「自動車の燃料」探求110年史
日本初の電気自動車から、石炭自動車まで
行進する木炭自動車
1921年(大正10年)8月3日の夜、上野駅前の踏切で自動車と貨物列車の衝突事故が起きました。
事故を起こしたのは、三井高保男爵の車で、運転手は鈴木守貞という65歳の男でした。実は、この鈴木氏は日本初の運転免許取得者なんですが、この事故で免許を取り上げられてしまいました。
この鈴木氏のコメントが残されています。
「明治26年に、私は馬車の馭者(ぎょしゃ)として、三井家に雇われました。明治37、38年の日露戦争で馬車が徴発されると、新たにホワイトというスチーム機関の自動車を買われたので、その運転手を務めることになりました。
運転は、当時三越にいた、汽車の機関士だった中島君(井上公爵の運転手)と、現在大隈侯爵の運転手である林君とに教えてもらいました。林君は外国人に教えてもらったそうです。有栖川宮家でも、当時は車を買ったものの運転手がおらず、殿下自らが運転していたほどでした」(『明治事物起原』より)
注目すべきは、三井家が買った車がスチーム機関(蒸気機関)ということですな。
元はといえば、世界初の自動車は蒸気機関製なので、これは当たり前と言えば当たり前。
世界初のスチーム自動車(パリ工芸博物館の「キュニョーの砲車」、ウィキペディアより)
ところが、日本に初めて入ってきた車はガソリン車でした。1898年(明治31)年、フランス人のテブネが自動車「パナール・ルヴァッソール」を持ち込んだのが最初で、実際に築地〜上野間で試運転を行っています。
来日の目的は、日本と合弁で軍需工場を設立するためでしたが、賛同者が現れず、やむなく自動車を競売にかけて帰国します。
テブネが持ち込んだ日本初のガソリン車(ウィキメディアより)
続いて入ってきたのがその2年後、1900年の電気自動車「ウッズ」です。
この年、大正天皇(当時、皇太子殿下)が結婚するんですが、これを祝ってサンフランシスコ在住邦人たちが募金して自動車を贈ってきたのです。
当時のサンフランシスコ領事だった陸奥広吉(陸奥宗光の長男)と古河財閥の古河潤吉(陸奥宗光の次男)が動いて計画が実現しました。
献納を受けた宮内省では試運転を命じ、大手商社・高田商会の廣田精一が運転手を務めました。ところが、桜田門の参謀本部近くを運転中、驚いた老婆をよけ損ね、車はお堀の土手に乗り上げてしまいます。
宮内省は「こんな危険なものは召料できない」として、日本初の電気自動車は倉庫にしまい込まれてしまいました。
アメリカから献納された電気自動車(『明治事物起原』より)
1901(明治34)年には、横浜でアメリカの蒸気自動車「ナイアガラ」が輸入されます。これが販売目的で輸入された初めての車。
要は、日本にはガソリン、電気、蒸気自動車の順で入ってきたわけです。
これがたぶん蒸気機関自動車
後に「政界の指南番」と呼ばれる古島一雄が、選挙戦で使用(1911年)
ちなみに、自動車登録番号の第1号は明治屋の磯部長蔵で、これはキリンビールの運搬に使われました。
第2号は銀座・亀屋(洋酒販売・喫茶店)の杉本鶴五郎、第3号が三越(三井呉服店)の日比翁助だとされています。
三井呉服店(三越)のクレメント号(ガソリン車)
なお、わが国初の国産自動車は、山羽虎夫の山羽式蒸気自動車(1904年)ですが、これは試乗段階で失敗しています。
国産初のガソリン自動車は、有栖川宮が熱心に開発を進めた「タクリー号」で、1907年のことです。
また、国産電気自動車は、1911年、大倉財閥が経営していた日本自動車が試作したのが最初とされています。
国産ガソリン車の第1号のタクリー号に乗る有栖川宮
さて、その後、自動車はほとんどガソリンまたはディーゼルで動くようになりますが、実は大きな問題がありました。日本の道がガタガタで、きわめて運転しづらかったのです。
かつて日本の道路は「晴れれば黄塵が天を覆い、雨が降れば泥濘に脛(すね)を没す」と言われていました。
人力車や馬車の普及で、敷石や砂利道にはなっていましたが、車が走るには不十分でした。
1919(大正8)年、「道路法」や「道路構造令」などによって、基本道路計画が作られます。
翌年、大正天皇が300万円を東京の道路舗装費用として下賜。これを機に、東京市は道路局を開設し、組織的に道路整備が始まりました。大正10年から銀座〜万世橋間などの舗装が始まりましたが、関東大震災で大打撃を受けます。
その後、徐々に東京の舗装道路は拡充していきますが、特に国道15号(京浜国道)や国道2号は、最先端の舗装道路として有名になりました。
こうしてガソリン車は普及の一途をたどります。
舗装された阪神国道(尼崎付近、1936)
同時期、国道3号(九大付近、1936)はガラガラ
しかし、ここでさらに大きな問題が起こります。第1次世界大戦以降、ガソリンが貴重品になってきたのです。
ここで、自動車業界は2つの道を選びます。
1つめは合成石油(人造石油)を開発すること、もう1つは代用燃料で動く自動車を開発することです。
1926年、商工省内に「燃料調査委員会」が設置され、燃料に関する国策が決定されます。
そこで、合成ガソリンへの助成が決まりました。合成石油は「石炭液化」と呼ばれる技術で、水素添加や低温乾留法などがあります。
加えて、アルコールの強制混用や、サトウキビやサツマイモを原料にした燃料アルコールの醸造が進められました。
自動車も、ガソリン以外で動くさまざまなタイプが開発されていきます。
有名なのが木炭自動車。1930(昭和5)年頃から開発が始まり、1934年には実用化されました。助成金をばらまいたことで、20社ほどが開発しますが、1940年、日本燃料機合同会社(日燃)が設立され、1社独占になりました。
上から標準型の木炭自動車、薪自動車、石炭自動車
日燃は1940年12月から3カ月かけて性能試験を繰り返し、1941年、商工省から標準型認定を受けます。
木炭自動車以後、薪自動車、コーライト自動車を経て、ついに完全な石炭自動車が開発されます。石炭だけは日本はたくさん採れたので、これで「自給自足」自動車が完成したわけです。
ちなみに1941年2月に箱根でおこなわれた性能試験では、麓の三島神社で始動まで4分かかり、ここから箱根峠の頂上まで18kmを80分で走破しています。石炭の使用量は20kgでした。
薪自動車の構造図
このほか、天然ガス自動車、液化ガス自動車、アセチレン自動車などがありました。アセチレンって、水素と並んでもっとも爆発しやすい危険なガスなんですが、こんなものまで自動車の燃料に使われたんですね。
こうした苦しみの上に、現在の燃料電池車や電気自動車の発展があったんですな。
GMが2002年に公表した燃料電池コンセプトカー"AUTOnomy"
●ジープと米軍軍用車
制作:2013年11月18日
<おまけ>
1937(昭和12)年時点の、人造石油の技術についてまとめておきます。
石炭から合成石油を作るには以下の3通りの方法があります。
(1)石炭低温乾留
=石炭を500度ほどに加熱し、低温タールと揮発油を採取。コストは安いが石油になるのは12〜13%。朝鮮石炭工業の永安工場、三菱幌内工場(樺太)、日本製鉄輪西工場(北海道)、宇部窒素工場の4カ所で実施。
低温乾留で石油製造中に発生する副産物が、コーライトです。
コーライト自動車
(2)水素添加(直接油化)
=200気圧、400度以上の高温下で石炭に水素を加える。石炭の50-60%が石油化できるが、高コストで事業化の壁が高い。満鉄などが参画
(3)フィッシャー・トロプシュ法(間接液化)
=石炭に水蒸気を加えてガス化し、揮発油を合成。日本では事業化が遅れていたが、日鉱、日石の2社が参画予定
その後、商工省の予算ばらまきで、三井、三菱、住友、日本鉱業、日本電工、日本曹達、朝鮮窒素などが参入を表明していました。なお、人造石油に関しては、特殊会社・帝国燃料興業が一括で管理・指導していました。
このほか、石油でない液体を石油として代用する技術に「無水アルコール」製造があります。甘藷や馬鈴薯を使って無水酒精(アルコール)を醸造するもので、味の素系列の昭和酒造・川崎工場でのみ操業が行われていました。
なお、 石炭液化の技術は戦後も細々と続き、現在では、超高温原子炉によって少ない石炭で多くの人造石油が生産可能になりつつあります。