軍用車の払い下げ
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ジープ、あるいは進駐軍払い下げ自動車
東洋一大きいと言われた川西格納庫(兵庫県)にずらり並んだ米軍の軍用車
(『科学の友』1947年12月号より)
昭和20年8月に敗戦すると、まもなく日本各地に進駐軍がやってきました。
たとえば神戸には9月24日から3日間にわたって進駐軍が来たのですが、その3日間は各所で交通規制が行われ、学校も休みになりました。
当時少年だったイラストレーターの妹尾河童さんは、列をなしてやってくる米軍を沿道で眺めることにしました。以下、そのときの様子です。
《小銃だけでなく、ジープという機動力のある車も凄かった。日本軍の歩兵部隊にはこんな車はなかったし、ただひたすら歩いて戦っていたのだ。(中略)
Hは、次々とやって来て通過する幌付きの軍用トラックやジープの列を見ながら、「同じ軍隊でも、日本軍とえらい違いや。アメリカ兵は陽気やなぁ」と思った。沿道の市民も同じことを感じたのか、この間まで「鬼畜米英」といっていたアメリカ兵に手を振っていた》(『少年H』)
戦前の日本にも車はありましたが、今から見ると非常にレベルの低いものでした。ガソリンがないため、戦争末期には木炭で動く
木炭車
まであったほどで、当時の日本人にとってジープは本当に驚きでした。こうして進駐軍と言えばジープ、ジープと言えばアメリカ兵といったイメージが固まったわけです。
日本が誇る木炭自動車
せっかくなので、もうひとつジープのエピソードを書いておきましょう。当時もっとも繁華街だった浅草で、作家の高見順は無茶をするジープを見かけ、ひどく腹を立てました。以下、『終戦日記』より。
《ジープが来た。日本の女が乗っている。群衆の中にジープは割りこんでくる。どうするのかと思って、見ていたら、ジープは人がいっぱい詰まっている狭い仲見世に闖入(ちんにゅう)して行った。「ここは通れない」と、ジープに乗った女が注意すればいいのにと思ったが、ジープに乗っている女などは、変な優越感でも感じているのか、ジープはそのまま、仲見世の雑踏の中へ割り込んで行った。観音様がここに出来て以来、仲見世を通る自動車というのは、これが初めてであろう》(昭和21年2月3日)
浅草寺の参道を驀進するジープ。これってすごい状況ですが、こうした無茶も、日本人の少年には非常に魅力的に映ったことは想像にかたくありません。
で、実は当時の少年向け雑誌には、ジープの記事がかなり多いのですな。
「ジープ百面相」というイラスト記事(『科学の友』1946年4月号)
1948年当時のジープは最高時速105キロ。馬力は最大で60馬力なので、30度くらいの急勾配も上れました。重心がきわめて低いことから50度まで傾けても横転しません。さらに前面ガラスを倒すと背が低くなるため、飛行機で運ぶことも可能でした。それでいてガソリンタンクや電灯は上の方に置かれていたため、川を渡ることも問題なし。ついでにボルトやナットの種類が少ないため、整備も簡単でした。
ジープの最大の魅力はホイールベースの距離が短いことで、これにより最小回転半径が約5メートルと、狭い道路でも簡単に方向転換できました。まさに軍用車としてぴったりだったわけです。
日本の自衛隊でも活躍中の三菱ジープ
現在、ジープは米クライスラー社のブランドですが、もともと米陸軍が各メーカーに注文していたため、いろんな種類がありました。
具体的には1940年にバンタム自動車(後に倒産)が70両を試作。49日間の陸軍公式テストを受けた後、1500両の注文を受けました。さらにフォードが1050両、1941年にはウィリス・オーバーランド社が3万両製造しています。
ジープの商標はこのウィリス・オーバーランド社が所有していましたが、その後、カイザー → アメリカン・モーターズ → ルノー → クライスラー → ダイムラー・クライスラー → クライスラーと流転していきました。
なんだか、経営難に苦しむアメリカ自動車産業の苦しみが伝わりますな。
ところで、戦後日本に入ってきたアメリカ車はジープだけではありませんでした。物資豊かな米軍はなんと260種類もの車を持ち込んでいたのです。そして、1947年の終わり、日本復興のために1万7000両に及ぶ軍用自動車を払い下げてくれたのです。
どういう自動車が払い下げられたかというと……
GM・2.5トン積み6輪トラック
ダイヤモンド・4トン積み6輪トラック
クライスラー・4分の3トン積み4輪トラック
ダッジ(現クライスラー)1.5トン積み6輪トラック
ダイヤモンド社というのは現在どうなったかよくわからないんですが、このトラックは44.5度の急坂まで上れたそうですよ。
さて、払い下げられたトラックはどうなったのか?
もちろんそのままトラックで使う場合もありましたが、実は多くがバスに改造されました。外地からの帰国者も増え、人があふれるなかで、人間の移動が重要になってきたからです。
こうしてできたバスはこんな感じ。
日本中を走り回った改造バス
バスにはいずれもエンジンカバーに10センチ幅の白線が書かれていました。そして緑色のナンバープレートにはTOKYOやOSAKAと書かれ、9から始まる6桁の数字が書かれていました。なかには「JGR国」と書かれたものもあり、これは「省線国営自動車」の意味(要は国鉄バス)。
狭い日本では巨大なアメ車は不便きわまりないですが、戦後の日本では、たしかに役立っていたのです。
アメリカっていうのは、やっぱりすごい国なのでした。
制作:2009年2月1日
<おまけ>
アメリカ自動車産業のビッグスリーとは、言うまでもなくゼネラルモーターズ(GM)、フォード、クライスラーですが、一番歴史があるのが1903年6月16日に創業したフォードです。
フォードはビッグ3の中でもっとも経営状態はいいのですが、それでも2008年通期決算で1.3兆円の赤字を記録してしまいました。いったい米自動車産業はどうなるんでしょう?
フォードは世界の自動車王と呼ばれたヘンリー・フォード1世が作ったわけですが、その第1号車(1896年)と大量生産に成功した工場の写真(1913年)を公開しときます。今から見ると、ママゴトみたいですね(笑)
フォード第1号車と大量生産に成功した工場