企業城下町の誕生
JX金属と日立製作所
高さ156mの大煙突
JRの日立駅を降りると、目の前に大きな「タービン」が展示されています。これが同じ軸上にいくつもつながり、蒸気によって回転することで発電できるのです。
製造したのはもちろん、地元の日立製作所です。
日立駅前のタービン
駅の左手には、不思議な円形ベンチがあります。この円の大きさは、日立を象徴する156m大煙突の先端部分のサイズを表しています。2019年6月、この大煙突をテーマにした映画『ある町の高い煙突』が公開されますが、今回はこの煙突を中心に、企業城下町の誕生についてまとめます。
円形ベンチ
日立製作所の創業を語るには、久原房之助と小平浪平の2人の人物について触れる必要があります。
小平は、1900年(明治33年)、東京帝大の電気工学科を卒業後、藤田組(現・DOWAホールディングス)が経営する小坂鉱山(秋田県)に入社します。このときの所長が久原房之助でした。久原は、小坂鉱山を銀山から銅山に変えて復活させることに成功します。
小坂鉱山(手前は鉱山事務所)
その後、久原は藤田組を退社して、茨城県の赤沢銅山を買収、日立鉱山と改称しました。小平もまもなく入社しています。
久原は、小坂鉱山の経営の仕組みを流用して、日立鉱山の開発を進めます。
赤沢銅山は、重金属が含まれた鉱毒水による汚染、大量の樹木伐採による洪水など数多くの問題を抱えており、うまく操業できていませんでした。鉱山買収直後の1907年の段階で、近隣地区の8割で田植えができない状態でしたが、久原は土地の買収や鉱毒除去施設の拡充で対応しました。
日立鉱山の選鉱場
日露戦争後、弾丸に使う銅の生産は飛躍的に伸びています。1908年、久原は郊外に製錬所の建設に乗り出します。場所は、火事で大伽藍が消失して空地になっていた大雄院。当時、日立駅は助川駅と呼ばれていましたが、助川と大雄院を結ぶ鉱山専用電車の敷設も始まり、一帯は活況を呈します。
しかし、精錬所が稼働を始めると、周囲はひどい煙害に悩むことになります。新田次郎の『ある町の高い煙突』では、煙は黄色で「気体というよりも重い液体」のようだったと記録されています。
《黄色い煙は、煙のようには見えなかった。それは黄色い洪水が谷間に沿っておし出して来るように見えた。きわめて、比重の濃い、気体というよりも、重い液体が、谷間の中ほどを流れる川とともに、ゆっくりと下に向かって移動していくように見えた。既に谷間は、黄色い煙におおいつくされていた。黄色い煙の先端は、村の谷間を抜けて出て入四間村の穀倉地帯ともいうべき、田圃の方へおし出そうとしていた。黄色い煙には、切れ目がなかった。川の水の流れに切れ目がないように、黄色い煙はほとんど、濃淡の差もみせずに、かたまりあって動いていた》
このガスは刺激臭のある亜硫酸ガス(二酸化硫黄)で、周囲の桑やタバコをあっという間に枯らしていきました。
銅の精錬で起きる煙害は、小坂銅山や別子銅山(愛媛県)でも起きていましたが、やはりここでも起きてしまったのです。
旧小坂鉱山工作課原動室
日立鉱山は被害の補償に応じますが、それは莫大な額になりました。1908年に2万円あまりだった補償金は、1914年には23万円あまりになっていました。これは銅の売上の3%以上です。この額が毎年続くと、企業の存続も厳しくなります(『日立市史』による)。
日立鉱山は、排煙を希釈化するため、1911年にムカデのような長い神峰煙道(百足煙突)を作りますが、これは被害を悪化させるだけでした。さらに政府の命令で、1913年に36mの命令煙突(阿呆煙突)を立てますが、まったく効果はありません。
現在の精錬所(右下が阿呆煙突)
この間、小平は、日立鉱山で発電所の建設を次々に成功させ、その後、工作課長として、機械の修繕を担当します。
日立鉱山の発展は、先端技術の積極的な導入や機械化の影響が大きかったのですが、機械の電化という重要な部分を小平が担っていきます。
修理工場に過ぎなかった工作課ですが、徐々に機械の内製化に着手していきます。最初に作った機械が、1910年の国産初の5馬力モーター3台です。まだ日立製作所は存在していませんが、これが第1号の製品でした。
国産初の5馬力モーター(日立市郷土博物館)
小平は、製造に自信を持ち、久原に新工場の建設を頼み込みます。工場の場所は、助川駅から数キロ離れた芝内です。鉱毒水の沈殿で荒れ果てたこの土地に4000坪の土地を押さえ、1910年、「芝内製作所」が誕生しました。初めて社外に販売した機械は変圧器20台です。1912年、会社は日立製作所と改名されました。
1914年、第一次世界大戦が起きて大規模な機械の輸入が途絶すると、電気業界は活況を呈するようになりました。これが日立製作所の発展に結びつきます。
日立鉱山では、相変わらず煙害に悩まされていましたが、中央気象台の調査で、上空に安定した強い風が吹いていることが判明します。この層まで届く高い煙突を立てれば、煙は拡散する可能性が高くなります。
こうして、工作課の設計により、1915年、高さ156mの大煙突が完成します。労役人夫は男3万2389人、女4451人の合計3万6840人。足場の丸太は3万1650本、鉄筋319トン。総経費は15万2281円でした。この煙突のおかげで、煙害はみごとに激減するのです。
大煙突の建造(日立市郷土博物館)
日立鉱山は、従業員確保のために、福利厚生施設の整備に熱心でした。
大正時代に、採鉱所のある地区に社宅が11カ所、日用品の販売所は7カ所、病院は2カ所開設されています。
鉱夫が住んだ長屋は6戸からなっていて、各戸が土間付きで6坪の広さです。炊事は露天の共同洗い場でおこなわれ、共同便所。家賃と電気代、障子代は無料で、税金も会社負担でした。役員の社宅はあえて外見を粗末に作ったとされています。米は原価以下で販売され、月末に賃金から差し引かれる仕組みでした。
さらに、娯楽施設として「共楽館」が建てられ、東京に負けないような映画が上映され、2000人が来場したこともあると記録されています。これは、小坂鉱山にあった康楽館を参考にしたものと思われます。
小坂鉱山・康楽館
日立には、こうして近隣の農村から次男坊、三男坊が相次いで就職に集まってきました。助川駅前も発展し、明治時代にすでに旅館などが集まった銀座通りができています。また、1913年(大正2年)には市街に電灯がつき、1923年には電話が開通しました。
共楽館
日立製作所は、タービンや変圧器などの発電システムを主に製造し、1915年には日本最大の1万馬力水車の製造に成功します。
日立鉱山は銅を生産しているのに、銅線は製造しておらず、他社から電線を買っていました。そこでこの内製化が始まり、1918年に工場が完成します。これが後に日立電線(現・日立金属)になりました。
同時期、長らく難航していた扇風機の量産に成功し、1924年には国産初の電気機関車ED15形の製造に成功。こうして、家電から重電まで製造する日立製作所の基礎ができました(なお、初の輸出製品は1926年の扇風機です)。
国産初の電気機関車ED15形
1923年、関東大震災が起きると、被害が軽微だった日立製作所に注文が殺到し、東京の電気や市電の復興に大きく貢献することになります。かくて、東京移転の声もあった日立製作所は、日立で成長していく道を選びます。助川駅前には1907年、セメント工場ができ、のちに日立セメント(日立製作所とは無関係)になっています。こうして、日立には大きな企業城下町ができていったのです。
日立鉱山は、地元への補償とともに、熱心に植林を続けました。伊豆大島のオオシマザクラは、噴煙地帯でも生育することから、日立でも大量に植林されました。およそ1200ヘクタールに500万本が植えられ、そのうち半分以上がオオシマザクラです。現在の日立は緑の多い町になっていますが、これは20年近い植林のおかげなのです。
日立市内から見た大煙突(緑に注目)
●日産コンツェルンの誕生
制作:2019年5月13日
<おまけ>
大煙突の完成で排煙被害がゼロになったわけではありません。亜硫酸ガスの処分には、
・排煙に含まれる亜硫酸を酸化して硫酸を作る
・亜硫酸に硫化水素を化合させて硫黄を作る
・硫黄を二硫化炭素に変える
などの対策が考えられました。1939年、鉱山内に硫酸工場が完成し、さらに1951年、高機能の硫酸工場が完成し、排煙問題はほぼ解決することになりました。日立鉱山は日鉱金属となり、現在はJX金属となっています。
なお、大煙突は1993年に自然倒壊し、高さ54mになりましたが、現在も都市鉱山などの精錬事業で使われています。
別角度から見た大煙突
<おまけ2>
日立にはユネスコ無形遺産に指定された「日立風流物」という7年に1度のお祭があります。祭り自体は、1695年、徳川光圀の命を受けて始まったものですが、山車の上でからくり人形芝居がおこなわれるのです。明治中期から山車の大型化が始まりました。大煙突が起工した年、盛大な山車が出たことから、地元では「大煙突の完成の前祝い」と喜んだと記録されています。企業城下町では、祭りもその支えになっていたのです。
日立風流物