ニッポン「貨幣経済」の誕生
それはフェイクニュースから始まった

和同開珎
和同開珎(造幣さいたま博物館)


 かつて日本には、「絵銭」というオモチャのお金がありました。
 円形方孔の銭を模した型に「七福神」や馬を引く「駒曳(こまひき)」などの絵を描いたもので、念仏や題目など文字だけの場合もありました。

 江戸初期から流行り、寺社の参詣時や家の新築時に配られ、お守りやまじない用に使われました。また、子供向けの石蹴りやメンコの道具としても使用されました。

 1732年(享保13年)に出版された『和漢孔方図会』には、さまざまな絵銭が掲載されています。
 こうした絵銭は、中国では厭勝銭(ようしょうせん)、朝鮮では別銭と呼ばれ、東アジア一帯に広まっていたことがわかります。

絵銭
絵銭(国会図書館『和漢孔方図会』)


 1729年の『珍貨孔方鑑』には、厭勝銭の一つとして、「富本銭」が掲載されています。単なる江戸時代の招福コインだと思われていた富本銭ですが、実はこれが日本初の通貨だと判明したのは1999年のことです。奈良県の工房跡・飛鳥池遺跡(7世紀後半〜8世紀初)で多数出土し、ここで作られた日本最古の鋳造貨幣と判断されました。

富本銭
富本銭(国会図書館『珍貨孔方鑑』)


 かつて日本最古とされてきたコインは「和同開珎」で、平城京造営が始まった708年に鋳造が始まりました。その根拠は『日本書紀』に《始めて銀銭を行う》とあるからですが、実は『日本書紀』には、それ以前にも通貨があったように書かれています。
 いったいどういうことか。

和同開珎の鋳型「銭笵」
和同開珎の鋳型「銭笵(せんぱん)」
(山口県長府鋳銭所の跡から出土)


 日本最古の貨幣使用記録は、『日本書紀』486年(顕宗天皇2年)10月6日の項目です。

《このとき天下は泰平で、民に徭役(強制労働)なく、歳しきりに稔りて、百姓は富み、稲は1斛が銀銭1文と交換され、馬は野に広がった》

(是時天下安平、民無徭役、歳比登稔、百姓殷富、稲斛銀銭一文、馬被野)

 しかし、これは『後漢書』の
「是歳天下安平、人無徭役、歳比登稔、百姓殷富、粟斛三十、牛羊被野」
 を転載したもので、真実性に欠けるとされています。

 後漢では五銖銭という銅銭が使われており、粟1斛が銅銭30枚と等価ということです。『日本書紀』が『後漢書』を引き写したのに、なぜか銅銭30枚が銀銭1枚に書き換えられています。つまり、このときすでに通貨のレートという概念が存在していたことがわかります。

五銖銭と鋳型
五銖銭と鋳型(国会図書館『東亜銭志』第8)


 続く674年(天武天皇3年)、対馬から銀が献上されますが、これが日本最古の鉱物発見記事です。

 そして9年後の683年(天武天皇12年)、《今後、必ず銅銭を使い、銀銭を使うな》との詔勅が発布されますが、3日後に《銀は使ってもよい》とされました。

 ここからわかることは、

・日本にはかつて銀貨が存在したが、683年、銅貨が採用された。
・銀貨は禁止されたが、銀を地金として使うことは許された。

 ということです。このとき採用された銅貨が「富本銭」で、それ以前に存在した銀貨は「無文銀銭」と呼ばれています。そして、翌684年、新しい都「藤原宮」の建設が決定します。

無文銀銭
無文銀銭(国会図書館『古泉大全』)


【通貨決定→新しい都】という流れは、続く平城京でも見られます。以下、『日本書紀』『続日本紀』から貨幣がらみの年表を引用します。

 691年 伊予国から銀が献上
 698年 因幡国、周防国から銅が献上
 708年 武蔵国・秩父から銅が献上
  →慶事として「和銅」に改元し、まずは銀で、ついで銅で「和同開珎」鋳造開始
 709年 銀銭の使用禁止
 710年 平城京遷都

 唐の「開元通宝」を参考に「和同開珎」が作られ、以降、公的な通貨「皇朝十二銭」が相次いで発行され、日本は銅貨による国家体制が確立していきます。

開元通宝
唐の「開元通宝」


 ちなみに、秩父では、遺跡は残っているものの、銅の鉱脈自体は確認されていません。たまたま自然銅(精錬しなくてよい銅)が出た可能性はありますが、きわめて少量だったはずです。実際、和同開珎や皇朝十二銭のほとんどは山口県・長登銅山の銅で作られたと断定されています。

 銅自体はそれ以前から献上されており、秩父からの献上が改元するほどの大事件とは思えません。つまり、おそらくは意図的なフェイクニュースにより、新たな国家体制が宣言されたのです。

《和同開珎発行に先立って神与の吉祥があり、その発行は年号を改めるほどの重大事であることを天下にアピールするための、創作に近いものだったのではないだろうか》(『富本銭と謎の銀銭』)


聖神社(秩父)
自然銅を御神体にした聖神社(秩父)


 なお、「和同開珎(銀)」と「和同開珎(銅)」は同じ形・大きさで、等価とされました。政府は、ほとんど価値のない銅貨を銀貨と同じだと宣言することで、何十倍もの利益を上げることに成功します。
 
《和同銀銭は6分の1両以下の重量しかないのに重量4分の1両の無文銀銭と等価のものとされ、和同銅銭はとるにたらない金属価値しかないのに和同銀銭と等価のものとされた。和銅元年における貨幣発行に至る整然とした過程は、この政府の一方的な交換比率を国民に受け入れさせ、無文銀銭1枚の価値を和同銅銭1枚の価値に転写するための用意周到なプログラムだったのである》(同上)

 よく言われますが、1万円札は単なる紙で、その紙そのものに1万円分の価値があるわけではありません。国民が単に「1万円分の価値」があると思いこんでいるだけです。同じように、このとき、国民は和同開珎に価値があると思い込まされたのです。

足尾銅山の銅鉱石
足尾銅山の銅鉱石


 711年、政府はコメと銅貨の交換比率を公定。712年には役夫が銅貨でコメを買えるよう決定し、銅貨が庶民の間に普及していきます。

 しかし、貨幣の普及と同時に、ニセガネ作りの歴史も始まりました。日本最古の仏教説話集『日本霊異記』には、こんな話が書いてあります。

《聖武天皇の時代、大和の法起寺から銅製の観音像6体が盗まれ、行方知れずとなった。後に池からこの像が見つかるが、人々は「盗人が銅銭を偽造しようと盗んだものの、手に負えなくなって捨てたのだろう」と噂した》


 政府は711年、「私鋳禁止令」を出し、贋金づくりを禁止しています。

貨幣の鋳造(足尾銅山)
貨幣の鋳造(足尾銅山)


 さて、聖武天皇は、743年、「盧舎那大仏建立の勅」を発布し、東大寺の大仏作りを命じます。
「大仏殿碑文」によると、約16mの大仏を作るのに、銅73万9560斤(約500トン)、錫1万2618斤、金1万446両、水銀5万8620両、炭1万6656石が必要だったとされています。この銅の多くもまた、山口県の長登銅山産でした。

『東大寺要録』の「縁起章・造寺材木知識記」には、業務に関わったのべ人数が次のように書かれています(中公新書『和同開珎』より孫引き)。

 材木の専門家 5万1590人 役夫166万5071人
 金メッキの専門家 37万2075人 役夫 51万4902人
 
 ここには大口寄進者も書かれていますが、豪族10人のうち、7人が銭を寄進しています。銅貨が広く流通することで、こうした寄進も簡単にできるようになりました。和同開珎は、新しい国家づくりに大きく役立ったことがわかります。

奈良の大仏
奈良の大仏


 しかし、大仏の建立によって、大きな社会問題が発生します。
 文献上の記録はありませんが、鍍金(金メッキ)作業があまりに大規模だったため、役夫50数万人のなかに膨大な数の水銀中毒患者が生まれたはずなのです。それは平城京の民に「祟り」にも似た畏怖を引き起こし、結果、平安京への遷都が進んだとされています(香取忠彦『奈良の大仏』による)。

「円」が作った化学工業
制作:2018年6月13日


<おまけ>

 長野県高森町にある円墳「武陵地第1号古墳」では、富本銭が発掘されています。
 685年、朝廷は信濃に役人を派遣し、「副都」にあたる「行宮(かりみや)」を作ろうとしたと『日本書紀』に書かれています。天武天皇が実際に建設した副都「難波宮」(大阪府)近くでも富本銭が出土しており、行宮作りに協力した有力豪族に富本銭を下賜した可能性が高いのです。
 長野県では20数枚の和同開珎も出土しており、都との近さが伺えます。

<おまけ2>

皇朝十二銭
皇朝十二銭

上の段右から
和同開珎(銀)708年/和同開珎(銅)708年/開基勝宝(日本初の金貨で皇朝十二銭ではない)760年/万年通宝760年/神功開宝765年/隆平永宝796年/富寿神宝818年/承和昌宝835年/長年大宝848年/饒益神宝859年/貞観永宝870年/寛平大宝890年/延喜通宝907年/乾元大宝958年/開元通宝(中国)

 なお、「和同開珎」は漢字を時計回りに読みますが、モデルとなった「開元通宝」は、上下右左の順に読みます。そのため、「開元通宝」は本当は「開通元宝」だったとの説もあります(『旧唐書』にその表記がある)。
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