ミャンマー「過剰建築」の世界

ミャンマー・チャイプーン・パヤーの4面仏像
チャイプーン・パヤーの4面仏像


 1881年、ビルマ南部の町ペグー。
 新設する鉄道の堤防工事に使うため、インド人技術者が付近の小山を崩して赤土を集めていたところ、山の中から突如、巨大な寝仏が現れました。
 寝仏の大きさは全長55m。994年に建造され、1757年にペグー王朝が倒れるまで、信仰の中心となっていた仏像です。

ミャンマー・シュエターリャウン寝仏
修復されたシュエターリャウン寝仏(1930年頃)


 この仏像は一体どうやって作るのか。
 内部は木とレンガで支えられ、その周りを漆喰で固めてあります。ちょうど寝仏の裏にその様子が描いてありました。

ミャンマー・シュエターリャウン寝仏
頭の方向が反対なのもご愛敬(シュエターリャウン寝仏)

ミャンマー・シュエターリャウン寝仏
足の裏


 ペグーは、現在バゴーという名前になっていますが、この旧王都には、ほかにも多くの仏教建造物があります。

 たとえば、シュエモードー・パヤーという仏塔は、仏陀の遺髪が2本納められているとされ、篤い信仰を集めています。
 かつては王都の中心にあり、当初は高さ23mだったのが、少しずつ上乗せされ、1796年には91mの高さになりました。その後、地震で大きな被害に遭いますが、今では114mという巨大な塔になっています。

ミャンマー・シュエモードー・パヤー
シュエモードー・パヤー(右手は地震で崩壊した昔のパゴダ)

 
 こうした巨大建築はいまでも作られ続け、最近では全長60mのミャッターリャウン寝仏もできました。いずれも信者の寄進によって作られたもので す。

ミャッターリャウン寝仏
ミャッターリャウン寝仏


 ミャンマーでは、1750年まで、戦争と革命が相次ぎ、国内は常に混乱と圧政が続きました。

 あるとき、ミャウ・ミョ村の青年が反乱を起こし、ペグー王朝を倒しました。青年はアラウンパヤーと改名し、1752年、コンバウン王朝を作ります。
 しかし、これで平和になったわけではなく、その暴政ぶりは、周辺地域を恐怖に陥れるほどでした。

 1819年、7代目の王となったパジードーは、隣国インドに進出してきたイギリスと敵対し、国内のイギリス商人をいじめまくります。さらに越境してベンガルに侵入。
 こうして第1次イギリス・ビルマ戦争(英緬戦争)が起こりました。

英国からベンガルを奪取するよう命じるビルマ国王
1823年、英国からベンガルを奪取するよう命じるパジードー
(トロント大学所蔵『Hutchinson's story of the nations』による)


 1824年5月、英海軍はラングーンの港に入り、ビルマの敗北が決定します。ビルマはアラカンなどいくつかの都市を割譲しました。

ラングーンに入港する英海軍
ラングーンに入港する英海軍(ウィキペディアによる)


 上の絵はムーアの絵画ですが、左手に描かれたパゴダが、ラングーン中心部にあるスーレー・パヤー。高さ46mで、ここにも仏陀の遺髪が納められています。
 このラングーンで最も有名なパゴダが、シュエダゴン・パヤーです。

シュエダゴン・パヤー
シュエダゴン・パヤーの玄関

シュエダゴン・パヤー
夜も煌々と輝くシュエダゴン・パヤー

 
 1880年、オーストリア・ハンガリー帝国の軍人で地理学のG.クライトナーが、この地を旅しています。

《(ラングーンの)名所の中で第一級のものと目されるのは、ラングーン北方のシュウェダゴンという大黄金塔である。すでに往時から、この堂々たる建造物はビルマ諸王の間でも桁外れに崇拝され、今でも毎年、何十万という巡礼がこの地を訪れて、塔の下に埋葬されている仏陀の8本の髪に祈りを捧げる。この寺院の中央塔はどっしりとした煉瓦造りであり、尖塔は純金製の王冠をかたどっていて、塔は1インチの厚さの金で被覆されている。

 各巡礼者は祈祷を捧げた後、数枚の黄金の小さなプレートを壁面に貼りつける。裕福な藩王ともなると、黄金を荷車で運び込み、それを僧侶に託してパゴタの飾りにさせる。こうして、このパゴダは、日に日に増えゆく、無限の富を具現する》(『東洋紀行』)


 熱心な仏教徒が多いミャンマーは、治安もよく、人々はみな穏やかです。
 そして、寄進が推薦されることで、ビルマには次々に大規模な寺が建造されていきます。もちろん、寄進によって下々に財産が溜まることはなく、これが反乱を抑える面もありました。

ヤンゴン市街
庶民は貧乏(ヤンゴン市街)


 ミャンマーは地下資源が豊富で、ヒスイやルビーなどの宝石は世界最大の産出国です。それだけでなく、石油、天然ガス、金、銀、銅、さらにレアメタルまで豊富に埋蔵されています。木材や米も大量に採れ、アジア有数に恵まれた国です。

 しかし、かつては財産が王国に独占されたため、その後はイギリスに支配されたため、第2次世界大戦後は社会主義・軍事政権が続き、社会は長らく停滞してきました。

ミャンマーの黄金の木
町の木も黄金色


 ミャンマーは現在も徴税システムがまったく整っておらず、その上、経済制裁もあり、財政はまったく豊かになっていません。
 政治が最悪の中で、人々は、寄進だけを最大の喜びにして暮らしています。
(現在はみんなスマホを持っていますが、ネットでさえ、解禁されたのは2003年です。もちろん検閲と規制だらけで、自由なものではありませんでした)


ミャンマーの少年僧
ミャンマーの少年僧


 さて、コンバウン王朝で、もっとも残忍だと言われた王が、9代目のパガンです。

 ただの気まぐれから奴隷の体に灼熱の釘を打ち込ませたり、別の奴隷の手足を重いハンマーでぐちゃぐちゃになるまで打ちのめすなど、その残虐ぶりは市中で噂になるほどでした。

 当然、国内在住のイギリス人にもその抑圧は及び、ここで第2次英緬戦争が勃発します。イギリスは再びビルマに侵攻し、1852年、ペグーを占領し、ビルマ南部を併合しました。

 続くミンドン国王は、王都を中部のマンダレーに遷都します。
 イギリス、イタリア、フランスと通商条約を結んだことで、イラワジ川沿岸が発展します。

 ビルマでは、国王が即位すると、ライバルになりそうな兄弟や親族を殺すことが通例でした。

 1878年、第11代国王のティーボーは、即位に際し、86人の兄弟親族を殺すという大惨事を引き起こしますが、国内ではそれほどの非難は浴びませんでした。
 ティーボーは即位後、大きな政治闘争にまきこまれ、マンダレーに引きこもった生活をしていました。

 1885年、イギリスはビルマに3度目の侵攻を開始、翌年、ビルマは完全にイギリス領インドに組み込まれました。
 ティーボーはビルマから追放され、これをもって最後の王朝が消滅しました。

ミャンマーの遊園地
ミャンマーの遊園地「ハッピーゾーン」


 ビルマは苛酷な政治体制が長く続きますが、庶民はのんきな性格で有名です。
 前述のクライトナーは、ビルマの前に日本の京都や函館を旅行しています。そして、ビルマ人と日本人の性格は似ていると書いています。

《ビルマの住民は、こだわりのない楽天的性質の持ち主であることから、日本人を連想させる。彼らはいつも朗らかな気分でおり、この世でいちばん心配を持たない人間の部類に入る。ビルマ人はいっさいの欲念をいだかず、甘美な無為を至上の喜びとしている。月に3日汗を流して働くと、その3ルピーの労賃で、その後の27日間飽きもせずにのらくらする生活費が十分まかなえる。

 儀式ばったことは宮中でしか見られず、庶民は何のこだわりもなく行動し、歓談、仮装芝居の興行、鐘楽を愛し、笑うことを好み、そしてよく笑う》(『東洋紀行』)


 ただし、こうした庶民は常に無能で怠惰な役人たちに完全支配されている、としています。

 そんなビルマの市民によく知られた巡礼地がヤンゴン近郊にあります。それが、チャイティーヨー・パヤー。
 いわゆるゴールデン・ロックと呼ばれるもので、巡礼者の寄付によって貼り付けられた金箔に覆われています。
 ゴールデン・ロックは仏陀の遺髪の上に載せられたものだと言われます。

ミャンマー・チャイティーヨー・パヤー
チャイティーヨー・パヤー
(本サイトの管理人も金箔を買って貼り付けてみたよ)

チャイティーヨー・パヤー
ゴールデン・ロックがいっぱい


 ミャンマーでは、自分のパゴダを作ることが最大の喜びとされます。とにかく、いかに来世を安らかに過ごせるかが重要なのです。
 そのため、死んでも葬式はいい加減で、遺体も火葬のあと、散骨されて終わり。ミャンマーに墓地がないといわれるのは、現世にあまり関心がないからです。

ビルマの火葬場
かつては火葬場にも巨大建造物が!(1930年頃)


 ちなみに、ミャンマーにはこんな格言があるそうですよ。
「今日できないことは明日やろう、明日できないことは明後日やろう、明後日できないことは、来世でやろう」


ミャンマー・ゴールデントライアングルへ
ミャンマー軍票の旅

制作:2015年9月1日


<おまけ>
 1918年に起きた米騒動では、ビルマ米が大量に輸入されて危機が回避されました。
 日本軍が侵略したにもかかわらず、戦後、食糧難だった日本を救ったのもビルマ米です。

 また、日本の平和条約/戦後補償は、1952年のサンフランシスコ講和条約がすべての基点となっていますが、ミャンマーはいちばん最初に賠償を受け入れてくれた国。日本にとって本当に感謝すべき国です。

 ヤンゴンの税関近くに、対岸ダラにわたる渡船場があります。この船や港は日本の支援によるものですが、対岸の町にはこんな宗教建築がありました。
 地球そのものを祀る不思議の国、それがミャンマーなのです。
ミャンマー、ヤンゴンの対岸のダラ
ヤンゴン対岸のダラのパゴダ
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