らく粗銅のまま輸出していました。これを電気精錬できるようになったことで、輸出は大きく増えることになります。東京の本所にまず本所溶銅所ができ、これが古河電気工業の基になりました。
 同社は、1906年、中禅寺湖の発電を利用した日光電気精銅所も作り、さらに電線メーカーとして成長していきます。その後、古河電工は、光ファイバーケーブルの実用化に世界で初めて成功しています。

日光電気精銅所
日光電気精銅所


 古河電工は、電線の被覆技術を生かし、1917年(大正6年)、アメリカのグッドリッチと合弁で横浜ゴムを設立。これは、現在、国内3位のタイヤメーカーです。

 さらに1923年(大正12年)、古河電気工業はドイツのシーメンスと合弁で、富士電機製造を設立。この「富士」は、古河の「フ」とシーメンスのドイツ語読みジーメンスの「ジ」を合わせて命名されました。富士電機は、もともとドイツ製の電気機械の輸入をしていましたが、川崎に新工場ができると、自ら発電機械やモーターの製造に取り組みました。ちなみに、現在の富士電機は自販機の国内シェアでトップです。

富士電機の川崎工場
富士電機の川崎工場


 富士電機は、坑内で使用される電話の自動交換機を製造しましたが、後にこの電話・通信部門が独立し、富士通になりました。さらに、数値制御の工作機械部門が独立したのがファナックです。

 1890年(明治23年)、渡良瀬川で大洪水があり、上流にある足尾銅山から流れ出した鉱毒によって、広範囲で稲が立ち枯れる問題が起きました。いわゆる足尾銅山鉱毒事件です。翌年、田中正造が国会で発言したことで、大きな政治問題となりました。

本山製錬所
本山製錬所(タンクは硫酸貯蔵)


 以後、排煙と排水のクリーン化が進みます。排水は浄水場で対処しましたが、排煙への対処はなかなか難しいものがありました。排煙に含まれる硫黄酸化物を取り除くには苛性ソーダが必要で、この製造メーカーが旭電化(現在のADEKA)です。旭電化は、後に、高砂香料や日本農薬などを設立することになります。

足尾銅山浄水場
浄水場


 また、鉱石から金属を取り出す製錬事業を行っていたのが大阪製煉で、ここから東亜ペイント(現在のトウペ)が誕生しています。その後、アルミニウム製錬のために日本軽金属も設立されました。

 足尾銅山では、もともとツルハシやノミ、金槌で手掘り作業をしていましたが、1885年(明治18年)、輸入された削岩機を使うことになります。しかし、これは日本人の体格に合わず、やはり国産化が始まります。日本初の削岩機を製造したのは現在の古河機械金属。

 この技術は、古河ロックドリルの「トンネルジャンボ」という巨大機械に結実しており、現在もリニアモーターカーの建設現場では、このトンネルジャンボが活躍しています。

足尾式の掘削機
足尾式の掘削機


 1900年代初頭、アメリカで「セーフティ・ファースト」という安全運動が巻き起こります。これを受け、足尾銅山の小田川全之(おだがわまさゆき)が、1912年(大正元年)、「安全専一」(あんぜんせんいち)と書かれた標示を掲示します。これが日本の安全運動の創始だとされています。

足尾銅山「安全専一」の掲示
「安全専一」の掲示


 1899年(明治32年)、古河市兵衛は、鉱山開発についてこう語っています。

《鉱業を起こすということは、新しい植民地を拓くように、山奥に新しい町や村を建てることです。衛生のために病院が必要ですし、教育のために学校も必要となります。信仰心を励ますために寺院も建てねばならず、お祭りも必要。道路も開き、鉄道も開き、場合によっては船も持たねばならず、食べ物や日用品の手配、伐採・植林、火事や疫病といった非常時の用意も必要です。もっと際どい言い方をすると、トイレの世話までしなければならないのです》(『翁の直話』を意訳)

本山小学校講堂
国の有形文化財「本山小学校」講堂
(小学校に託児所や講堂があるのは珍しかった)


 足尾銅山は、日本を支える先進技術の基礎を生み出しました。そしてさらに、日本の都市開発のモデルともなったのでした。

通洞変電所
現在も使用されている通洞変電所

日立製作所の誕生


制作:2019年6月3日

<おまけ>

 排煙により、鉱山の周辺は完全なハゲ山になってしまいました。そのため、現在でも鉱山周辺では植林が続けられています。しかし、足尾銅山周辺は急峻な山が多く、植林は非常に困難でした。土、肥料、麦ワラを混ぜて「リョッカー」でプレスしたものをひたすら並べていくという、非常に地道な作業が、長らく続いたのでした。

足尾銅山の植林
植林風景(足尾環境学習センター)

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