ミャンマー「軍票」の旅
あるいは「大東亜金融圏」の誕生
ラングーン入城(後ろはイギリスのビルマ総督府)
ミャンマーの首都ヤンゴンには、「独立の父」アウンサン将軍の名前にちなんだ市場「ボージョーアウンサン・マーケット」があります。
ここを歩くと、「日本のお金あるよ」などと頻繁に声を掛けられます。
お金というのは、戦争中、日本軍が流通させた現地紙幣「軍票」のことです。
軍票は「軍用手票」の略語で、軍の物資調達や占領地経営のため、一時的に使われる通貨です。かつては「軍用切符」「軍用紙幣」「軍用手形」とも言われました。
当時のビルマでばらまかれた軍票は、パゴダ(仏塔)をデザインした全8種類で、表面に日本政府(JAPANESE GOVERNMENT)と書かれています。セットでだいたい5ドルくらい。
というわけで、今回は、ミャンマーの軍票から、植民地の金融支配についてまとめます。
ビルマ軍票(1942年)
1941年12月8日、日本は英米に宣戦布告し、太平洋戦争が始まります。
その8日後の12月16日、政府は「南方経済対策要綱」を決定しました。
まず、オランダ領インドネシア、マレー、ボルネオ、フィリピン、ビルマを「甲地域」とし、占領の上で、資源確保を目指すと宣言(フランス領インドネシア、タイの「乙地域」は占領を目指さない)。
通貨に関しては、当初は現地通貨と同じ軍票を使用することが決められました。つまり、フィリピンではペソ、マレー・ボルネオでは海峡ドル、蘭領インドネシアではギルダー、そしてビルマではルピーの軍票が、現地正貨と混在して使われることになったのです。
現地正貨と軍票と日本円とのレートは原則1:1(等価)で、発券制度(中央銀行)が整い次第、軍票を回収し、金融を統制下におくことを目指しました。
開戦と同時に日本軍はタイへ進駐し、バンコクでビルマ人の兵士を募集。12月28日、「ビルマ独立義勇軍」が誕生します。
ビルマ独立義勇軍の第1回観兵式
1942年2月16日(シンガポール陥落の翌日)、東條英機首相はビルマについて次のように発表しました。
「帝国のビルマ進攻の真意は、英国の軍事拠点を覆滅すると共に、重慶政府屈服のため、米英の援蒋路(蒋介石への連合軍の支援ルート)を遮断せんとするにあり、固(もと)よりビルマ民衆を敵とするものにあらず。
ビルマ民衆が100年に亘(わた)る英国の桎梏(しっこく)より離脱して帝国と相(あい)携え、大東亜の建設に協力し来(きた)るに於いては、帝国は欣然ビルマ人年来の宿望たるビルマ建設に対し、速(すみやか)に独立の栄誉と積極的なる協力を与えんとするものなり」
日本軍は、国境の山越えで、1942年3月8日、首都ラングーン(現ヤンゴン)を占領します。
ビルマ進軍(奥の寺院はスーレー・パヤー)
現在のスーレー・パヤー
1942年3月、「南方開発金庫」が誕生し、ここが軍票の流通を担うことになりました。
この直前の1月24日、金庫の創設について、賀屋興宣蔵相は次のような国会答弁をしています。
「南方の発券対策としては、現地に発券機関のある場合は育成し、できるならより大きくしたい。日銀はそれらの中心として大東亜金融圏といったものを考えている」(『大阪毎日新聞』1942年1月27日)
シュエダゴン・パゴダに進軍した日本軍の戦車
現在のシュエダゴン・パゴダ
5月1日、日本軍はビルマ中部の古都マンダレーを占領。
日本軍は、援蒋ルート遮断のため、さらにビルマ北部から中国・雲南省に進軍します。
ビルマを支配していたイギリス軍は、あっけなく撤退し、日本はビルマ全土を支配下に置くことになりました。しかし、イギリスは撤退に際し、町を焼き、鉄道を破壊し、油田や精米所など、重要施設をことごとく破壊しました。
イギリス軍が撤退に際し破壊した石油タンク
日本は、いの一番に精米所を復活させ、日本ビルマ米穀管理組合を設置、米の流通網を再建します。
さらに、鉄道を再建し、タイとビルマを繋ぐ泰緬鉄道を新設。そして、北部の綿花栽培を推進し、地下資源の開発に乗り出します。
日本軍が再建した精米所
1942年10月15日、ビルマ貨幣調整令の施行により、ルピーとルピー軍票が正式に通貨として認められました。
この際、12進法と16進法が混在していた通貨体系(1ルピー=16アンナ、1アンナ=12パイ)を10進法に統一しました。
12月8日には、途絶していたビルマの庶民向けの銀行を再開します。
ビルマにおいて、ルピー軍票は大人気となりました。当時の報道によれば、「全く圧倒的」な人気でした。
《山の中の樵夫、狩人たちは日本軍を待ちかねていたように旧イギリス紙幣の束をつかんで駈出し、兵隊さんたちに軍票との交換をせがんだ、軍票への信頼は絶対的だ、去る四月末横浜正金(銀行)ラングーン支店が再開されると、ビルマ人、印度人の預金者殺到、毎朝黒山を築き整理員が声を嗄(か)らす騒ぎ》(『東京朝日新聞』1942年12月16日)
現地通貨ルピーとルピー軍票は等価なのに、どうして軍票は人気を集めたのか。
その答えを書く前に、日本の軍票の歴史について触れておきます。
日本では、西南の役(1877年)の際に発行された「西郷札」が近代初の軍票です。
西郷札
日清戦争が起きると、政府は公式に軍票発行の準備を進めます。どうしてかというと、当時は事実上、銀本位制度となっており、戦地では銀貨および銀兌換紙幣を使っていたため、戦費拡大によって、銀の保有高が見る間に減っていったからです。
そこで、開戦から4カ月後、1894年11月に軍票発行が閣議決定します。ところが、図案の決定や印刷に手間取るうちに戦争が終結してしまい、1枚も発行できませんでした。
日露戦争では、前回の失敗に鑑み、風雲急となった段階で準備を進め、開戦前には財政上の措置がすべて終了していました。結果、軍票の総額は1億4841万円と、当初予想をはるかに超える金額が発行されました。
このとき、軍票のメリットは次のように整理されました。
●実際に銀で費用を払うのに比べて、運搬や保管が楽である
●正貨である銀の使用を抑えられる
●日本円の紙幣の過剰流通を防げる
●日銀発行ではなく、政府発行のため、使い勝手がいい。国債とも異なるので、歳入・歳出という考え方をしなくてもいい
日露戦争当時の軍票(国会図書館『貨幣の話』より)
第1次世界大戦では、戦争の規模が小さかったので、軍票使用額は約300万円と小規模で済みました。
シベリア出兵では金本位制となりましたが、このときは円とルーブルの相場の変動がひどく、軍票は使いづらくものとなり、流通させるのに苦労しました。
満洲事変では軍票を発行しませんでした。その代わり、1932年に満州中央銀行が設立され、3年で通貨の統一に成功します。
支那事変では、杭州上陸後、軍票が使われました。
しかし、発行準備ができておらず、華北では朝鮮銀行券を使った結果、朝鮮銀行券がインフラを起こし、朝鮮支配への悪影響が強くなりました。華中では日本銀行券を使いましたが、もしこれが大規模に日本に還流すれば、日本経済にきわめて大きな影響を与えてしまいます。
そのため、日本軍は、華北では「中国連合準備銀行」を設立し「連銀券」を、華中では南京政府(汪兆銘の親日政権)の「中央儲備銀行」が発行する「儲備券」を、主要通貨とします。しかし、なかなかうまく流通しません。
実はこのとき、重慶の蒋介石政権が「法幣」を発行しており、激しいマネー戦争が起きていました。点と線しか押さえていない日本軍の紙幣は、「法幣」に比べ、明らかに信用力に欠けました。日本は軍票と物資を交換できる新たな組織を作り、軍票の価値を維持することに腐心します。
こうした失敗から学び、東南アジアでは、軍票の単位を現地通貨と同一にし、さらに交換レートを一定にしました。加えて、物資との交換、正貨である金との交換を保証した結果、軍票の信頼が高くなったのです。中国と違って、面の支配ができたことも有効でした。
マレー、シンガポールでばらまかれた軍票
1943年2月5日、賀屋蔵相は答弁で「南方について見れば……大東亜金融圏・大東亜物動圏と云ったものが生れて出たのである」(『東京新聞』1943年8月4日)と言っています。
1943年4月から、政府は南方開発金庫に通貨の発行権を認め、東南アジアに流通するすべての軍票を「南方開発金庫券(南発券)」とします。もちろん、これは事実上の新軍票です。
日本軍、ペグー(バゴー)占領
現在のバゴーの寝仏(顔が変わってる……)
1943年8月1日、ビルマ独立。10月14日、フィリピン独立。
そして、11月5日、東京に、満州国、南京政府、タイ、ビルマ、フィリピンの代表が集まり、「大東亜会議」が開かれました。
これをもって、大東亜金融圏は完成したといえるでしょう。
大東亜結集国民大会(大東亜会議)
しかし、当初、うまくいったように見えた東南アジアの軍票政策には、破綻の芽が出ていました。
それは、日本の海上輸送力の低下から生じました。日本は太平洋の戦闘に大量の船舶を割り振った結果、東南アジアで輸送力が低下し、ビルマで物資不足が深刻化します。
物資不足のなか、それでも物資を確保しようとすれば、軍票の増発しか手はありません。たちどころにインフレが進行し、さらに軍票の増発が進む悪循環となりました。
しかし、ここで大きな疑問が出てきます。軍票は金や日本円と交換可能です。現地で大量の軍票を発行すれば、当然、日本でもインフラを起こすはずでした。けれど、日本でインフレは起こっていません。いったいどうして大量の発行が可能だったのか。
『日本軍政下のアジア』という本が、中国・中央儲備銀行での例をあげて、その秘密を暴いています。それが1943年4月以降に始まった「預け合い」という方法です。
当時、日本の為替業務を専門に担当したのが「横浜正金銀行」です(戦後、東京銀行となり、現在は三菱UFJ銀行)。日本政府の資金は、中央儲備銀行経由で、横浜正金に入金される形をとりました。
横浜正金銀行
(1)まず、日本政府が、「臨時軍事費特別会計」から戦費の支出を横浜正金銀行の上海支店に命ずる
(2)横浜正金は、自行にある中央儲備銀行の金建て口座に、その全額を記入
同時に、中央儲備銀行は、自行にある横浜正金の儲備券建て口座に同額を記入
両行の預金には同率の利子が設定されており、これが「預け合い」
(3)必要に応じて、横浜正金は中央儲備銀行にある自行口座から儲備券を引き出して、日本軍に供与
これは一見、筋が通っていますが、実は、横浜正金にある中央儲備銀行の口座からは引き出しが禁止されていました。
(4)横浜正金は大量に儲備券を引き出すので、預金額に格差が生じ、横浜正金が中央儲備銀行に支払う利子が増大
(5)日本政府が横浜正金に利子を補助するので、横浜正金は困らない
(6)儲備券が乱発されるので、華中では大インフレが起きるが、日本に影響はない
この預け合いは南方でも同じでした。この仕組みによって、大東亜金融圏の通貨発行量はうなぎ登りに増大します。
儲備券の場合、
1941年末 2.4億元
1942年末 34.8億元
1943年末 191.5億元
1944年末 1397億元
1945年8月 2兆6972億元
南発券の場合、
1942年末 4億6326万円
1943年末 19億5481万円
1944年末 106億2296万円
1945年8月 194億6822万円(フィリピンのみ1月までの数字)
という状況です。
そして、日本の敗戦とともに、これらの軍票は紙くずになりました。
切手も同じように紙くずに
(日本が作ったビルマ郵便切手)
1995年、ミャンマー南部のジャングルで、金属製の箱が見つかりました。
箱を開けると、日本の軍票が大量に出て来ました。泰緬鉄道の建設時に使われた軍票です。しかし、せっかく見つかった大量の紙幣はもちろん何の価値もなく、観光客へのおみやげ程度にしかなりませんでした。
●ミャンマー・ゴールデントライアングルへ
●ミャンマー巨大建築の旅
制作:2015年8月24日
<おまけ>
ビルマは、戦後もなかなか独立できませんでした。
アウンサン将軍は、日本軍が育てたビルマ独立義勇軍のリーダーで、日本の軍事訓練を受けています。当時は、ビルマの漢字表記「緬甸」にちなみ、「面田(おもた)紋次」を名乗っていました。
1945年3月27日、アウンサンが指揮するビルマ国民軍はイギリスに寝返ります。
1945年に発行されたビルマ政府の小切手の一種
しかし、日本の敗戦後も、イギリスはビルマ独立を認めません。アウンサンは1947年7月19日、政敵に暗殺されてしまいます。これはイギリスの差し金だったと噂されました。
1948年、ビルマ連邦として独立。
1962年、かつてアウンサンとともに日本軍の軍事訓練を受けたネ・ウィン将軍が軍事政権を樹立。
長期政権となったネ・ウィンは、1964年、1985年、1987年と3回の廃貨を実施。ミャンマーでは「金はいつか紙くずになる」時代が長く続いたのです。