「樟脳」の日本史
あるいは富士フイルムの誕生

セルロイドの加工作業
セルロイドの加工作業



 1932年(昭和7年)12月16日、日本橋にあったデパート「白木屋」では、クリスマスを前に大規模なセールがおこなわれていました。4階のおもちゃ売り場には大きなクリスマスツリーが飾られています。

 開店直後、ツリーの豆電球が壊れているのを店員が見つけ、修理しようと電線をいじったところ、そこから火花が散りました。この火花は、山積みにされたセルロイド人形に引火し、瞬く間に猛烈な火災となりました。火は止まることなく、地上8階の建物の4階から8階までを全焼し、日本初の高層ビル火災となったのです。

セルロイドのおもちゃ・筆箱
セルロイドの玩具や筆箱(和倉昭和博物館とおもちゃ館)


 この大火災を機に、燃えやすいセルロイド製のおもちゃの危険性が社会問題となりました。そのため、一時、セルロイド製品は街から消えましたが、プラスチックのない時代、代替品はなく、結果として再び流通することになります。セルロイドは、加工のしやすさと着色の容易さから、おもちゃだけでなく眼鏡のフレーム、洋服の襟(カラー)、筆箱、食器などに幅広く使われましたが、それだけ重要な原料だったことがわかります。

 セルロイドは、大木になる「クスノキ」から取れる「樟脳(しょうのう)」を主原料とする合成樹脂です。この樟脳、昔から専売されるほどの重要産品で、実は日本の近代化を大きく支えました。今回はそんな樟脳の日本史をまとめます。


太宰府天満宮の回廊の屋根を突き抜けたクスノキ
太宰府天満宮の回廊の屋根を突き抜けたクスノキ


『古事記』の仁徳天皇の条(および『日本書紀』の応神天皇の条)に、クスノキらしき大木を切って丸木舟にしたところ、非常にスピードが出たため、この船を「枯野(からの)」と名づけたと記録されています。この「枯野」、一説には南洋の「カヌー」が語源ではないかとも言われますが、それはさておき。

 この高速船は、淡路島の水を朝廷に運ぶなど非常に役立ちましたが、壊れてしまったため、薪にして塩を焼くのに使われました。おそらく、このとき、スーッとした、いまで言う「防虫剤」のような香りがあたりに漂ったはずです。その後、残った木を楽器にしたところ、はるか遠くまで美しい音色が響いたと記されています。

 クスノキは、加工しやすいうえ、虫がつきにくく、さらや腐敗に強いため、古くから船や仏像の材料に使われました。また、防虫効果からタンスにも多く使われました。


クスノキの蒸留窯(台湾)
クスノキの蒸留窯(台湾)


 そして、このクスノキを細かいチップにして、「甑(こしき)」と呼ばれる蒸し器で丸1日(昔は5日とも)蒸すことで樟脳が取り出せます。噴き出してくる蒸気をパイプで集め、水で冷却するとゼリー状に固まります。それをすくい取って圧縮機にかけると、真っ白い樟脳と樟脳油にわかれるのです。

できあがった樟脳(台湾)
出来上がった樟脳(台湾)


 樟脳油(淡黄色の液体)をさらに精留すると樟脳だけでなく、赤油(農薬などの原料)、白油(防虫・防臭剤、塗料、香料の原料)、藍色油(香料、殺虫剤の原料)が取り出せます。

 樟脳は、昔から虫除けとして愛用されました。また、樟脳を精製したものは、強心剤にも使われます。クスノキは学名を「Cinnamomum camphora」といいますが、「Cinnamomum」はシナモン、「camphora」はいわゆるカンフル(剤)のことです。

樟脳の精留による赤色油、白色油、藍色油の製造(台湾)
樟脳の精留による赤色油、白色油、藍色油の製造(台湾)


『魏志倭人伝』にも「倭国にはクスノキがある」と書かれていますが、昔からクスノキは日本の名産として知られてきました。2006年には、クスノキが自生しない韓国の古墳からクスノキ製の棺が出土、鉄の見返りにクスノキの木材を送ったのではないかという説が浮上しました。

 時代が下って、江戸時代になると、徳川家康は東南アジア諸国との朱印船貿易を確立します。主な輸出品は、銀・銅・硫黄などの鉱物が多く、さらに陶器や漆器、もちろん樟脳も含まれています。

 江戸時代、長崎のオランダ商館から中国やヨーロッパに輸出された樟脳は、ほとんどが薩摩産でした。

 鹿児島県日置市には、「樟脳製造創業之地」の石碑が立っているそうですが、近隣の薩摩焼宗家に伝わる記録によると、島津義弘が朝鮮出兵で連行した技術者・鄭宗官が創業し、その製法を周辺に伝えたとされます。薩摩藩が編纂した地誌『三国名勝図会』によると、鹿児島内の産地は樋脇、中郷、羽月、大根占、鹿屋、種子島など。

 戦前に刊行された『鹿児島県史』第2巻には、《薩摩樟脳は世界的貿易品であった》と書かれています。実際、『オランダ和蘭商館日誌』には、「1641年(寛永18年)、樟脳5000斤引き渡し」「1650年(慶安3年)、樟脳を毎年5万斤供給すると契約」などと記載されてます。

道野樟脳製造所遺構
道野樟脳製造所遺構(鹿児島県枕崎市)のかまど


 その後、薩摩藩は利益を独占するため、専売制を実施し、すべての製品を藩で押さえました。薩摩藩の財政は、砂糖に並び、樟脳が支えたのです。

 実は、樟脳の製造法は、薩摩から土佐に伝わり、幕末には「土佐式製脳法」が生み出され、土佐の財施も支えました。言うまでもありませんが、薩摩と土佐は、明治維新の主役となった藩です。明治維新の主要財源は、クスノキといっても過言ではないのです。

 1861年(文久元年)、薩摩藩の五代友厚は、藩の命令で貿易商グラバーに会い、蒸気船購入の交渉をします。このときはうまくいきませんでしたが、これをきっかけにグラバーは樟脳の輸出に参入します。その見返りに、薩摩藩に武器や艦船を売るようになるのです。一方、土佐藩は、ドイツのクニフラー商会に樟脳を売り、武器を入手しました。

 1863年、生麦事件の報復でイギリス艦隊が鹿児島湾に侵入し、薩英戦争が勃発。薩英戦争でアームストロング砲の威力を知った幕府は、グラバーにアームストロング砲の注文を入れます。しかし、幕府の支払いが滞ったことで、この大砲は官軍の手に渡る事態も起こりました。

アームストロング砲
アームストロング砲(佐賀県立佐賀城本丸歴史館)


 1869年(明治2年)、アメリカの発明家ジョン・ウェズリー・ハイアットが、樟脳を可塑剤にしたセルロイドを発明します。もともとは象牙で作られていたビリヤードボールを作るためでしたが、その後、入れ歯やピアノの鍵盤にも使われます。プラスチックのない時代、自由に成形できる材料は セルロイドしかなく、非常に重宝されたのです。

セルロイドの製造
セルロイドの製造(断裁)


 1895年(明治28年)、日清戦争に勝利した日本は、台湾を手に入れます。台湾にはすでに樟脳産業がありました。そのため、一攫千金を狙おうと、日本から多くの山師やビジネスマンがやってきます。

 台湾の森林を大規模に押さえたのが、奈良の林業王・土倉庄三郎の次男・龍治郎でした。龍治郎はクスノキの山林1万ヘクタールを300年租借することに成功し、台湾の山林王となりました。龍治郎は、台湾で水力発電を進め、「電力の父」とも呼ばれます。

台湾征伐
台湾征伐(1895、五姓田芳柳・画)


 一方、1890年(明治23年)から樟脳の取り扱いを始めていたのが、大商社「鈴木商店」です。責任者となったのは、土佐出身だった金子直吉。台湾の領有が決まると、すぐに台湾に参入しました。当初、台湾総督府は樟脳事業を許可制とし、新規参入は認めませんでしたが、1899年になると台湾樟脳専売制度が導入されました。
 
 鈴木商店は、専売制施行と同時に台湾樟脳油の65%を押さえました。その後、製造業にも乗り出し、セルロイドで大儲け、最盛期には三井物産をはるかに凌ぐほどの勢いを見せたのです。しかし、鈴木商店は1927年(昭和2年)、昭和金融恐慌により破綻。この鈴木商店の樟脳事業から、「日本精化」と「日本香料薬品」が誕生しています。


台湾総督府
台湾総督府(現・中華民国総統府)


 1934年(昭和9年)、台湾の専売事業は、煙草、樟脳、塩、アヘンの4つがありました。金額でいうと、煙草1524万円/樟脳860万円/塩 270万円/アヘン255万円で、総額4630万円です(『拓務統計便覧』1935年)。こうした利益が日本の戦費を支えたのも間違いありませ ん。

■日本製フィルムの誕生

戦前の写真フィルム
戦前の写真フィルム(ペンタックス・カメラ博物館)


 さて、1919年(大正8年)は、日本のフィルムの歴史で、非常に重要な年となりました。当時の写真は、ガラスに乳剤を塗った「乾板」で写真を撮り、それを塩化銀ゼラチン乳剤を塗った「印画紙」でプリントするのが基本です。この年、
写真用乾板の工業化に成功した「東洋乾板」と印画紙を開発した「オリエンタル写真工業」が誕生したのです。

 さらに、国内業界8社が合併して「大日本セルロイド」も誕生しました。大日本セルロイドは、セルロイドの新しい用途として、写真フィルム、映画用フィルムの開発を目指します。

セルロイドの着色
セルロイドの着色


 フィルムは、1889年(明治22年)、ジョージ・イーストマンが創業した米コダックが、セルロイドに乳剤を塗って実用化します。これによって、写真が一気に普及していくわけです。その後、現像液ロジナールで有名なドイツのアグファも製造に成功しますが、日本にはまったく製造技術がありませんでした。大日本セルロイドはコダックに協力を求めますが、あえなく拒否され、独自開発の道を選ぶことになります。

 しかし、フィルムの開発はなかなか進みません。そうしたなか、1921年(大正10年)には、コダックやアグファが日本に代理店を開設し、本格的に進出してきます。同時に、日本では「活動写真」つまり映画が大衆娯楽の王様となっていきました。このままでは、日本市場をすべて外資に奪われてしまいます。

大日本セルロイドの工場
大日本セルロイドの工場



  フィルム製造で、どうしても解決できなかった問題が2つありました。
 ひとつはゼラチンを水平に塗れないこと、もう一つは梅雨時から夏にかけて、製造したフィルムを上手に剥がせないことでした。

 水平に塗布するのは、まず冷風でゼラチンを固めてから、乾燥温風で水分を蒸発させるとうまくいくことがわかりました。この技術は、1929年(昭和4年)頃に解決しました。また、フィルムを機械からうまく剥がせない理由は、日本の気候が高温多湿だったから。そのため、大日本セルロイドは、コダックが採用していた「空調」を、おそらく日本で初めて工場に導入します。

 1930年、同社は日産10トンの冷凍能力を持つ製氷機による温度・湿度調節と空気洗浄装置を設置。これは予想以上の効果をおさめ、製帯機からのフィルム剝離が夏でも容易になりました。同時に、工場内の防塵効果も高まり、さらに溶剤ガスの充満による危険は減るという絶大な効果がありました。こうして、高温多湿な日本でもフィルムが製造できる見通しがついたのです。

 1933年、同社は完成した「大日本フイルム」で撮影した映画を財界人の前で披露。その後、大量生産するにあたり、水の豊富な足柄に新工場を設立しました。これが「富士写真フイルム」の始まりで、ついに映画用フィルムの国産化が実現するのです。

富士フイルム
富士写真フイルム『創業25年の歩み』より


 このように、セルロイドは長く日本の発展を支えました。しかし、戦後になると、安価な石油製品が誕生し、明治から続いた専売制度は1962年(昭和37年)4月に廃止されました。これで樟脳は自由に取引できるようになりましたが、もはや、産業としてほぼ成り立っておらず、その重要な歴史を知る人も少ないのです。

コダックと写真の誕生

制作:2023年9月21日

<おまけ>

 1984年9月3日、東京都中央区の「東京国立近代美術館フィルムセンター」(現在の国立映画アーカイブ)のフィルム保存庫から出火し、国内外の多くの映画が焼失しました。昔の映画フィルムは可燃性のセルロイド(ニトロセルロース)製のものが多く、センターにも自然発火を防ぐクーラーが設置されていましたが、この日は涼しかったため、停止していたのです。この火災で、映画作品421のうち、330が焼失しました。

 なお、この燃えやすいフィルムは「ナイトレート・フィルム」と言いますが、後に不燃性のダイアセテートを使ったフィルムも開発されます。こちらも富士フイルムが開発に成功したものです。

大量の樟脳(台湾)
大量の樟脳(台湾)
 
© 探検コム メール